ただいま妄想中

夢、かつリアルな頭の中身をどこへ。

いま、すでに光の中

2009-02-20 09:39:43 | Weblog
遅ればせながら「白い巨塔」に夢中になっている

話題になっていたのは知っているけれど
原作(本)もドラマも、これまで見たことがなかったので。

DVDを借りて来て、ひたすら見ている
いまやっと、12話が終わったところ。

泣いたり、笑ったり、ドキドキしたり。

人間の弱さや汚さを、実にうまく描いてある

自身の煩悩の海に溺れながら、もがく。

そこに果たして「ほんとうのしあわせ」があるのだろうか。

求め続けた理想の場所に

あの手この手で、必死にたどり着いたかと思うと
それは瞬時に色あせて、更なる欲望が生まれる。

また新たな苦悩と対峙することになり

どこまで行っても、しあわせにはなれない。


それはまるで、自分の「周りの出来事」が
思うように進まず、苦しんでいるように見えるけれど

一番の原因は、実は苦を生み出している
「自分」そのものである。

いまここにある自分が、すでに幸せであることに
気づくことができない

それを、不幸と言う。


・・・なんていうことが、ドラマを通して見ていると
客観的に、とてもよくわかる。笑。


自分のことは、なかなか見えないものですが。

ドラマを見ていると、

「だから、あかんのやわぁ~

「もう、そんなに求め続けるからやぁ。全然幸せじゃないやん

なんて、言えたりする。


ドラマは誇張してあるけれど、
人間の「煩悩」を凝縮している事に、間違いはなく。

自分は違うつもりでいても。

実はこれが、そっくりそのまま自分にも、あてはまる・・・
はずで。そう思うと、恐ろしいものだなぁ~。


走って逃げても、煩悩も一緒について来るからなぁ~。


思うに。いろんなものに降参をすることで、
逆にそこから、開けてくる世界がある。

自我に囚われてある、自分であることを知らされる。


茂木さん、ひささんが、コラムに「無知の知」を
書かれていたように。


知ろうとすることで、知り得たと思う殻を割り

かつ、知ろうとしても、知り得ないことがあるのだと

さらに知らされるところに、光が差す



大峯顕さんの本にあった。

『上へのぼったら助かると思っていた、仏教の常識を破ったのが
親鸞聖人であり。

煩悩を持った罪悪衆生の凡夫を、
そのままで救うという阿弥陀様のお心に、おまかせするのみと。』


あらゆる命は、もうすでに、光の中でありました

もったいないことだなぁ・・・。
コメント
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