物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

(滋賀・京都・奈良) 般若寺

2020-10-07 | 行った所

東大寺の西側を北へ1kmほど走る。上り坂になり、登ったところが般若寺となる。坂は奈良坂という。県道754号(木津横田線)というそこそこ大きな道で、般若寺の駐車場はその県道に面している。その駐車場の前に立ち南を見ると東大寺大仏殿の屋根が見える。


現在は閉じられているが県道とは逆方向に楼門がある。楼門側は一方通行の狭い道だが、般若寺坂というらしい。こちらが般若寺に入るメイン道路だったのだろう。

以前に来たことがある。どうだったか覚えていないが、こんな大きな駐車場があった覚えはない。花の寺とはその頃も称してはいたが、ろくに人のいない荒れ寺にしか見えなかった。どうやらその後、売り出しに成功したらしい。カメラを抱えた人たちがたくさんいる。

 本堂

平家物語第7巻「奈良炎上」治承四年(1180)12月28日、平家は重衡を総大将に奈良を攻撃する。南都の大衆は奈良坂・般若寺の道の二か所を堀切り、逆茂木で待ち構えた。僧兵は徒歩、平家の武者は騎馬であり基本僧兵に勝ち目はない。午前6時に始まった合戦は日が落ちて奈良坂・般若寺の二か所の城郭ともにやぶれぬ。城郭とはどのようなものを指しているのだろう。武家館のようなものは城郭というらしい。寺そのものは立派な城郭だろう。逆茂木を立て、盾を並べれば城郭かもしれない。般若寺は相当大きな伽藍のある寺だったようだ。現在の寺域を超え東は奈良坂ギリギリまで、北はもっと大きかっただろう。

さて夜いくさになって重衡は「火を出せ」との給う。播磨国住人福井荘下司二郎太夫友方が火をつける。この者のその後が気にかかるが、ワイド文庫版の注記は系譜未詳とあるのみである。
民家に点けた火はたちまち伽藍へ、暮れの北風にあおられ、奈良坂を駆け降り、東大寺・興福寺を焼く大火災となる。
三草山で義経は夜討ちの大松明と称して民家に火をかけるのであるが、重衡の発想も変わらないのだろう。保元の乱の義朝はもっと乱暴に御所へ火をかける。将門や忠常となると敵味方共に焦土作戦を取るのであるからたまらないのだ。火点けはいくさの習いとはいえ、奈良は焼けた場所が悪すぎた。
後に重衡は鎌倉で頼朝に対し、「南都炎上の事、故入道の成敗にあらず、重衡の愚意の発起にあらず」不慮の事だった、と語っている。
重衡にせよ頼朝にせよ、いくさに犠牲は付き物という意識はあっただろう。その犠牲は弱い者ほど多く払うということをどう意識していたかはわからないが。

この南都焼亡の後、治承5年1月には安徳に帝位を譲った高倉が死に、2月には清盛が死ぬ。翌年には義仲が颯爽とデビューし、寿永2年(1183)には倶利伽羅・篠原で平家は大敗を喫し都落ちとなる。寿永3年(1184)義仲没落後の一の谷で重衡は捉えられ、鎌倉へ送られる。
元暦2年(1185)重衡は南都大衆に引き渡され木津川河原で首を斬られる。その首は般若寺の鳥居に晒されたという。鳥居があったのか、と驚いたが、岩波の註によれば、笠卒塔婆か、ということである。

重衡供養塔

藤原頼長の供養塔もあった。

保元の乱で敗れた頼長は流れ矢に首を射られ、戸板で興福寺まで運ばれる。重症の身で京都から奈良までの道のりは長かったろう。しかし父忠実は頼長を拒否する。あれほど愛した息子に摂関家大殿は非情であった。頼長は死に、般若寺付近に埋められたというが、追手によって遺体も掘り返される。一代の学生頼長の最期である。

南朝大塔宮護良親王の碑もあった。

国宝楼門

十三重石塔

石仏

秘仏の公開をしていた。小さいがいいものだった。

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(滋賀・京都・奈良) 奈良公園

2020-10-07 | 行った所

朝まだ人の少ない内に奈良公園を動く。氷室神社付近に車を停め歩く。


東大寺南大門。


重衡の焼き討ちに焼亡、重源によるの再建云々。

ここで数百人が焼死した。平家物語の記述はなかなかの迫力で、南都の悪僧たちの所業にもかかわらず、重衡が大衆に引き渡されたのもなんだか納得できてしまうようだ。更に清盛のあっち死にの伏線ともなる。

大仏殿の脇を通って二月堂へ。

 二月堂付近から東方向

三月堂は法華堂と呼ばれる。

四月堂もあるとは気づかなんだ。

 四月堂
校倉造りの建物が二基。

軒瓦の文字は何と読むのか。


手向神社。この度は幣もとりあえずは、ここでしたか。


若草山の下を通り、春日大社へ。

清掃していた人の「もうじき御祈祷の時間や」云々の声のすぐあと聞こえてきたのはどう聞いても読経だ。神仏分け難し、明治の分離令はどうあっても無茶過ぎた。

 

車舎と云うのがあった。貴人の牛車はここへ泊って待つ。

 

飛び火野に鷺原道発見。別名地僧道、興福寺の僧が春日大社へ行くのに使用した道だそうだ。興福寺・春日大社は一体のものだ。

春日神社の参道を真直ぐ西へ、興福寺の五重塔まで行って歩き疲れて車に戻る。

鹿は、若い鹿は特に、つぶらな瞳、か細い四肢。春日大社の神のお使いとして大事にされてきたらしいが、鹿せんべいは貰えて当たり前と思っているらしいのがえぐい。1匹にやると数匹押しかけ、ねだり倒す。まあ人間がそんな風にしたのだが。

大仏殿から二月堂に向かう途中に猫がいた。

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(滋賀・京都・奈良) 頼政道

2020-10-07 | 行った所

園城寺に停めていた車に戻る。一号線で逢坂山を抜け名神高速に沿うように南下し、奈良街道で醍醐まで。


醍醐寺の裏手というか北東部に長尾天満という神社がある。

その参道の階段に頼政道の碑がある。


園城寺に入った頼政、以仁王を奉じ、六波羅への夜討ちが検討されるが、延暦寺の協力は得られず、園城寺さえ一枚岩ではなく長の詮議に時は移り、夜討ちの機を逸してしまう。止む無く南都を目指し落ちていく。
山科へ出るのは逢坂山越えではなく小関越えではなかったか、山科からは醍醐道、と呼ばれる道だったか。
何故醍醐寺の裏手の階段に頼政道と呼ばれるところがあるのかよくわからないけれど、醍醐寺辺りを通ったのは不自然ではない。
奈良街道を南下し、日野を過ぎ、木幡を過ぎ、宇治病院の手前を左手・東に入り弥陀次郎川という宇治川の支流らしい川に沿ってしばらく行くと今度は頼政橋、と云うものがある。頼政がここを通ったという伝承を持つ場所である。

この辺りは丘陵地だが、すっかり住宅街になっている。
橋自体は昭和40年に掛け替えられたらしい。この碑の裏に長文が書いてあるのだが、非常に読みにくく、この辺り一帯は藤原道長の所領であったこと。平家を討たんとした源三位頼政がここを通ったらしいが今はただ松籟を聞くのみ、なんてことが書いてあるようだとかろうじて見て取れる。
もうこの辺は宇治市だし、道長の所領はそうなのだろう。宇治陵と云うのはどの天皇陵かと思いきや、藤原氏とその関係者の陵墓群なのだそうである

それにしても頼政と云うのは人気があるのか、この辺りを通った人は山ほどいるはずだ。なのに彼の通った場所は伝承地となる。

ここからさらに南下し宇治川を渡れば平等院だ。

頼政橋から一気に奈良へ入り、奈良泊。

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(滋賀・京都・奈良) 小関越え

2020-10-07 | 行った所

観音堂の裏から小関越えの道があると園城寺の受付の女性は言ったのであるが、登山道のような道は二手に分かれ、どっちへ行くのかわからない。地図では長柄神社からの道しかない。
諦めて観音堂正面の階段を降りきるとすぐ長柄神社だ。

程なく小関越えの道標もあった。


小関越えとは長柄山を越え山科に向かう道だ。逢坂山越えを大関、長柄越えを小関という。 
登りの坂道だが立派に車が通る道だ。
峠までもう少しという所で、観音堂からの細道と合流する。

写真ではわかりにくいが、標識の後ろに登山道のような道がある。観音堂裏にあった二つの道のどちらがここへ続く道だったのだろう。


峠には祠があった。小関地蔵とある。
下りにかかってすぐ 岐れ道がある。来た道はアスファルト舗装の道路で、それはさらに続いている。左へ急な登山道のようなものがある。これを下り、四ノ宮駅方面へ行く。急で細くはあるが整備されている道だ。


だいぶ下ったな、という所で琵琶湖疎水の第一竪坑と云うものがある。


更に行くと何をしているかは不明な作業所のようなものがあり、車の出入りもあるらしい。


猫がいた。

山道入口にも祠があった。


漸く山を降り切って出た道路の頭上は高架道路が走っていた。西大津バイパスだ。まだ道は下りだが、民家があり、コンビニがあり、普通に町だ。漸く平たんになったところで琵琶湖疎水に行きあたる。

大津から来たトンネルが終わって、疎水が顔を出すのだ。明治の難工事の面影を示す扁額がかかったトンネル出口だ。ほぼ疎水に沿って四ノ宮駅へ向かう。山道を歩いているときにはさほど長いとも思わなかったが、普通の道になってから四ノ宮までは長かった。


(琵琶湖疎水沿いにあった案内板に加筆、赤線が歩いた道、5km足らずだった)

四ノ宮で京阪電車に乗り、大谷で降りて昼食を取って三井寺まで戻る。

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(滋賀・京都・奈良) 園城寺

2020-10-07 | 行った所

10時過ぎに大津に入る。
園城寺(三井寺)は、以前来た時には大きな寺だという以外取り立てた印象もなかったが、大津京の跡を寺にしたのだという。天智と円珍ではタイムラグがありすぎるが、その間はどうなっていたのだろうか。


さて平家物語第4巻競、高倉宮以仁王は、長谷部信連の機転で女装し、高倉三条邸を脱出、東山の如意が岳を超え、足を血塗れにし、園城寺にたどり着いた。
「大衆畏れ喜んで、法輪院に御所をしつらへ、、」とあるのだが、法輪院は、三井寺の南院の僧房で、現観音堂辺りだという。


仁王門の前を左に行く。受付で拝観料を払い、先にある階段を登って行く。


琵琶湖を見下ろす景勝地だというが、観音堂辺りは樹木や建物が邪魔をして、あまり眺望は効かない。

 観音堂境内

もう一段上がった展望台がある。


観音堂の裏手は住職?の住居か小体な庭がある。

観音堂の裏から小関越えの道があると園城寺の受付の女性は言ったのであるが、よくわからなかった。

 園城寺の三重塔が見える。後ろの山が長柄山だ。

 

 

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