ただいま妄想中

夢、かつリアルな頭の中身をどこへ。

くるしみの壺

2010-06-12 18:44:39 | Weblog
きょうは、朝8時前から

支坊の奉仕活動(お掃除)があって





午後12時~夕方5時頃まで、お寺で

仏教婦人会の、総会があった






終わってから、ぶらりとお寺を訪れた

若者がいたので、若院といっしょに






ようこそ、ようこそ!とおしゃべり。

6時の鐘をついてから






さっき帰宅

ちょっと疲れたね~。。






きょうの総会では、ご講師の白須先生に





「うたがひは、かくて深くもなるものか」

~九条武子その苦悩と信仰の世界~ という講題で





お話をいただきました






九条武子さんは「三大女流歌人」のおひとりで





与謝野晶子さん、柳原白蓮さんと共に

名を残された方です。






西本願寺大谷家の、娘さんであり

(第22世・大谷光瑞ご門主の、妹さんです)





清らかで澄んだ、とても美しい方だったそうで

歌人であると同時に、日本画家でもあったそうです。





その、武子さんも

わたし達と同じように、生きていく上で





いろいろな苦悩に、直面されました。





『この胸に ひとの涙も うけよとや 


われみずからが くるしみの壺』






これは、武子さんの歌です。





白須先生より、この歌とともに

深川倫和上の理解、をお話いただきました。






いただいた資料を元に、ご紹介します。







『私の苦しみにてござ候。私の一部分が苦しみではなく候。


私が苦しみにてござ候。苦しみの充満にてござ候。


私は壺にてござ候。壺には涙が一杯にてござ候。


私の流した涙にてござ候。壺も涙が入らぬにてござ候。


私自身の涙も壺からこぼれる程にてござ候。


 
 昔、この壺は空にてござ候。昔、この壺は仕合わせで出来ていると


思うたのに候。昔、この壺は仕合わせの入れものと思うたのに候。


昔、この壺は仕合わせが一杯と思うたのに候。・・・今は涙が一杯に


あふれてござ候。みな私の涙にてござ候。今、み仏から苦しみを


もらったのにござ候。(深川倫和上の理解)』




武子さんは




これが煩悩の仕組みである

仏様が涙を与えて下さったのだと





気づかれた






悲しみの中から、喜びを見られたのであると

白須先生は、お話下さいました。





わたしは「くるしみの壺」の歌と

深川和上のお味わいを、読ませていただいて






涙があふれそうになりました、、、





特に、私の一部分が苦しみなんじゃなくって

私が苦しみそのものでありましたという、ところ。






われみずから=くるしみの壺である、というところ。






苦しみとは、どこか、よそから来るものではなく

誰かから、与えられるものでもなく






他の何でも誰でもない、この私自身でありましたと

見つめておられる武子さん、、、





わたしも





悲しみも、よろこびも 

すべてを引き受けられる壺でありたい、、






そう感じさせられた瞬間でした。
コメント (2)
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