東大寺の西側を北へ1kmほど走る。上り坂になり、登ったところが般若寺となる。坂は奈良坂という。県道754号(木津横田線)というそこそこ大きな道で、般若寺の駐車場はその県道に面している。その駐車場の前に立ち南を見ると東大寺大仏殿の屋根が見える。
現在は閉じられているが県道とは逆方向に楼門がある。楼門側は一方通行の狭い道だが、般若寺坂というらしい。こちらが般若寺に入るメイン道路だったのだろう。
以前に来たことがある。どうだったか覚えていないが、こんな大きな駐車場があった覚えはない。花の寺とはその頃も称してはいたが、ろくに人のいない荒れ寺にしか見えなかった。どうやらその後、売り出しに成功したらしい。カメラを抱えた人たちがたくさんいる。
本堂
平家物語第7巻「奈良炎上」治承四年(1180)12月28日、平家は重衡を総大将に奈良を攻撃する。南都の大衆は奈良坂・般若寺の道の二か所を堀切り、逆茂木で待ち構えた。僧兵は徒歩、平家の武者は騎馬であり基本僧兵に勝ち目はない。午前6時に始まった合戦は日が落ちて奈良坂・般若寺の二か所の城郭ともにやぶれぬ。城郭とはどのようなものを指しているのだろう。武家館のようなものは城郭というらしい。寺そのものは立派な城郭だろう。逆茂木を立て、盾を並べれば城郭かもしれない。般若寺は相当大きな伽藍のある寺だったようだ。現在の寺域を超え東は奈良坂ギリギリまで、北はもっと大きかっただろう。
さて夜いくさになって重衡は「火を出せ」との給う。播磨国住人福井荘下司二郎太夫友方が火をつける。この者のその後が気にかかるが、ワイド文庫版の注記は系譜未詳とあるのみである。
民家に点けた火はたちまち伽藍へ、暮れの北風にあおられ、奈良坂を駆け降り、東大寺・興福寺を焼く大火災となる。
三草山で義経は夜討ちの大松明と称して民家に火をかけるのであるが、重衡の発想も変わらないのだろう。保元の乱の義朝はもっと乱暴に御所へ火をかける。将門や忠常となると敵味方共に焦土作戦を取るのであるからたまらないのだ。火点けはいくさの習いとはいえ、奈良は焼けた場所が悪すぎた。
後に重衡は鎌倉で頼朝に対し、「南都炎上の事、故入道の成敗にあらず、重衡の愚意の発起にあらず」不慮の事だった、と語っている。
重衡にせよ頼朝にせよ、いくさに犠牲は付き物という意識はあっただろう。その犠牲は弱い者ほど多く払うということをどう意識していたかはわからないが。
この南都焼亡の後、治承5年1月には安徳に帝位を譲った高倉が死に、2月には清盛が死ぬ。翌年には義仲が颯爽とデビューし、寿永2年(1183)には倶利伽羅・篠原で平家は大敗を喫し都落ちとなる。寿永3年(1184)義仲没落後の一の谷で重衡は捉えられ、鎌倉へ送られる。
元暦2年(1185)重衡は南都大衆に引き渡され木津川河原で首を斬られる。その首は般若寺の鳥居に晒されたという。鳥居があったのか、と驚いたが、岩波の註によれば、笠卒塔婆か、ということである。
重衡供養塔
藤原頼長の供養塔もあった。
保元の乱で敗れた頼長は流れ矢に首を射られ、戸板で興福寺まで運ばれる。重症の身で京都から奈良までの道のりは長かったろう。しかし父忠実は頼長を拒否する。あれほど愛した息子に摂関家大殿は非情であった。頼長は死に、般若寺付近に埋められたというが、追手によって遺体も掘り返される。一代の学生頼長の最期である。
南朝大塔宮護良親王の碑もあった。
国宝楼門
十三重石塔
石仏
秘仏の公開をしていた。小さいがいいものだった。