神武天皇、即位建都(そくいけんと)の大詔(おおみことのり)には
次の如(ごと)く 書かれているのであります。
「・・・夫(そ)れ 大人(ひじり)の 制(のり)を立つる、義(ことわり) 必ず時に随(したが)う。
苟(いやしく)も 民(たみ、おおみたから)に利(くぼさ)有(あ)らば、
何(なん)ぞ 聖(ひじり)の造(わざ)に 妨(たが)わむ。
且(また)当(まさ)に 山林(やまばやし)を披 (ひら)き払(はら)い、
宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、恭(つつし)みて 宝位(たかみくら)に臨み、
以(もつ)て 元元(おおみたから)を 鎮(しず)むべし。
上(かみ)は 則(すなわ)ち 乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(うつくしび)に答え、
下(しも)は 則ち 皇孫(すめみま)正(ただしき)を養いたまう心を弘(ひろ)めん。
然(しか)して後(のち)に 六合(くにのうち)を兼ねて 以(もっ)て 都(みやこ)を開き、
八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや。
夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)、橿原(かしはら)の 地(ところ)を
観(み)れば、蓋(けだ)し 国の墺區(もなか)か、治(みやこつく)るべし 」
これを略解(りゃくかい)して見ますと、
「 思うに 大人(ひじり)が制度を立てるにあたっては、必ずその時勢に順応(じゅんのう)した
良い制度を立てなければならぬ。
苟(いやしく)も 人民の利益になる事であったならば、たとい聖人の制定したものであっても、
その制度を変更するに何の妨(さまた)げがあろうや。
( 註、ここに日本天皇の民主主義的性格があらわれているのであります )
朕(ちん)は、いま山林をひらき伐採(ばっさい)して 宮殿を築造経営し、
恭(うやうや)しい心持で 天皇の位に即(つ)き、人民の安寧(あんねい)と幸福とをはかるであろう。
そして上(かみ)は、神が国を授けたまう其(そ)の御神徳(ごしんとく)に答え奉(たてまつ)り、
下(しも)は皇孫(こうそん)以下が正しい心を養成するよすがとし、
そして天下を治める為の都をひらき、その徳をひろめて、世界の八方の荒れたる隅々(すみずみ)までも
一つの家庭として 人類は皆 兄弟として 互に手をつなぐべき目的を実現するために、
畝傍山(うねびやま)の東南、橿原(かしはら)の地に都をつくるであろう 」
この詔勅(しょうちょく)には 何処(どこ)にも侵略的な精神は見られないのであります。
世界を一家族として、人類を兄弟とする其(そ)の中心地として畝傍山(うねびやま)の東南の
橿原(かしはら)の地に都をつくろうと仰(おお)せられたのでありまして、
まだ此(こ)の詔(みことのり)には 「 大和国(やまとのくに) 」 と云(い)う国号は
あらわれておりませんが、此の橿原の地を中心に「大和国」と称せられることになったのでありまして、
「大和(やまと)」 の国号そのものにも 全世界の人類が一つの家族として和合すると云(い)う
建国の理想があらわれているのでありま す。
( 谷口雅春先生 昭和 30 年 『 生長の家五十年史 』 437頁 )
天照大御神の 「 天壌無窮の神勅 」
「 豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、
代々(よよ) 吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
宜(よろ)しく いまし皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。さきくませ。
宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと 天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし。」
『 日本書紀 』
( 要約 )「 この日本国の中心は 天照大御神の子孫たる天皇であり、
その天皇がこの国を統治すれば、天地がつづく限り、日本は永遠に栄えるであろう。」