物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

(滋賀・京都・奈良) 信西の墓

2020-10-11 | 行った所

山背街道を北上し307号線に入り北東に走り、宇治田原へ向かう。意外に距離がある。
信楽へ向かう道だ。宇治田原の中心地らしいところを抜け、大きな工業団地があった。そのあたりで南下し、立木宮ノ前という地名の信西の墓を探したのであるが、もっと手前に307号線から別れこの辺りに出られる道もあったようだ。


その道を伝い、京都市街から徒歩6時間 30Km足らずの場所ではある。馬を使えばもっと早かっただろう。

信西は信頼・義朝のクーデターを聞いて京から逃げ出す。「平治物語」ではこうなる
平治元年(1159)12月4日 清盛・重盛等を連れ熊野に赴く
12月9日 信西、信頼・義朝のたくらみを知り後白河に知らせようとするが果たせず
    供3,4人と大和路を南下、宇治を経て田原の奥、大道寺に逃げる
    夜、信頼・義朝、三条殿を攻撃、後白河を捕らえる。
12月10日 信西、使いを出し、京都の状況を知る。 
12月11日 信西、穴を掘って隠れる。
12月14日 源光保、木幡で信西の家来を捕らえる。
     穴の中で自害した信西発見される。
12月17日 信西の首が渡され、晒される。

信西がここへ来たのは自分の所領だったせいだが、ここは元々摂関家の所領で、忠実から頼長に譲られたものだ。保元の乱の後、信西は自分のものとしてしまった。本来は頼長の兄忠通に返されるのが筋のように思えるが、それを主張できなかったところが忠通の立場の弱さだろう。

大道寺と云うのは大きな寺だったようだが、今は小さな社のようなものが一つだけ。でもその脇に由緒を書いた看板があった。
頼長と信西はお互いその学才を認め合った仲だという。歳の功で信西の方が老練ではあったろうが、周囲のものが皆馬鹿に見える、という秀才特有の意識を隠しきることはできなかったのだろう。周囲から愛されはしなかった。
しかし信西は目的意識と実行力と持った政治家ではあったのだろう。清盛との関係も実のところ互いにどう思っていたかはわからないが依存しあった部分はあったのだろう。ここに隠れ、清盛が戻ってくるまで生き抜いて、返り咲こう、という作戦だったのだろうが、果たせなかった。穴の中で自害したと言われる。遺体は掘り出され、首は京都でさらされた。平治物語は老僧に「天下の明鏡、今すでに割れぬ」と嘆かせ、信西を悼んでいる。

宇治田原は信楽・甲賀を通り東国への道筋の一つと認識されていたのだろう。

ウィキペディアの平知盛の項で、義仲入京を前に各要衝に防衛に赴く平家軍の中で、「資盛・貞能は1,000騎で宇治田原に」という記述を見た。

岩波本の「平家物語」の記述はもっと簡単になっていいて宇治田原は出てこないのだが、押えに向かって不思議はない場所だろう。

 

北上し京滋バイパスの南郷インターに乗る。

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(滋賀・京都・奈良) 以仁王墓

2020-10-11 | 行った所

平家物語第4巻「宮御最期」 頼政は平等院で自害した。以仁王は南都へと急ぐ。しかし、伊東(平)忠清弟景家は老練で平等院の戦に加わらず、ただ以仁王を追う。光明山の鳥居で宮に追いつく。散々に矢を射かけ、宮は落馬し、首を取られた。お供の鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、がともに討ち死にしたとあるのだが、ここの意味は取りにくい。鬼佐渡以下が六天狗とすると5にしかならず、鬼佐渡以下5人プラス六天狗なのだろうか?千葉常胤の息子日胤もここで死んだはずなのだが、彼は六天狗に含まれるのだろうか。


光明山寺は相当大きな寺院だったという。本地垂迹の神仏一帯で神社もあったのだろう。その鳥居辺りが今の高倉神社付近ということらしい。般若寺の「鳥居」は二本の笠塔婆であった。光明山寺の鳥居も文字通りの鳥居なのだろうか? 高倉神社の東の方の山の中に光明山寺跡があるそうだ。
更に橋合戦で活躍する筒井浄妙の塚は以仁王の墓から南へ100mの地点にある。彼も六天狗なのだろうか?


園城寺を脱した以仁王は宇治に来るまでに6度も落馬したという。気の毒としか言いようがない。南都からの援軍7千余騎は遅かった。王が殺された時、興福寺の先陣はは木津川まで来ていたが、後陣はまだ興福寺門前にある。木津川を渡る泉大橋北詰から高倉神社まで約5kmである。あと少し、ともいえる距離だがまだ遠い。
この時まで以仁王に付き従っていた乳母子の六条太夫宗信は近くの池に飛び込んで隠れ、敵がいなくなったところで京へ逃げ帰る。「にくまぬ者こそなかりけれ」と云うのだが、これは少々酷なようだ。彼は武者ではない。重衡を見捨てた乳母子後藤兵衛盛長とはわけが違う。


筒井浄妙の塚は線路沿いの田圃の中の茂みなので遠望できるのだが、

 道が分かりづらく、えらく回り道してしまった。宮内庁の陵墓と共に管理されているようである。古墳の陪塚と同じ扱いのようである。


筒井浄妙明秀は「大衆揃」で堂衆として紹介されている。堂衆は注記によれば「寺院の諸堂に属し雑役に当たる下級の僧」とある。一来法師は法師原とあり、こちらは「寺院の雑役に当たる僧形の下人、原は複数を示す接尾語」とある。どちらかというと一来法師の方が身分的の下だろうか、ただどちらも雑役夫であり、寺院内の下層階級だろう。筒井というからには本能寺の際洞が峠で日和見を決め込んだ大和郡山の筒井順慶が思い浮かび、大和郡山の出身ということではないだろうかと思ったのだが、「大衆揃」に浄妙の所ではなく、筒井法師として2名挙がり、注記に「筒井は三井寺総門の南、南院三谷の一つ筒井谷」とある。こっちかもしれない。
彼らの活躍は「橋合戦」に詳しい。浄妙は立派な鎧兜を着て大音声に名乗りをあげ、橋桁を外した宇治橋のゆきげたを渡って大暴れする。これは下級僧侶というよりは武者の出自だろう。その後ろから一来法師、「悪しゅう候、浄妙房」と一声かけて飛び越していく。一来法師は宇治川で討ち死に、浄妙房は奈良を目指して落ちる。この活躍ぶりは京都祇園祭の浄妙山になっている。

 祇園祭のHPから浄妙山


このアクロバット的な戦いを佐藤太美氏は宇治猿楽の世界ではないかと云っている。イケズキ・スルスミ、佐々木高綱・梶原景季の先陣争いの宇治川の合戦は競べ馬だ。宇治川で行われた二つの合戦は、軍記物としての平家物語の華やかな部分だ。

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(滋賀・京都・奈良) 山背街道

2020-10-11 | 行った所

木津川を北へ渡る。泉橋寺という寺がある。木津川にかかる泉大橋は行基の勧進によるものと伝わり、泉橋寺も行基が開いたとされる。

大石地蔵があり、南都焼亡の犠牲者を弔うためのものとどこかで読んだ気がして、そう思い込んでいたのだけれど、どうも時代が下りすぎる。ただこの発願は般若寺の真円上人とあるので、般若寺の復興と南都の犠牲者の菩提を弔うのは一つにあってもいいような。

ここから北へ山背街道をできるだけ辿る。木津川の東に、24号線、JR奈良線も見え隠れに続く。
泉橋寺のある上狛付近は由緒ありげな茶商の店がいくつかあるが、茶が一般化するのは室町以降だ。宇治の茶畑風景は平安後期の人々は見てはいない。
椿井大塚山古墳の脇も通る。ずっと「つばい」だと思ってきたが、交差点の表示には「tsubakii」となっていた。どっちだろ。大量の三角縁神獣鏡が出土したので有名だが、古墳そのものはJR奈良線に断ち切られ住宅地に浸食されている。

棚倉駅近くに湧出社がある。だいぶ古そうではある。湧出というから泉でも湧いたか。


道標がある。

もう少し北上すると蟹満寺があるのだが、以前行っている。白鳳仏があるのだが好かなかった。建物自体はとても新しく、今昔にもある蟹の恩返し話も、蟹にやっつけられた蛇に同情したくなるくらいで、パスする。

さらに北上し、高倉神社へ。

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(滋賀・京都・奈良) 安福寺

2020-10-11 | 行った所

般若寺から北へ木津方面へ向かう。
木津川を渡る手前、安福寺という寺がある。

木津川河原で斬られた重衡の供養塔がある。

鎌倉へ連行された重衡は頼朝の前でも臆せず堂々たる態度を取る。頼朝は許してもいいと思ったというが本当だろうか?敗将を許して逆転されるのは頼朝自身の体験だ。南都の大衆の要求によりというが、頼朝自身が助命の意思がなかったのだろう。
重衡を連れてきたのは梶原景時だったが、奈良へ連行するのは、源三位頼政の孫伊豆蔵人太夫頼成。南都焼亡は以仁王の乱で興福寺が以仁王の呼応する動きを見せたことへの報復が建前だ。以仁王の乱で敗れた頼政の孫と云うのはつじつまが合う。
重衡の鎌倉行は「海道下」として一段設けられているが、帰還は鎌倉から山科まで飛ぶ。11巻「重衡の斬られ」では山科から醍醐へ、更に日野で妻に会ったことが語られる。

南都大衆の重衡の刑の詮議は醜怪でしかない。それでも老僧の計らいで武士による斬首となる。
数千の大衆が見物に押し掛ける。あれ程のいくさがあったにもかかわらず大衆がこんなに残っていたのかいな。
重衡の侍、木工右馬允知時が駆けつけ、重衡の最期に立ち会う。この知時が調達してきた阿弥陀仏と重衡は紐で結ばれ、そのまま斬首される。
安福寺の供養塔にはまだ新しい卒塔婆があった。八百三十六回忌とあった。
平家物語では重衡の妻は東大寺の重源に請い、重衡の遺体を日野へ連れ帰って葬ったとある。
この妻は佐の局といい、清盛の盟友藤原邦綱の娘か養女か、安徳の乳母に選ばれており才色ある人だったのだろう。この後大原で建礼門院に仕え過ごしたことになっている。重衡との間に子供はいない。歌舞伎「義経千本桜」の渡海屋で知盛の妻に化けて、知盛と共に義経を葬ろうとする。
この近くの重衡首洗い池と不成柿がある。


JR奈良線が木津川を渡る直前の場所である。池は埋められたのかなかった。

柿はなっていた。
宗盛の斬首の場所の近くには蛙鳴かずの池と云うのがあった。貴人の最期の場所では通常の事が起こらなくなるということが言われたのだろうか。


同じ木津川南岸にある和泉式部の墓も尋ねる。
彼女もまた伝説の人として各地に墓があるらしい。

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