山背街道を北上し307号線に入り北東に走り、宇治田原へ向かう。意外に距離がある。
信楽へ向かう道だ。宇治田原の中心地らしいところを抜け、大きな工業団地があった。そのあたりで南下し、立木宮ノ前という地名の信西の墓を探したのであるが、もっと手前に307号線から別れこの辺りに出られる道もあったようだ。
その道を伝い、京都市街から徒歩6時間 30Km足らずの場所ではある。馬を使えばもっと早かっただろう。
信西は信頼・義朝のクーデターを聞いて京から逃げ出す。「平治物語」ではこうなる
平治元年(1159)12月4日 清盛・重盛等を連れ熊野に赴く
12月9日 信西、信頼・義朝のたくらみを知り後白河に知らせようとするが果たせず
供3,4人と大和路を南下、宇治を経て田原の奥、大道寺に逃げる
夜、信頼・義朝、三条殿を攻撃、後白河を捕らえる。
12月10日 信西、使いを出し、京都の状況を知る。
12月11日 信西、穴を掘って隠れる。
12月14日 源光保、木幡で信西の家来を捕らえる。
穴の中で自害した信西発見される。
12月17日 信西の首が渡され、晒される。
信西がここへ来たのは自分の所領だったせいだが、ここは元々摂関家の所領で、忠実から頼長に譲られたものだ。保元の乱の後、信西は自分のものとしてしまった。本来は頼長の兄忠通に返されるのが筋のように思えるが、それを主張できなかったところが忠通の立場の弱さだろう。
大道寺と云うのは大きな寺だったようだが、今は小さな社のようなものが一つだけ。でもその脇に由緒を書いた看板があった。
頼長と信西はお互いその学才を認め合った仲だという。歳の功で信西の方が老練ではあったろうが、周囲のものが皆馬鹿に見える、という秀才特有の意識を隠しきることはできなかったのだろう。周囲から愛されはしなかった。
しかし信西は目的意識と実行力と持った政治家ではあったのだろう。清盛との関係も実のところ互いにどう思っていたかはわからないが依存しあった部分はあったのだろう。ここに隠れ、清盛が戻ってくるまで生き抜いて、返り咲こう、という作戦だったのだろうが、果たせなかった。穴の中で自害したと言われる。遺体は掘り出され、首は京都でさらされた。平治物語は老僧に「天下の明鏡、今すでに割れぬ」と嘆かせ、信西を悼んでいる。
宇治田原は信楽・甲賀を通り東国への道筋の一つと認識されていたのだろう。
ウィキペディアの平知盛の項で、義仲入京を前に各要衝に防衛に赴く平家軍の中で、「資盛・貞能は1,000騎で宇治田原に」という記述を見た。
岩波本の「平家物語」の記述はもっと簡単になっていいて宇治田原は出てこないのだが、押えに向かって不思議はない場所だろう。
北上し京滋バイパスの南郷インターに乗る。