物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

布引滝

2020-10-27 | 行った所

これは浮世絵最後の光を放つ絵師芳年の作「清盛入道布引滝遊覧悪源太義平霊討難波次郎」明治元年。紙を3枚縦に繋いだ変形画面で滝の迫力を出している

上でテンバっているのが、死して雷となった悪源太義平。真ん中で逆さになっているのが義平の首を斬った難波次郎経房。下段中央が清盛で他に4人を数えることができるが、名前は二人分しかないのでどれか判別しがたい。一人は「平家物語」でお馴染みの瀬尾太郎兼康だ。一番下でひっくり返っているのがそれだろうか。
この絵は「平治物語」に題材をとる。平治の乱が治まって後の事、清盛は出家し福原にいる。布引の滝を見物に出かけた。お供する難波次郎は夢見が悪く気分が悪かったがそれでもついてきた。滝見物が終わるころ、空は俄にかき曇り、雷と共に悪源太義平現われ、難波経房は雷に打たれて死ぬ。義平は処刑される時、難波経房に雷になって復讐してやる、と云って斬られたのだった。ただし、「平治物語」では難波三郎になっている。(角川ソフィア文庫)
江戸にいた芳年にはたぶん布引の滝を実見したことはなかったろう。

布引滝は新神戸駅のすぐ裏手になる。1Fバス乗り場からすぐ矢印の案内がある。それに従っていくとさらにいろいろ案内がある。

 水路橋がある。

明治の設備だ。 川は生田川、どうやら新神戸駅の駅舎そのものが川をまたいで立っているらしい。


水路橋を渡り登っていく。

関西にある滝だから、都の人たちにも近しいものだったのだろう。歌碑がたくさんある。
 雌滝

 雄滝


雄滝から更に上って展望台へ。

帰路、水路橋と新神戸駅の間に猫がいた。

 クロは変わった鳥のようなかわいい声で鳴く猫だった。

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兵庫県川西市多田 多田神社

2020-10-27 | 行った所

以前明石方面に行くつもりが間違えて宝塚方面に向かってしまった神戸JCT、今日はその宝塚・京都方面、新名神を行く。
川西ICを降りるとナビは何やら心細いような道を指示するのである。川沿いの道だ。川というより渓谷といった方がいいような。猪名川、多田大橋を渡る。いよいよ多田が現れた。
多田荘、清和源氏の祖といわれる経基の子満仲がこの地を得て、本拠地とした。
だか、意外に平地は少なく、豊かな土地というようには見えない。この辺りで銀や銅の鉱山もあったというが、満仲の時代利用はどのようなものだったかは不明らしい。元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」には説話の世界だが、満仲はここで狩猟に明け暮れていたとある。説話の出どころは書いてなかった「今昔物語」ではないようだ。狩猟ならこのようなところでもよかったのだろう。狩猟はもちろん軍事演習であろう。


多田神社へ行く。


↑川沿いにたっている。川には赤い欄干の橋がかかる。がらがらだが有料と書かれた駐車場に停める。どこからともなくおじさんが現れ300円を徴収する。


↑そこそこ大きな神社だ。清和源氏発祥の地と書いてある。

満仲・頼光・頼信・頼義・義家の5人を祀る。満仲の子は頼光・頼親・頼信で、頼光は摂津源氏、頼親は大和源氏、頼信は河内源氏、それぞれの祖となる。頼義、義家は頼信の子と孫だ。ここは摂津の国、多田を名乗る摂津源氏の本拠なのだが、河内源氏に乗っ取られたかのような恰好だ。


頼朝が多田行綱を追い出し、ここを取り上げてしまったこととも無縁ではないのだろう。頼朝は河内源氏としてだけでなく、清和源氏の嫡流を名乗る。


境内にあった家系図には破線の挙句、家康が現れる。
それで笹竜胆だけでなく、三つ葉葵の紋が飾られているのか。源氏を名乗ってしまった以上、この神社をむげにはできない徳川なのだった。


頼光の大江山の鬼退治の歌の歌詞が書いてあった。鬼退治の話は知っていたが、この歌はさすがに聞いたこともない。

本殿裏に満仲の墓もある。

三ツ矢サイダーの創業地はここだったのか。炭酸入りの鉱水だったのか。

頼光寺にも行ってみる。

能勢鉄道という私鉄の沿線になる。やたらにややこしく丘陵地の住宅街をまわりまわって着いたが、本来の門は別方向にある。そちらは線路で断ち切られ、車は通れなくなっていたのだった。

鬼退治の荒々しさの影もない穏やかすぎる寺だった。シュウメイギクが咲いていた。

 

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