5月20日(金)に宮城道雄記念館で尺八の演奏をしてきた。
この催しは「島村洋二郎生誕百周年の集い」で副タイトルが「知られざる天才画家の生涯と音楽」と銘打って行われた。
私は「宮城道雄記念館」は初めて入館した。以前から一度は訪ねてみたいと思っていたところ、縁があっての入館だった。
1階には宮城道雄の経歴や、使用した箏、開発した十七絃、八十絃、使用した尺八や三絃、胡弓、さらに作曲した点字譜や生活用品として、靴や杖までもあった。
私は12時前に入館して、会場の地下一階の講堂で音出しをした。
もうクラリネットの福沢さんは、ピアノとリハーサルをしていた。
島村洋二郎(1916年~1953年)は信州飯田に疎開していた時もあり、最初の奥さんは飯田出身で、彼は昭和16年に飯田で個展を開いていた。
その後飯田で大火があり、東京に来た時に神楽坂の宮城道雄の住まいの隣だった縁である。
そんな縁で島村洋二郎展を、今回は宮城道雄記念館で開催した訳である。
会場には、島村洋二郎の絵画や、資料が展示されており、作風は「青」を基調とした初期のピカソ的な絵であった。
午後1時から映画「島村洋二郎の眼差し」が上映されて1時間、絵画と時系列に経歴等が分かり易く解説されていた。病により惜しまれて37歳で亡くなった。
そして、島村洋二郎と宮城道雄の関連人脈図の説明が牧内氏によって語られた。
人脈ではさらに寺田寅彦や田辺尚雄らとのつながりが解った。
その後、島村洋二郎が残したノートの「叫び」などの朗読があり、演奏会に移った。
先ず、ピアノとクラリネットによる合奏。クラリネットは同じ飯田高校出身でブラバン先輩の福沢さんだ。福沢さんの本業は、デザイン会社の社長である。
「アメイジンググレース」「G線上のアリア」「霧のサンフランシスコ」「スターダスト」それにベニーグッドマンの曲で、柔らかい音色であった。なにしろ50年以上クラリネットを吹き続けているのだ。
次が私だ。いきなり「仁義」のイントロを演奏、そして仁義を切った。
「手前生国と発しますところ、信州飯田です。天竜川で産湯を使い、姓は北原、名は康夫。人呼んで尺八の北原と発します。」
天竜川で産湯なんて真っ赤なウソである。
宮城道雄記念館だから、当然「春の海」を演奏。私に与えられた時間は10分で、選曲に苦労した。
「春の海」は全曲演奏すれば長いから、一曲でおしまいだ。しかも箏が無いし時間が無いので、最初の部分だけ演奏して次の曲だ。
最低、3曲位は演奏したかったし、尺八の良さを知ってもらいたかった為、少しづつ演奏する事にした。
次はやはり、宮城道雄作曲の「泉」も箏との二重奏曲だが、尺八の最初の部分のみ演奏。(一尺六寸管)
最後は、尺八の流れとして、虚無僧音楽、古典三曲、新日本音楽、現代邦楽、ジャズ、歌謡曲などに使用される話をして、「天城越え」を1番のみ演奏した。ちょうど10分だった。
続いて、飯田出身の笛の美人プロ奏者森田梅泉(ばいせん)による、自作の曲で珍しい木の実の笛や篠笛で、鳥のさえずりや環境的な音楽をバックに、綺麗なメロディーを奏でた。
そして、私の提案で皆さんで「故郷」を3番まで合奏、合唱した。
福沢さんとの合奏は「何と言う事でしょう。ブラバン以来50年振りではありませんか。」
我々はあらかじめリハーサルでちょっと練習していたが、何しろほとんどが初対面であり、異質な楽器の組み合わせである。
ところが、ぴったりはまり盛り上がったので、ついでに長野県歌「信濃の国」を森田さんの笛と尺八でコラボした。もちろんこれはぶっつけ本番である。
流石、森田さんだ。ばっちりと3番まで、楽しく演奏出来た。
終わって、打ち上げと称し5人で神楽坂の「ルブルターニュ」へ行った。
とりあえずフランス産のビールで乾杯し、シードル(リンゴの発泡酒)も飲んだがこれが美味。
そば粉のガレットなる、そば粉のクレープで卵焼きやハムが包んである料理をいただく。
福沢さんと初対面だった私の一番弟子Y氏の挨拶で気が合い、国際情勢まで話が及んだ。
割と軽く済まして、神楽坂散策はY氏の先導で神楽坂の路地裏や石畳を歩いた。ついでに二次会の店も探す事になった。
以前Y氏と来た、名物ばあさんの店は焼失し(ニュースになった)立派なビルになっていた。
又、良く行った「ルバイヤート」はオーナーが代わっていた。いいなと思った店は全て予約で満席だった。
それでもやっと、L字型カウンター席12席ほどの店を見つけて落ち着いた。
二次会は3人になり又、ビールに珍しい地酒冷酒の日本酒を3種類程飲んだ。つまみは主に魚である。
「いさき」焼き、エビ、珍味3種、からすみ、等をいただいた。
割と早くから始められたから、そんなに遅くはならなかった。
演奏会の感想では会場にいたおじさんに「いい音色でしたね」とか「間が良かった」「エンターテイナーだね」と言われた。
ただ良かれと思って演奏した「天城越え」は、「宮城記念館では相応しくなかった」と言う感想もあった。又、「北原らしい演奏だった」とか「北原しか出来ない演奏だった」と言う声もあった。
この是非は後の音楽評論家に判断を委ねよう。
この催しは「島村洋二郎生誕百周年の集い」で副タイトルが「知られざる天才画家の生涯と音楽」と銘打って行われた。
私は「宮城道雄記念館」は初めて入館した。以前から一度は訪ねてみたいと思っていたところ、縁があっての入館だった。
1階には宮城道雄の経歴や、使用した箏、開発した十七絃、八十絃、使用した尺八や三絃、胡弓、さらに作曲した点字譜や生活用品として、靴や杖までもあった。
私は12時前に入館して、会場の地下一階の講堂で音出しをした。
もうクラリネットの福沢さんは、ピアノとリハーサルをしていた。
島村洋二郎(1916年~1953年)は信州飯田に疎開していた時もあり、最初の奥さんは飯田出身で、彼は昭和16年に飯田で個展を開いていた。
その後飯田で大火があり、東京に来た時に神楽坂の宮城道雄の住まいの隣だった縁である。
そんな縁で島村洋二郎展を、今回は宮城道雄記念館で開催した訳である。
会場には、島村洋二郎の絵画や、資料が展示されており、作風は「青」を基調とした初期のピカソ的な絵であった。
午後1時から映画「島村洋二郎の眼差し」が上映されて1時間、絵画と時系列に経歴等が分かり易く解説されていた。病により惜しまれて37歳で亡くなった。
そして、島村洋二郎と宮城道雄の関連人脈図の説明が牧内氏によって語られた。
人脈ではさらに寺田寅彦や田辺尚雄らとのつながりが解った。
その後、島村洋二郎が残したノートの「叫び」などの朗読があり、演奏会に移った。
先ず、ピアノとクラリネットによる合奏。クラリネットは同じ飯田高校出身でブラバン先輩の福沢さんだ。福沢さんの本業は、デザイン会社の社長である。
「アメイジンググレース」「G線上のアリア」「霧のサンフランシスコ」「スターダスト」それにベニーグッドマンの曲で、柔らかい音色であった。なにしろ50年以上クラリネットを吹き続けているのだ。
次が私だ。いきなり「仁義」のイントロを演奏、そして仁義を切った。
「手前生国と発しますところ、信州飯田です。天竜川で産湯を使い、姓は北原、名は康夫。人呼んで尺八の北原と発します。」
天竜川で産湯なんて真っ赤なウソである。
宮城道雄記念館だから、当然「春の海」を演奏。私に与えられた時間は10分で、選曲に苦労した。
「春の海」は全曲演奏すれば長いから、一曲でおしまいだ。しかも箏が無いし時間が無いので、最初の部分だけ演奏して次の曲だ。
最低、3曲位は演奏したかったし、尺八の良さを知ってもらいたかった為、少しづつ演奏する事にした。
次はやはり、宮城道雄作曲の「泉」も箏との二重奏曲だが、尺八の最初の部分のみ演奏。(一尺六寸管)
最後は、尺八の流れとして、虚無僧音楽、古典三曲、新日本音楽、現代邦楽、ジャズ、歌謡曲などに使用される話をして、「天城越え」を1番のみ演奏した。ちょうど10分だった。
続いて、飯田出身の笛の美人プロ奏者森田梅泉(ばいせん)による、自作の曲で珍しい木の実の笛や篠笛で、鳥のさえずりや環境的な音楽をバックに、綺麗なメロディーを奏でた。
そして、私の提案で皆さんで「故郷」を3番まで合奏、合唱した。
福沢さんとの合奏は「何と言う事でしょう。ブラバン以来50年振りではありませんか。」
我々はあらかじめリハーサルでちょっと練習していたが、何しろほとんどが初対面であり、異質な楽器の組み合わせである。
ところが、ぴったりはまり盛り上がったので、ついでに長野県歌「信濃の国」を森田さんの笛と尺八でコラボした。もちろんこれはぶっつけ本番である。
流石、森田さんだ。ばっちりと3番まで、楽しく演奏出来た。
終わって、打ち上げと称し5人で神楽坂の「ルブルターニュ」へ行った。
とりあえずフランス産のビールで乾杯し、シードル(リンゴの発泡酒)も飲んだがこれが美味。
そば粉のガレットなる、そば粉のクレープで卵焼きやハムが包んである料理をいただく。
福沢さんと初対面だった私の一番弟子Y氏の挨拶で気が合い、国際情勢まで話が及んだ。
割と軽く済まして、神楽坂散策はY氏の先導で神楽坂の路地裏や石畳を歩いた。ついでに二次会の店も探す事になった。
以前Y氏と来た、名物ばあさんの店は焼失し(ニュースになった)立派なビルになっていた。
又、良く行った「ルバイヤート」はオーナーが代わっていた。いいなと思った店は全て予約で満席だった。
それでもやっと、L字型カウンター席12席ほどの店を見つけて落ち着いた。
二次会は3人になり又、ビールに珍しい地酒冷酒の日本酒を3種類程飲んだ。つまみは主に魚である。
「いさき」焼き、エビ、珍味3種、からすみ、等をいただいた。
割と早くから始められたから、そんなに遅くはならなかった。
演奏会の感想では会場にいたおじさんに「いい音色でしたね」とか「間が良かった」「エンターテイナーだね」と言われた。
ただ良かれと思って演奏した「天城越え」は、「宮城記念館では相応しくなかった」と言う感想もあった。又、「北原らしい演奏だった」とか「北原しか出来ない演奏だった」と言う声もあった。
この是非は後の音楽評論家に判断を委ねよう。