ただいま妄想中

夢、かつリアルな頭の中身をどこへ。

目覚めの教え

2009-05-08 20:46:22 | Weblog
法座4日目が、終わったところです

ご講師は、藤田徹文先生です。
「目覚めの教え」という講題で、お話いただいています。


先生のお話、ものすごいデス・・・


ひと言ひと言。じわぁぁぁぁぁっと、しみこんできます。


毎日ひと言たりと、聞きもらしたくないと
録音しながら必死にメモをとりつつ


法のシャワーをいただく。



先生は眼底出血で、階段の段もわからないほど
目が見えておられない、、、。


けれど。そんなことを微塵も感じさせない

素晴らしすぎるご法話・・・。



せっかくなので。コラムを読んで下さる皆さんにも


先生のご法話のメモを、ちょっとお届け



この世のあらゆるものは、繋がっている。


分別で「他」を切って、線を引くと
枠ができて、一人になる。


「他」とは、他人、自分と関係ないもの、ではなく。


「他」によって、わたしが成り立っている
「他」によって、わたしが存在している


わたしを、わたしたらしめるもの。


利他のところに、自利がある。




数字→わかったつもりになるが、真実と遠く抽象的。

真実に近いものは、黙って笑顔。
その次に近いのが、名前を呼ぶ事。その次に物語。



わたしに見えない、わたしの思いが及ばないところに、
大きなはたらきがある=他力



流れて転んで人生を終えることほど、悲しいことはない。
迷いのまま命を終えることは、仏教における一番の哀れ。


幸せとは何か?の前に、不幸から抜け出す。
生死流転(迷い)より出づる。


生死流転とは、いま煩悩に引きずられていることに
気づかずに生きていること。「いま」の話。



すべての人が等しく生死を出づる道は
阿弥陀様のはたらきかけを、いただいていく道。



この身がどこにあろうと、この身は法の中にある。


仏教とは、絶対者にすがって
自分の叶わない事を、祈って叶えてもらうのではない


法の方から目覚めよ、目覚めよ=仏教
(すべての人が目を覚ませ=大行)


手を合わそうと合わすまいと、祈ろうと祈らまいと
もう既に法の中にいる


デカルトの→我思うが故に我あり、の様に表現すると

☆☆ 法あるが故に我が命あり


線を引いて、我にとらわれ
我が「身」をふさぐから、法の中にあっても目覚めない


我執の殻を破って、法に出遇う。
小さなとらわれを捨てて、気づく。


自力の反対語が、他力ではない。
100%自力、はない。

自力とは、法のはたらき99,9だけど
自分の努力0,1を認めて欲しいというもの。


仏教=法に生かされている

100%他力=浄土真宗。何もかも、お陰様そのもの


子が、お母さんと呼ぶようになるのは
呼ばせる親のはたらきが、その前にあるから。

親の愛が届いて、名前を呼ぶようになる。


親の命に触れたら、親の名を呼ばずにはおられない
用がなくても、お母さんと呼ばずにおられない


いただいた、この命を、今どう生きるか
しっかりとこの人生を見つめて生きよう

しっかりしたものの上に立って、生きる。



以上、この4日間の、徹文先生ご法話のメモです。


ご法話をお聴聞させていただいて

本当にしあわせです、、、。


このしあわせを、みなさんの元へ・・・
コメント (4)
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