5月24日(火)ミューザ川崎シンフォニ―ホールにて「オカリナとピアノ」のランチコンサートを聞いて来た。
オカリナは若き奏者の「茨木智博」とピアノは「森悠也」である。
これがもの凄く上手かったので、紹介したい。オカリナと思えない程のテクニックで、フルートでも難しい「ヴェニスの謝肉祭」や自作の「とおりゃんせ変奏曲」、「アヴェマリア」「アメイジング・グレイス」「チャールダーシュ」などを演奏。
様々な大きさのオカリナを駆使し、もう超絶技巧で感動、感嘆の域だった。中でも驚いたのは一本のオカリナで二重奏をやってのけたから、たまげた。右手でメロディー、左手で低音がハモルのである。素晴らしい。拍手喝采でアンコール、それでも拍手は鳴りやまなかった。
これを聞いたら私の演奏は足元にも及ばない。
しかし、昔話を聞いていただきたい。
1976(昭和51)年6月、渋谷東邦生命ホールにて「北原康夫尺八リサイタル」を行った。
何しろ自分の冠である。
キッカケは前年鈴慕会の1歳上の先輩が、リサイタルしており内心「来年は私かな?」と思っていた。
案の定、先輩のリサイタルが終わって間もなく、青木鈴慕先生から私の高津のアパートに電話があった。「君、来年リサイタルをしなさい」それだけである。
即答したのか「考えておきます」と言ったか定かでないが、とにかく開催することになった。
先ず、段取りとして曲目の選択と、会場決めだ。
「会場は東邦生命ホールが良かろう」で決まり、すぐに予約をした。本業はサラリーマンであり定休日だった木曜日にした。
曲目は最初私は「六段の調べ」か「みだれ」と言ったところ、先生は「みだれの方が良い」とした。
その頃、鈴慕奨励会で演奏していた長澤勝俊作曲、独奏尺八のための「詩曲」と舩川利夫作曲「箏四重奏曲」が候補に挙がった。
さらに、私の希望で杵屋正邦作曲、尺八独奏曲「一定」(いちじょう)と先生との琴古流古典本曲「鹿の遠音」。先生の指示で三曲合奏は「千代の鶯」だった。
欲張った6曲だった。先生は「若いんだからそれ位やりなさいよ」だった。
次は、助演者決めだ。
「みだれ」は古典系から、佐藤親貴先生の弟子である「二宮貴久輔」は先生の推薦だ。
「箏四重奏曲」はNHK育成会の同期で、以前演奏会でやっていた縁で「町田徳」(現塚本徳)を中心としたメンバーで選んでいただいた。ちょうど芸大を卒業したばかりの「岩城弘子」と「熊木早苗」である。
「千代の鶯」は青木先生の指示で箏に「砂崎知子」、三絃に「田島美穂」(現芦垣美穂)だった。
曲目が決まったので、プログラム作りが始まった。
先ず、チラシだが弟子に幸いイラストレイターの斉木磯司がいたのでお願いした。これが凝っていて、六本木のスタジオまで駆けつけて、紋付袴姿で尺八を持って演奏する様を撮影した。
暗闇の中、スポットライトをあて、前と横から陰影のある撮影だった。
チラシはB4と大きく、黒地に横顔は赤く、前面は緑に彩色されていた。しかしほとんどがアウトラインではっきりと私の顔とは解らない。でも斬新なデザインで評判は良かった。
プログラムも斉木氏にお願いした。
青木先生に冒頭の文章をお願いし、次に私の文章を載せた。先生には歯が浮くような文章を書いていただいた。「屈指の吹き手であり、技巧派として、そのテクニックの的確さは非常に楽しみなものがあります」「幅広いレパートリー」「尺八会のホープとして」など。
私は「少年老い易く『楽』成り難し」と心境を述べた。
尺八独奏曲の「詩曲」は宮田耕八郎の素晴らしい演奏を聞いて是非演奏をしたいと思っていた。
ただ7孔尺八の為でもあったが、私は5孔尺八しかなく、どうにかなると思った。
むしろ中間部の速いパッセージは5孔の方が、楽だと思う。
「一定」も尺八独奏曲で、これは山本邦山の委嘱の作品で、邦山のリサイタルで聞いてこれも演奏したいと思った。演奏中、楽譜はめくれないので暗譜することにした。「詩曲」も同様である。
招待状やチケットの印刷も、斉木氏だった。
招待状の宛名の筝曲家や尺八関係者、評論家の名簿は先輩から貸していただき、全部書き写した。今なら個人情報に引っかかかるだろうか?
何しろアパート住まいで独身、字が下手とくれば、宛名は字の上手い姉に筆でお願いするしかなかった。
チラシや印刷物は斉木氏から、渋谷の喫茶店で受け取った。すべて手で運んだから大変だった。
高田馬場の先生の稽古場にも運んで、先生もチラシを置いて「北原を応援して下さい」と書いて下さった。
「箏四重奏曲」はあらかじめ熊木さん宅で練習して、直前には「みだれ」「箏四重奏曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」なども高田馬場で、先生の指導の下合奏練習した。
「箏四重奏曲」の第二楽章だった。一尺六寸管での高音がかすれて出なく、いいメロディーが台無しだった。その時先生に「これじゃあ入場料を貰えないな」と言われ、冷や汗どころか凄く落ち込んだ。
私の竹も音律が悪かった。「千代の鶯」は一尺九寸管だと言う。持ち合わせが無い為、先生は「一尺六寸管は新宿区のN氏の、一尺九寸管は大田区のO氏のを借りなさい」と言われた。
その時に「詩曲」「一定」の演奏も見ていただいたが、特にコメントは無かった。
当日までには、渋谷消防署への届けが必要だし、弁当、ギャラの準備、録音、受付は母校M大三曲研究部の現役にお願いした。
照明のスポットは斉木氏の知人だったし、箏担当は熊木さんが手配してくれた。
以前書いたように、(「アパートで尺八」参照)いよいよ前日というのに会社の人に誘われて、ビアガーデンに行ったのだった。
当日、東邦生命ホールは300人定員の満席で、立ち見や階段に座る人もいた。
音響は余り良いとは思わない。
「みだれ」も暗譜で挑戦した。しかし、似たメロディーがあり不安もあった。
そこは先生、楽譜を手に舞台の袖で見守ったが、やはり私は飛んだ。
空にでは無い。メロディーが先に行ってしまったのだ。すぐ舞台の袖から「ロリウ」と大きな声がした。尺八の音律(符音)の事である。
そこで元のメロディーに収まったのである。これを聞いていた斉木氏に「尺八の演奏会でも歌舞伎みたいに、成田屋とか声がかかるんですね」と言われた。
「詩曲」の中間部は早すぎた。「一定」は途中で少しつっかえ、「箏四重奏曲」はまずまず。
先生との「鹿の遠音」はやや不調で残念だったが、友人に「先生とは全然違うな」と言われた。
表現力や野太さが違った。それを後日先生に話したところ「当たり前だろ」と。
「千代の鶯」の頃はもう疲れていた。リハーサルもやっていたから、もう精神力でガンバった。慣れない一尺九寸管で鳴りも悪かった。
終わって夜、オープンリールのテープを聞いた時の拍手に感激して、興奮状態だった。
ずっと後の17年~18年後の演奏会で私が作曲した尺八独奏曲「詩曲」へのコメントで、青木先生はこの時の「長澤勝俊作曲『詩曲』を暗譜で演奏し、返す刀で箏四重奏曲を軽快に吹き切り、名を馳せた」と書いてくださった。
口には出さなくとも、本当に良く見てくださった鈴慕先生だった。
「邦楽の友」に掲載された長尾氏の批評は次のとおり。
音はまだかなり小ぶりな感じだし、音楽そのものに大きさがないが、二宮貴久輔との「みだれ」青木との「鹿の遠音」砂崎知子、田島美穂との「千代の鶯」など、古典に正確な感覚を身につけていることを示すよい演奏で、助演にも人を得たと思う。
「鹿の遠音」が、本曲でもあり助演者も大きいので、気魄のある演奏になったし、他の曲では幾分かすれ気味で問題のあった高音がここでは音が立って、本曲に必須の、自己の感覚の奥底へ吹きこんで行く透視力も弱いながら備わっていた。ただ北原の吹いた同じ句を青木が繰り返して吹く部分では、やはり青木の骨格のたくましさを圧倒的なものに感じてしまうのはやむを得まい。
現代曲は長澤勝俊の「詩曲」が理知的な構成力を感じさせ、タンギングを用いるアレグレットの中間部では、スマートさを欠くもののかなりめざましい演奏を示した。
これは洋楽の技法ながら、古典のこまやかな楽句を吹き分ける感覚と結び合ったものを持って居り、むしろ「千代の鶯」の手事に若干気弱な合わせ方をしていたのよりすぐれて古典手事的な演奏に思えた。
杵屋正邦の「一定」や舩川利夫の「箏四重奏曲」になると、音楽的に正確で清新であるにもかかわらず全体に発展がなく、両作曲者の個性を内側から吹き起こして行く迫力がなかった。
以下省略
リサイタルをすることは世に問う訳だから、覚悟しなけばならない。
しかし、厳しくも暖かい批評であった。
尺八独奏曲「一定」の演奏については、HPトップに表示した尺八リサイタル時の「一定」をご覧ください。
オカリナは若き奏者の「茨木智博」とピアノは「森悠也」である。
これがもの凄く上手かったので、紹介したい。オカリナと思えない程のテクニックで、フルートでも難しい「ヴェニスの謝肉祭」や自作の「とおりゃんせ変奏曲」、「アヴェマリア」「アメイジング・グレイス」「チャールダーシュ」などを演奏。
様々な大きさのオカリナを駆使し、もう超絶技巧で感動、感嘆の域だった。中でも驚いたのは一本のオカリナで二重奏をやってのけたから、たまげた。右手でメロディー、左手で低音がハモルのである。素晴らしい。拍手喝采でアンコール、それでも拍手は鳴りやまなかった。
これを聞いたら私の演奏は足元にも及ばない。
しかし、昔話を聞いていただきたい。
1976(昭和51)年6月、渋谷東邦生命ホールにて「北原康夫尺八リサイタル」を行った。
何しろ自分の冠である。
キッカケは前年鈴慕会の1歳上の先輩が、リサイタルしており内心「来年は私かな?」と思っていた。
案の定、先輩のリサイタルが終わって間もなく、青木鈴慕先生から私の高津のアパートに電話があった。「君、来年リサイタルをしなさい」それだけである。
即答したのか「考えておきます」と言ったか定かでないが、とにかく開催することになった。
先ず、段取りとして曲目の選択と、会場決めだ。
「会場は東邦生命ホールが良かろう」で決まり、すぐに予約をした。本業はサラリーマンであり定休日だった木曜日にした。
曲目は最初私は「六段の調べ」か「みだれ」と言ったところ、先生は「みだれの方が良い」とした。
その頃、鈴慕奨励会で演奏していた長澤勝俊作曲、独奏尺八のための「詩曲」と舩川利夫作曲「箏四重奏曲」が候補に挙がった。
さらに、私の希望で杵屋正邦作曲、尺八独奏曲「一定」(いちじょう)と先生との琴古流古典本曲「鹿の遠音」。先生の指示で三曲合奏は「千代の鶯」だった。
欲張った6曲だった。先生は「若いんだからそれ位やりなさいよ」だった。
次は、助演者決めだ。
「みだれ」は古典系から、佐藤親貴先生の弟子である「二宮貴久輔」は先生の推薦だ。
「箏四重奏曲」はNHK育成会の同期で、以前演奏会でやっていた縁で「町田徳」(現塚本徳)を中心としたメンバーで選んでいただいた。ちょうど芸大を卒業したばかりの「岩城弘子」と「熊木早苗」である。
「千代の鶯」は青木先生の指示で箏に「砂崎知子」、三絃に「田島美穂」(現芦垣美穂)だった。
曲目が決まったので、プログラム作りが始まった。
先ず、チラシだが弟子に幸いイラストレイターの斉木磯司がいたのでお願いした。これが凝っていて、六本木のスタジオまで駆けつけて、紋付袴姿で尺八を持って演奏する様を撮影した。
暗闇の中、スポットライトをあて、前と横から陰影のある撮影だった。
チラシはB4と大きく、黒地に横顔は赤く、前面は緑に彩色されていた。しかしほとんどがアウトラインではっきりと私の顔とは解らない。でも斬新なデザインで評判は良かった。
プログラムも斉木氏にお願いした。
青木先生に冒頭の文章をお願いし、次に私の文章を載せた。先生には歯が浮くような文章を書いていただいた。「屈指の吹き手であり、技巧派として、そのテクニックの的確さは非常に楽しみなものがあります」「幅広いレパートリー」「尺八会のホープとして」など。
私は「少年老い易く『楽』成り難し」と心境を述べた。
尺八独奏曲の「詩曲」は宮田耕八郎の素晴らしい演奏を聞いて是非演奏をしたいと思っていた。
ただ7孔尺八の為でもあったが、私は5孔尺八しかなく、どうにかなると思った。
むしろ中間部の速いパッセージは5孔の方が、楽だと思う。
「一定」も尺八独奏曲で、これは山本邦山の委嘱の作品で、邦山のリサイタルで聞いてこれも演奏したいと思った。演奏中、楽譜はめくれないので暗譜することにした。「詩曲」も同様である。
招待状やチケットの印刷も、斉木氏だった。
招待状の宛名の筝曲家や尺八関係者、評論家の名簿は先輩から貸していただき、全部書き写した。今なら個人情報に引っかかかるだろうか?
何しろアパート住まいで独身、字が下手とくれば、宛名は字の上手い姉に筆でお願いするしかなかった。
チラシや印刷物は斉木氏から、渋谷の喫茶店で受け取った。すべて手で運んだから大変だった。
高田馬場の先生の稽古場にも運んで、先生もチラシを置いて「北原を応援して下さい」と書いて下さった。
「箏四重奏曲」はあらかじめ熊木さん宅で練習して、直前には「みだれ」「箏四重奏曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」なども高田馬場で、先生の指導の下合奏練習した。
「箏四重奏曲」の第二楽章だった。一尺六寸管での高音がかすれて出なく、いいメロディーが台無しだった。その時先生に「これじゃあ入場料を貰えないな」と言われ、冷や汗どころか凄く落ち込んだ。
私の竹も音律が悪かった。「千代の鶯」は一尺九寸管だと言う。持ち合わせが無い為、先生は「一尺六寸管は新宿区のN氏の、一尺九寸管は大田区のO氏のを借りなさい」と言われた。
その時に「詩曲」「一定」の演奏も見ていただいたが、特にコメントは無かった。
当日までには、渋谷消防署への届けが必要だし、弁当、ギャラの準備、録音、受付は母校M大三曲研究部の現役にお願いした。
照明のスポットは斉木氏の知人だったし、箏担当は熊木さんが手配してくれた。
以前書いたように、(「アパートで尺八」参照)いよいよ前日というのに会社の人に誘われて、ビアガーデンに行ったのだった。
当日、東邦生命ホールは300人定員の満席で、立ち見や階段に座る人もいた。
音響は余り良いとは思わない。
「みだれ」も暗譜で挑戦した。しかし、似たメロディーがあり不安もあった。
そこは先生、楽譜を手に舞台の袖で見守ったが、やはり私は飛んだ。
空にでは無い。メロディーが先に行ってしまったのだ。すぐ舞台の袖から「ロリウ」と大きな声がした。尺八の音律(符音)の事である。
そこで元のメロディーに収まったのである。これを聞いていた斉木氏に「尺八の演奏会でも歌舞伎みたいに、成田屋とか声がかかるんですね」と言われた。
「詩曲」の中間部は早すぎた。「一定」は途中で少しつっかえ、「箏四重奏曲」はまずまず。
先生との「鹿の遠音」はやや不調で残念だったが、友人に「先生とは全然違うな」と言われた。
表現力や野太さが違った。それを後日先生に話したところ「当たり前だろ」と。
「千代の鶯」の頃はもう疲れていた。リハーサルもやっていたから、もう精神力でガンバった。慣れない一尺九寸管で鳴りも悪かった。
終わって夜、オープンリールのテープを聞いた時の拍手に感激して、興奮状態だった。
ずっと後の17年~18年後の演奏会で私が作曲した尺八独奏曲「詩曲」へのコメントで、青木先生はこの時の「長澤勝俊作曲『詩曲』を暗譜で演奏し、返す刀で箏四重奏曲を軽快に吹き切り、名を馳せた」と書いてくださった。
口には出さなくとも、本当に良く見てくださった鈴慕先生だった。
「邦楽の友」に掲載された長尾氏の批評は次のとおり。
音はまだかなり小ぶりな感じだし、音楽そのものに大きさがないが、二宮貴久輔との「みだれ」青木との「鹿の遠音」砂崎知子、田島美穂との「千代の鶯」など、古典に正確な感覚を身につけていることを示すよい演奏で、助演にも人を得たと思う。
「鹿の遠音」が、本曲でもあり助演者も大きいので、気魄のある演奏になったし、他の曲では幾分かすれ気味で問題のあった高音がここでは音が立って、本曲に必須の、自己の感覚の奥底へ吹きこんで行く透視力も弱いながら備わっていた。ただ北原の吹いた同じ句を青木が繰り返して吹く部分では、やはり青木の骨格のたくましさを圧倒的なものに感じてしまうのはやむを得まい。
現代曲は長澤勝俊の「詩曲」が理知的な構成力を感じさせ、タンギングを用いるアレグレットの中間部では、スマートさを欠くもののかなりめざましい演奏を示した。
これは洋楽の技法ながら、古典のこまやかな楽句を吹き分ける感覚と結び合ったものを持って居り、むしろ「千代の鶯」の手事に若干気弱な合わせ方をしていたのよりすぐれて古典手事的な演奏に思えた。
杵屋正邦の「一定」や舩川利夫の「箏四重奏曲」になると、音楽的に正確で清新であるにもかかわらず全体に発展がなく、両作曲者の個性を内側から吹き起こして行く迫力がなかった。
以下省略
リサイタルをすることは世に問う訳だから、覚悟しなけばならない。
しかし、厳しくも暖かい批評であった。
尺八独奏曲「一定」の演奏については、HPトップに表示した尺八リサイタル時の「一定」をご覧ください。