秋の好日、山本山へ登る。
木之本インターを降り、朝日山神社を目指す。山本山は湖北、北琵琶湖の湖岸近くに立つはずである。どうやらそれらしい山に近づくにつれ、少々驚いた。意外なほど大きな山ではないか。意識はしていなかったが、この山ならは北陸道も8号線も走るときには見ていたはずである。
山本山自体はかなり端正な円錐状だが、南に張り出した部分にも峰があり若宮古墳になっている。尾根は細く北へ延び琵琶湖沿岸を巡るように賤ケ岳に向かって続く。
登り口は集落内にある。朝日山神社というより朝日小学校の脇、と云った方が探しやすいだろう。朝日山神社ではナビは出てこない。小さな祠一つの神社かと思いきや立派な神社だ。
山本山は山本義経の城山だ。この義経、新羅三郎義光流の源氏だ。義光流は常陸の佐竹となった流と近江を引き継いだ流がある。一般的に近江源氏というと佐々木氏を指すことの方が多いようだが、佐々木は宇多源氏で清和(陽成)源氏とは異なる。佐々木秀義は源義朝の妹を娶り、頼朝の旗下で名を挙げた佐々木盛綱・高綱が有名だ。
山本義経は治承4年(1180)各地に反平家の狼煙が上がるとき挙兵する。琵琶湖の船を全て押さえ、物資が京へ入ることを阻害したが、平知盛の反撃にあい、山本山城は落城.その後木曽義仲と共に京都に入った。法住寺合戦でも義仲側で、義仲の死後の消息は知れないようである。討ち死にしたのであろう。
平家物語第4巻「源氏揃」源三位頼政が以仁王に決起を促し、各地の源氏を挙げてるのだが、その中に「近江には山本・柏木・錦古里」と挙げている。柏木・錦古里はともに山本義経の息子で柏木義兼・錦古里義高である。ただ柏木義兼を義経弟となっているものもある。錦古里義高は第8巻「法住寺合戦」にも見える。
朝日山神社境内に山本義経の鎧かけの松と云うものがあった。松は何代目と称するのか若木であった。義経と云えば圧倒的知名度は九郎判官義経にあり、九郎義経の元服の地だという鏡の里の鏡山神社に義経の烏帽子かけの松というのがあった。
↑登山口。この奥にクマに注意の立看があった。
蹴上の高い階段を上っていく。「天孫御光臨御聖域・山本判官古城趾」というでかい石碑があった。
少し登ると石仏が並び、常楽寺という寺がある。
石仏は皆似ていた。同じ人か、少なくとも同じグループの人の手になるものなのだろう
変わった鐘である。
寺裏手の登り口には猪除けの柵がある。
下から小学生の歓声が聞こえるようなところなのだが、熊も猪もいるらしい。栗のイガが大量に落ちている。ありがたいことに熊さんの食事跡ではなく人が集めたものらしい。
登山道は幅はあるが傾斜はきつい。砂利道のようになっているので歩きにくい。どちらかというと登るより降りる方が怖かった。
途中で南東方向を見る。琵琶湖の見張りだけでなく、琵琶湖東部に広がる平野を見渡せる。
正面鈴鹿山脈。もう少し左手に伊吹山が見える。
山頂まで15分とある案内板の所で一服。登山口の案内板に山頂まで40分とあった。だいたいそれくらいで来ているのだろうが、まだ15分も登るのか。
これは燧が城よりきつい。
三の丸。
漸く二の丸。
真直ぐ下に見えるのは葛籠尾崎だ。海津大崎は葛籠尾崎に隠れ、その先のマキノ辺りも見えないが、それを除く琵琶湖全体が見渡せるロケーション。残念ながら今は樹々が茂り、竹生島も隠れてしまっている。しかし、確かにここで見張れば琵琶湖中の船を押さえられるだろう。
本丸辺りは広く平坦になっており周囲に土手がある。
ただし平安末の整備とは限らない。戦国時代、小谷の浅井の部下の阿閉氏が守る城だった。山本山から真直ぐ東に向かうと小谷城になる。浅井は信長に攻められ滅びるが、阿閉は秀吉に籠絡されていたという。山本山の東に阿閉(あべではなくあつじとよむらしい)という地名がある。
その阿閉の集落内に奇妙な建物がある。ラブホか結婚式場かという尖塔でどうも場にそぐわない。行ってみると東阿閉公民館だが別名ヤンマー会館。ヤンマーディーゼルの創始者がこの地の出身で、彼が寄付した建物だという。ドイツ風なのだそうである。
湖北水鳥ステーションで昼食、野鳥センターにも寄って帰る。
葛籠尾崎固定遺跡資料館と云うのがあったので寄ってみたかったが、ここは公民館で常時開館はしておらず、見学希望者は事前連絡をという張り紙があった。
さざなみ街道を北上、山本山の北の山をくぐるトンネル手前でしばし湖を眺める。
山本山は標高324m、燧が城は270mであった。但し燧が城登り口、今庄の標高は山本の標高より高いであろう。