忠度の最期は「平家物語」第8巻に詳しい段がある。
薩摩守忠教は、一の谷の西の手の大將軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黑糸おどしの鎧着て、黑き馬のふとうたくましきに、いっかっけ地の鞍おいて乘り給へり。其勢百騎ばかりが中に打かこまれて、いとさわがず、ひかえひかえ落ち給ふを、猪俣党に岡部の六野太忠純、大将軍と目を懸け、鞭あぶみをあせて追ッ付きたてまつり、「抑々いかなる人で在まし候ぞ。名乗らせ給へ」と申しければ、「是は御方ぞ」とて、ふりあふぎ給へるうちかぶとより見入れたれば、かねぐろ也。あッぱれ、みかたにかね付けたるひとはなきものを。平家の公達でおはするにこそと思ひ、おし並べてむずとくむ。これを見て百騎ばかりの兵ども、国々のかり武者なれば、一騎も落ちあはず、われさきにとぞ落行きける。薩摩守、「にっくいやつかな。みかたぞと言わば言わせよかし」とて、熊野そだち、大ぢからのはやわざにておはしませば、やがて刀を抜き、六野太を、馬の上にて二刀、落付くところで一刀、三刀までこそ突かれける。二刀は鎧の上なればとほらず、一刀はうちかたなへつき入れられたりけれども、うす手なれば死なざりけるを、とッておさへて頸をかかんとし給ふところに、六野太が童、おくればせに馳せ來ッて、うち刀を拔き、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつと切落す。薩摩守、今はかうとや思はれけん、「しばしのけ、十念唱へん」とて、六野太をつかうで、弓だけばかりぞなげのけられたり。其後西にむかひ、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」とのたまひもはてねば、六野太うしろよりよッて、薩摩守の頸を討つ。よい大将軍討ッたりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるが、えびらに結びつけられたる文をといて見れば、「旅宿の花」といふ題にて、一首の歌を詠まれたる。
「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよいあるじならまし」忠教とかかれけるにこそ、薩摩守とは知りてンげれ。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、「この日來、平家の御方に聞えさせ給ひつる薩摩守殿をば、岡部の六野太忠純が討ちたてまつるや」と、名のりければ、敵もみかたもこれを聞いて、「あないとほし、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を。あったら大将軍を」とて、涙を流し、袖をぬらさぬはなかりけり。
岩波ワイド文庫に拠ったので、忠度は「忠教」になっている
「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよいあるじならまし」の歌は好きだ。
よくわからないのは名乗れと言われて、味方だ、という返事をすること。味方と云えば通ると思うほどの甘い考えは持っていなかったろうに。
あっという間に四散する駆武者どもの頼りなさ、しかし本当だろうか。富士川を前に四散した大軍、倶利伽羅に敗れ、篠原での高橋長綱の勢の落ちようは将に駆武者のそれなのだが、この一の谷に集まった者どもは、皆それなりに平家の再起に賭けた者どもではなかったか。この時点で駆武者ばかりだったということは、それ自体平家の敗因ではなかったか。忠度の死を敵も味方も悼んだという、この大将軍に股肱の郎等はいなかったか。
また一の谷の大手というが、いわゆる一の谷の合戦趾はここから西へ5kmも行くのだ。大手生田の森からは既に7kmも西進している。大手生田の森からは次々に大将級が落ちようとしては悲運に見舞われる。南は海、北は山の東西に長い戦線、余りにも戦線が広くはなかったか。忠度はどこを目指して落ちようとしたのか。海に浮かぶ助け舟か。
忠度の墓は明石にもあるという。どちらが死に場所か。
忠度は忠盛の末子、清盛の異母弟、忠度は熊野育ちだという。生誕場所もあるというが、一方母は歌の上手な女房という説もある。
余りに狭くてっぺん判らず
腕塚は長田港間近の住宅密集地の中にあった。
長田区は震災の被害が特にひどかった地域と聞く。車両の出入り不能の住宅地であった。