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物忘れの激しい猫のための備忘録

以仁王をめぐって

2020-10-22 | まとめ書き

以仁王は後白河の第3皇子である。兄守覚法親王が出家のため第2皇子とされることもある。他に同母の姉妹式子と亮子がいる。さらにもう一人妹休子もいる。この妹は後白河天皇即位後に生まれている。新古今の歌人として知られる式子内親王、百人一首の「たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする 」を知る人は多いだろう、亮子内親王は殷富門院と呼ばれる。殷富門院大輔と云う人の「みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず」が百人一首に採られているが、これは殷富門院に仕えた女房の歌。
後白河の長男守仁親王(二条)は幼くして後白河の父後鳥羽の愛妃美福門院に引き取られて育つ。守仁の母は若くして死んだ。
以仁王兄弟姉妹の母は藤原季成女、待賢門院の姪である。家柄も悪くなく、女色のみならず男色関係にも乱脈な後白河相手に5人も子を生したのだから、かなり安定した関係だったことになるだろう。
以仁王は幼少時に比叡山に入る。しかし師とした最雲法親王は以仁王11歳で死んでしまう。以仁王は還俗し元服するのだが、何故寺に残れなかったかはわからない。本人の意思か別の事情があったものか。最雲法親王は天台座主だ。兄守覚法親王は仁和寺座主覚性法親王(後白河弟)を師とし仁和寺座主を継いでいる。最雲法親王が死ななかったら以仁王にも天台座主になる未来があったかもしれない。因みに、仁和寺の座主たちは平家物語第7巻「経正都落」「青山の沙汰」に登場する。経正は覚性法親王に可愛がられ、琵琶の名器「青山」を預けられ、守覚法親王にそれを返し都落ちするのである。
以仁王は最雲法親王から城興寺という寺の領地を譲られていた。比叡山延暦寺はもともと寺領なので還俗により寺に返すべきだとしたのに対し、以仁王は最雲法親王より個人的に譲られた資産だと言って譲らず、事実上以仁王の資産とされていたようである。これが後々問題となる。現在京都の東九条烏丸町に城興寺という寺はあるが、この寺の寺領であるかは知らない。
以仁王は、生来学問好きで聡明、という評価があるが、意地悪く言うと、宮廷内に希望は見えず、宗教にも逃げれず、他にすることがなかったのではあるまいか。
女性関係も当然あったろうが北陸の宮と呼ばれる長男の母親も八条院の女房の一人らしいが、つまびらかではないようだ。重要なのは八条院寵臣三位局との関係だった。
八条院暲子は鳥羽と美福門院の愛娘であり、二人から膨大な荘園を受け継ぎ、この時代に特異な位置取りをしていた。近衛の実姉であり、近衛の死後女帝としての即位が検討されたという。のみならず二条とは実の姉弟のように育ち、二条親政のバックアップをした。
八条院のお気に入りの女官三位局との関係から、以仁王が八条院の猶子となり家族同様の扱いを受けるとあっては、後白河も清盛も神経質にならざるを得ない。
後白河にとって二条は実子でありながら美福門院に取り込まれ、自らの院政を否定されたとのうらみがある。既に成人に達した息子は脅威でしかなく、以仁王は二条の再来のように思えただろう。清盛にとっては、高倉に入内した娘徳子に皇子が生まれる前に帝位候補が出来ては困るのである。以仁王は親王宣旨もなく、つまり皇太子候補に入れないスタンスで放置されていたらしい。平家物語は建春門院の妬みにより、と書くが、この辺りは後白河と清盛の利害が一致していたのだろう。
安元2年(1176)建春門院滋子が死ぬ。清盛と後白河の間を取り持ってきた気配り上手の女性の死に彼らの関係も変化せざるを得ない。
安元2年のうちに、後白河は自身のより幼い息子二人を高倉の養子にしてしまう。
この時、1161(応保1年)生まれの高倉は16歳、そろそろ親政を志向してもおかしくない歳になっていた。二人の皇子、道法法親王・承仁法親王はそれぞれ1166年と1169年の生まれである。後白河は院政の継続のため、高倉からより幼い皇子への天皇の差し替えを考えていたのだろうが、もとより平家は飲めるわけの無い話である。
以仁王は1151年生まれで高倉より10歳年長である。

安元3年の白山事件から山門の強訴の処置、後白河はなかなか強気で、平家に比叡山討伐を命じたりしている。
しかし、ここで一気に形勢逆転する。鹿が谷陰謀事件の発覚である。激怒した清盛は後白河近臣たちを一掃しする。

治承2年(1178)高倉と中宮徳子の間に待望の皇子が誕生する。この赤ん坊が天皇になれば、高倉が院政を敷ける。もはや後白河は不要である。更に後白河が重衡と盛子(清盛娘、故摂政基実室)の死に乗じ、平家支配の所領を奪ったことから、清盛は治承3年の政変と呼ばれるクーデターを断行する。後白河への遠慮も不要となった今こそ、後白河を幽閉し、院政を停止する。
高倉は退位し、幼帝安徳の即位、後白河は鳥羽殿に軟禁中の身の上だ。
とばっちりは以仁王の所へも来る。最雲法親王か譲られたとして領していた城興寺の荘園を巡る比叡山との争いに、清盛は比叡山の言い分を正しいという裁定を下したのだ。

以仁王は本気で天皇になりたい、政治を動かしてみたいと云う野心をずっと持ち続けていたとは思われない。確かに後白河の皇子ではあるけれどずっと年の離れた高倉が帝位にあり、次の候補も更に年下の弟たちだ。平穏に暮らしていければそれでいい、と云った心境ではなかったろうか。
けれど所領の問題は深刻だ。平家許すまじ!という心境にもなるだろう。そこを煽る者がいてのクーデター計画だったのだろうか。しかし源頼政を煽動者だとは思わない。平家物語では頼政は以仁王を密かに訪ね、各地の源氏をいちいち挙げて決起を促す。しかし頼政が平家に「謀反」する理由はなく、現在多くの史家は頼政巻込まれ説のようである。人相見の煽りはあったかもしれないが、本当の煽動者は八条院周りの反平家、園城寺の坊主、そして後白河その人、を疑う。後白河は確かに幽閉されているのだけれど、ここには紀伊二位(信西の妻)が付き添い、静憲が出入りしている。静憲は平治の乱で死んだ信西の息子で父ほどの切れ者ではなかったというが、鹿が谷事件にも関係しており油断ならない。私はこの人を連絡係に擬してみたい。かつて清盛に恥も外聞もなく泣きつき、二条親政派の公卿、経宗・惟方の二人を捕縛させている後白河の事だ、また泣き落とし戦術でクーデターを促したとしても驚かない。幽閉中の後白河院に手駒はほとんどない。長年放って置いた三男を思い出したのか、案外父親からの優しい手紙の一通がきっかけになったかもしれないのだ。平家追討の暁には以仁王を帝位に、と云えば八条院も動いたのかもしれない。かくて八条院に近い頼政も巻き込まれる。
「鼬の沙汰」では鳥羽殿で鼬が騒ぎ、後白河は陰陽師に占わせる。「三日のうちに御喜びと御嘆きがある」と卦が出る。鳥羽殿を出て洛中に帰れたのが喜び、高倉宮の謀反発覚がお嘆き、ということになっている。占いにかこつけてはいるが、あらかじめ知っていたこととも見える。
このクーデターは計画自体の初期状態であったのかあっさり平家に露見してしまう。頼政サイドからの露見でないことは確実だ。平家物語では、熊野の湛増が源行家の不穏な動きを察知して飛脚で知らせたことになっている。
このトラブルメーカー行家を推挙し八条院蔵人にしたのは頼政だという。行家は以仁王令旨の広報係として飛び回るのだが、頼政にしてとんだ目すりをしたものだ。八条院蔵人というなら仲家がいたではないか。仲家は頼政と共に平等院で戦い、死んでしまうのだが、厄介叔父行家の代わりに兄貴が生きていてくれたら義仲にとってどんなによかった事だろう。

平家はなんと以仁王の捕縛を頼政に命じている。頼政は以仁王に急報する。

以仁王は京都の三条高倉殿に住まいした。それ故三条の宮とか高倉の宮とか言われる。三条高倉殿は待賢門院が住まったという。この美貌の祖母の関係で以仁王はここに住まったのだろうか。
姉小路・三条・高倉・東洞院の各通りに囲まれる場所で現在京都文化博物館や郵便局がある。高倉宮の碑は東洞院に面してある。

 高倉宮址碑
隣接する三条東殿は平治元年(1159)源義朝が攻め入り後白河を拉致幽閉する。その時の火災の類焼はなかったのか。

以仁王は女装し高倉殿を抜け出す。郎党長谷部信連の助言に拠る。
この信連という格好の良い武者の事は別に書いた。
https://blog.goo.ne.jp/reminder/e/62b3a4c6671edbbf818274c2313a515a
信連は、捕縛の武士が来る前に、館を掃除している。壇ノ浦では知盛が最期を前に船の掃除をしている。戦い、それも多分負け戦になる前の掃除は、見苦しいものを敵に見せない美学なのだろう。

園城寺を目指す以仁王の道筋は、高倉通を北へ、近衛通を東へ、鴨川を渡り、如意山へとある。高倉通はわかるが近衛大路は難しい。陽明門から東へ走る大路なのだが、現在は荒神橋の東の方に残っているだけだ。平安京の内裏陽明門辺りから東へ行く道は現出水通だ。これをたどると現御所にぶつかる。平安末にはこの御所はないからかまわず突っ切る事にするとだいたい荒神橋付近に出る。

高倉通を北上、現御所中ほどで右に折れて東へ。荒神橋を渡り近衛通をさらに東へ、真如堂の北当たりを通り、鹿が谷、霊鑑寺脇へ出る。この奥俊寛山荘の道標がある。

 ここまで速足でざっと一時間ちょっとで来る。ここからが坂になる。舗装してある道の部分も大変な急坂だ。その後は登山道になる。
如意が岳は標高472m、五山の送り火の大文字山はこの山の支峰である。鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」と呼ばれ、これは京と近江の近道とされるそうだ。以仁王のルートはこれだろう。
一応ハイキングコースにはなっているようだ。但し毎年如意が岳で遭難するハイカーがいるそうだ。甘い道ではないのだろう。
よくわからないのは滋賀県側の降り口である。池ノ谷地蔵から東へ行くと皇子山カントリーというゴルフ場周辺に行きつくようである。ここからどう行くのか?小関越えの道には接続しないように見える。北の方へ回るのか。
以仁王は脚を血だらけにして園城寺へたどり着いている。頼政からの急報は以仁王が月を眺めていた時だ。夜なのだ。月明りとはいえ山中、よく歩けたものだ。疲労困憊に違いない。
ここで平家物語は天武天皇の吉野行に以仁王を重ねている。
園城寺についたのは、明け方。法輪院に御所がしつらえられる。
法輪院は南院の中の僧房で現観音堂辺りと比定されるそうだ。

 観音堂

頼政たちは自らの館に火を放って、園城寺に参集する。

延暦寺と興福寺に牒状を送ったりとここからが長の詮議・・・。三寺連合とはいえ比叡山延暦寺と園城寺は仲が悪い上に、肝心の以仁王は延暦寺との間にトラブルを抱えている。後白河と延暦寺の仲だって悪い。すんなりいくわけがないのだ。
南都興福寺からは色よい返事が来る。この清盛を味噌糞に悪く言う返牒は信救得業、後に太夫房覚明と名乗り木曽義仲の手書き(秘書官・参謀)となる。しかし南都からの援軍がすぐ来るわけではない。
六波羅への夜討ちが主張される。主戦派の乗円房阿闍梨慶秀という主戦派の老僧は、ここでも天武天皇の例を引いている。園城寺という寺は大津宮の跡地に立つというが、ここには天智-大友皇子への同情はない。
「大衆揃」で大手・搦め手、園城寺から出発しようとする。源三位頼政率いる搦め手は如意が岳へ。まさに以仁王が逃げてきたルートで向かうのだろう。大手は頼政嫡子仲綱以下、これは山科経由なのだろうか。

ところで、この挙兵について、むしろクーデター計画はなどはなかったという説もある。過敏になっていた平家が、熊野の行家が八条院蔵人になったこと、以仁王が寺領の件で不満を持っていることを結び付け、八条院の持つ王位候補の駒としての以仁王を潰してしまおう、と云うものだった。頼政も全く関与しておらず、ただ以仁王追討の命が下ったことを、好意から知らせた。しかし以仁王が逃げ出してしまったことで、その責任を追及されることを恐れ、合流のため園城寺に向かった。園城寺側では、あくまで強訴に協力するつもりで、実際の合戦までは想定していなかった。ということである。
以仁王は寺領を取り上げられたといっても、八条院の庇護がある限り生活に窮することはない。特に八条院は以仁王の娘を猫かわいがりしていて、後継者と目していた。八条院の後継者と云うのは莫大な財産の相続人ということである。こうなると、以仁王にも頼政にも動機がなく、偶発の積み重ねが大ごとになってしまった、となるのだが、そうだろうか。
以仁王は「謀反」の計画などない、ヌレギヌだ、と主張したところで平家に通じないだろうから、逃げ出すのはいい。ただ駆け込み先が園城寺ではむしろ謀反の噂を肯定してしまうのではないか。仁和寺の兄守覚法親王の所にでも身を寄せた方が穏当ではないだろうか。夜間の山登りもせずに済んだだろう。
頼政にしても邸に火をかけ、一族郎党園城寺に向かう。そのほとんどが平等院で死ぬのだ。並みたいていの決意ではなかったろう。以仁王に急使を送り逃がしたことで一味と疑われ申し開きが出来なくなったとしても、ここまでなら75歳の頼政の皺腹一つで何とかなることではなかったか。息子や養子たちの身の振り方も心配だろうが、命取られるほどの事はなかったのではないか。渡辺党などの郎党たちには別の就職先があろう。現に「競」で平宗盛は渡辺競を郎党にしようとした。やはり頼政はそれ以前に、抜き差しならず巻き込まれていたように見える。
園城寺も興福寺も協力の意思はあったが、強訴だと思っていた、と云うのは正しいかもしれない。頼政が兵を率いて入山し、いざ合戦、となったら「長の詮議」となってしまった。強訴ならばともかく、合戦までは、という僧が一定数いたのではないか。興福寺も動きが悠長すぎる。長々とした行列で北へ向かっているが、斥候だの先遣隊だのを出した形跡はないようだ。こっちも強訴だと思っていたのだろう。クーデターの計画は始まったばかりで各分担もろくに決まっていなかったのだろう。

延暦寺が園城寺を攻撃するという情報もあり、長の詮議に夜討ちの機を失い、如が岳に向かった搦め手も引き返し、園城寺では守り切れないと、一同興福寺に向かう。

平等院への経路だが、源平盛衰記には逢坂山、鵠(くぐい)坂、神無の森、醍醐、木幡、宇治、となっている。鵠坂と云うのは見つけることができなかった。神無森は山科に小山神無森町という地名がある。京都東ICの辺りである。


私は、観音堂の直ぐ後ろから出る小路が小関越えの道につながるので(図の長柄神社左手に見えるハイキングコースがその道である)、てっきり小関越えで山科に出たと思ったのだが、この道だと四ノ宮に出て、神無森を通らない。大関越え(逢坂山)をしたことになる。 しかし逢坂山越えだとやはり迂回しすぎるように思う。神無森の範囲がもっと西に広がっていたと考えることはできるだろうか。
山科から醍醐は醍醐道という道があるが、間道を伝ったのかもしれない。醍醐にある頼政道の碑は醍醐寺の裏手の長尾神社の参道にある。
 頼政道
木幡の南に頼政橋という頼政たちが通ったという伝承を持つらしいところがある。宇治病院の近くを東に入ったところである。
 頼政橋
この辺りから平等院までは歩いても1時間程度で行けるはずである。

宇治につくまでに、以仁王は6回も落馬した。如意越えの疲労も癒えず、気が休まらず、ろくに眠れもしない日々が続いていたことだろうが、平家物語の記述は以仁王には随分酷な気がする。死んだら棺に入れてくれと云っていたほど大事な笛を忘れ、信連に届けてもらう迂闊さ、落馬を繰り返す気力・体力ともに欠くありさまである。以仁王は令旨の中でも自らを天武天皇に例えている。
「よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す」
大海皇子が天智と同母の弟という記紀の記述は大いに疑ってしかるべきだが、ともかく一旦畿外に出て、取って返して権力を奪取した人物は、気力あふれるリーダーを想像せずにはおかれない。平家物語の以仁王はそういう人物としては描かれないし、むしろ腐している。

ともかく宇治橋を渡り、平等院に陣が敷かれる。宇治橋の橋げたを落とし、宇治川を結界に、平家の人馬を留め、その間に以仁王を南都に落とそうという作戦だ。この段階で頼政たちは討ち死にを覚悟したことだろう。
 宇治川
「橋合戦」は僧兵たちの活躍が華々しい。
しかし、馬筏で川を押し渡られてしまっては、騎馬の武士と僧兵では勝負にならない。頼政たちの奮戦も多勢に無勢なのだった。
 頼政墓

一足先に奈良へ向かった以仁王の一行は山背街道を南下したのだろう。以仁王の墓所のある木津川市山城町綺田神ノ木まで徒歩3時間足らず。橋合戦はそれだけの時間を稼いだのだった。
追う平家の平忠清弟景家は渡岸を果たすと、平等院での合戦に目をくれず、以仁王を追い始める。平家物語によれば、追う平家500騎、以仁王一行30人。矢を射かけられ、以仁王の腹に当り、落馬。光明山の鳥居の辺りだという。
 高倉神社

 以仁王墓
以仁王の墓の東の山麓に光明山寺の址があるという。大きな寺院だったらしい。本地垂迹の神仏一帯で神社もあったのだろう。その鳥居辺りが今の高倉神社付近ということらしい。
南都からの援軍7千余騎は遅かった。王が殺された時、興福寺の先陣はは木津川まで来ていたが、後陣はまだ興福寺門前にある。木津川を渡る泉大橋北詰から高倉神社までほぼ直線の南北約5kmである。あと少し、ともいえる距離だがまだ遠い。

この時まで以仁王に付き従っていた乳母子の六条太夫宗信は近くの池に飛び込んで隠れ、敵がいなくなったところで京へ逃げ帰る。「にくまぬ者こそなかりけれ」と云うのだが、これは少々酷なようだ。彼は武者ではない。重衡を見捨てた乳母子後藤兵衛盛長とはわけが違う。

「宮御最期」では、お供の鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、がともに討ち死にしたとある。このうち刑部俊秀は「大衆揃」の最後で乗円坊阿闍梨閨秀が、義朝と共に平治の乱を戦い戦死した相模の山内首藤刑部俊通の子だと紹介している。「大衆揃」で成喜院の荒土佐・法輪院の鬼佐渡・律成房伊賀公が一人当千のつわものと云われている。理智城房と律成房は同じだろうか。また金光院の六天狗は、式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後となっている。国名は出身地か縁者の役職に関することか。金光院は北院新羅社の西南にあった寺で、源義光の創建とある。新羅三郎と呼ばれる義家弟義光の墓は新羅神社奥にある。
 新羅善神堂

 義光墓
義光流源氏は常陸の佐竹氏が有名だが、近江にも義光流の源氏がいるのだ。「源氏揃」で頼政は「近江国には、山本・柏木・錦古里」と挙げている。山本義経とその息子あるいは弟たちである。行家は近江、美濃・尾張と令旨を触れていくことになっている。山本義経らは山本山城に拠り、琵琶湖の舟を封鎖し、平家に対抗するが、平知盛に攻められ落城する。
 山本山
金光院には必ずや彼らの近い血筋の者がいたことだろう。
「宮御最期」に描かれる人たち以外にも、ここで戦死した人は多いのだろう。
千葉常胤の息子日胤もここで死んだ。常胤は下総に日胤の菩提を弔う寺を建てている。その名も円城寺(おんじょうじ)である。千葉県佐倉市にある。
 円城寺跡

以仁王の墓から南へ100mの地点に筒井浄妙の塚はもある。


筒井浄妙明秀は「大衆揃」で堂衆として紹介されている。堂衆は注記によれば「寺院の諸堂に属し雑役に当たる下級の僧」とある。一来法師は法師原とあり、こちらは「寺院の雑役に当たる僧形の下人、原は複数を示す接尾語」とある。どちらかというと一来法師の方が身分的の下だろうか、ただどちらも雑役夫であり、寺院内の下層階級だろう。筒井というからには本能寺の際洞が峠で日和見を決め込んだ大和郡山の筒井順慶が思い浮かび、大和郡山の出身ということではないだろうかと思ったのだが、「大衆揃」に浄妙の所ではなく、筒井法師として2名挙がり、注記に「筒井は三井寺総門の南、南院三谷の一つ筒井谷」とある。こっちかもしれない。
彼らの活躍は「橋合戦」に詳しい。浄妙は立派な鎧兜を着て大音声に名乗りをあげ、橋桁を外した宇治橋のゆきげたを渡って大暴れする。これは下級僧侶というよりは武者の出自だろう。その後ろから一来法師、「悪しゅう候、浄妙房」と一声かけて飛び越していく。一来法師は宇治川で討ち死に、浄妙房は奈良を目指して落ちる。この活躍ぶりは京都祇園祭の浄妙山になっている。
 浄妙山(祇園祭関係HPから)

このアクロバット的な戦いを佐藤太美氏は宇治猿楽の世界ではないかと云っている。イケズキ・スルスミ、佐々木高綱・梶原景季の先陣争いの宇治川の合戦は競べ馬だ。宇治川で行われた二つの合戦は、将に軍記物としての平家物語だ。

さて、以仁王はあっけなく殺され、クーデターは潰えるのであるが、宮の死後、令旨なるものが物を言い始める。全国的な戦乱の時代が幕あけするのである。特に頼朝は令旨を肌身離さず、以仁王生存説も利用し使いまくる。

木曽義仲の育った日義村の義仲館には実物大人形で再現したものがあるのだが、山伏姿の行家が令旨を読み上げ、義仲以下中原家の面々が畏まってこれを聞く、という様子だ。

岩波本「平家物語」には山門牒状や南都牒状は引いてあるが、以仁王の令旨はない。 
次の引用はネットで拾った。吾妻鑑のものだそうだ。
《下す
 東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ

 応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事

 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず

 最勝王(以仁王)の勅を奉りて称(い)う
 清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て凶徒を起す
 国家を亡し、百官万民を悩乱す
 五畿七道(全国)を虜掠し、皇院(後白河法皇)を幽閉し、公臣を流罪す
 命を断ち、身を流す
 淵に沈め、樓(牢)に込め、財を盗り、国を領す
 官を奪い職を授け、巧無きに賞を許し、罪あらずに過(とが)を配す
 あるいは諸寺の高僧を召し釣(こ)め、修学の僧徒を禁獄す
 あるいは叡岳(延暦寺)の絹米を給い下し、謀反の粮米を相具す
 百王の跡を断ち、一人の頭を切る
 帝皇に違逆し、仏法を破滅し、古代を絶つ者なり
 時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う
 よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す
 上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ね、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや
 ただ人力の構へを憑(たの)むにあらず、ひとへに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり
 これによって、もし帝王三宝神明の冥感あらば、何ぞたちまち四岳合力の志なからんや
 然らば則ち、源家の人、藤氏の人、
 かねては三道諸国の間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令(せし)め、
 もし同心せずにおいては、清盛法師の従類になぞらい、死流追禁の罪過に行うべし、
 もし勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、
 御即位の後、必ず乞いに随(したが)い勧賞を賜わるべきなり
 諸国承知して宣に依てこれを行え

 治承四年四月九日

 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱》

宛名は「東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等」 頼政の息子仲綱が以仁王から聞いて書いた、という体裁で、日付が治承4年4月9日。以仁王の館に捕縛に来たのは5月15日だから一月以上前ということになる。
園城寺で出されたものという説もあるそうだ。そうなると日付が合わない事になるが。そもそも以仁王の令旨などは偽書だろう、と九条兼実は玉葉に書いているそうだ。

クーデター計画そのものがなかった説だともちろんこの時期の令旨はありえない。

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