常に 人々を 祝福する想念を 放送せよ。
神想観のときは無論のこと、電車に乗っていても、道を歩いていても、
机に向っていても、無駄な想念を起すかわりに、人々を祝福する想念を
起すようにするならば、その想念は、(特定の人を名指(なざ)さない時は)
全人類のうちの その想念を感受し易(やす)い人の潜在意識に受信されて、
その人に何(なん)らかの恵福(けいふく)を与えると共に、そこに種子(たね)を
おろして増幅(ぞうふく)して、その祝福が 自分に帰って来ることになるのである。
如何(いか)なる小さき 「 善(よ)き想念 」 も
決して永久に 失(うしな)われるということはないのである。
何故(なぜ)なら 吾々の 「 善き想念 」 は実在の世界に存在する 「 善き想念 」 の
延長であるから、 “ 永遠の実在 ” として働きつづけるのである。
これに反(はん)して 「 悪(あ)しき想念 」 は 吾々が 光の方に振り向けば 消えてしまう。
何故(なぜ)なら それは 「 実在の世界 」 には存在しない根無(ねな)し草(ぐさ)で
あるからである。
谷口雅春 先生
新版 『 栄える生活365章 』 (212~213頁) 日本教文社
神想観のときは無論のこと、電車に乗っていても、道を歩いていても、
机に向っていても、無駄な想念を起すかわりに、人々を祝福する想念を
起すようにするならば、その想念は、(特定の人を名指(なざ)さない時は)
全人類のうちの その想念を感受し易(やす)い人の潜在意識に受信されて、
その人に何(なん)らかの恵福(けいふく)を与えると共に、そこに種子(たね)を
おろして増幅(ぞうふく)して、その祝福が 自分に帰って来ることになるのである。
如何(いか)なる小さき 「 善(よ)き想念 」 も
決して永久に 失(うしな)われるということはないのである。
何故(なぜ)なら 吾々の 「 善き想念 」 は実在の世界に存在する 「 善き想念 」 の
延長であるから、 “ 永遠の実在 ” として働きつづけるのである。
これに反(はん)して 「 悪(あ)しき想念 」 は 吾々が 光の方に振り向けば 消えてしまう。
何故(なぜ)なら それは 「 実在の世界 」 には存在しない根無(ねな)し草(ぐさ)で
あるからである。
谷口雅春 先生
新版 『 栄える生活365章 』 (212~213頁) 日本教文社