房総半島を回り賀茂川へ
鴨川の道の駅は早い時期に作られたものなのだろう。張り切って作ったらしいが、いかんせんメンテナンスが付いて行かなかったらしい。オーシャンパークと云うのだが何やら汚らしい。
近くに頼朝の愛馬太夫黒ゆかりの地があるとか、ただ太夫黒って義経の愛馬で、屋島の戦いの後、佐藤継信の菩提を弔うため寄進したのではなかったろうか?
仁右衛門島、とやら付近
安房の山は驚くほど荒れている。ナラ枯れというそうだが・・・
安房西部を北上、いすみ、九十九里へ
房総半島を回り賀茂川へ
鴨川の道の駅は早い時期に作られたものなのだろう。張り切って作ったらしいが、いかんせんメンテナンスが付いて行かなかったらしい。オーシャンパークと云うのだが何やら汚らしい。
近くに頼朝の愛馬太夫黒ゆかりの地があるとか、ただ太夫黒って義経の愛馬で、屋島の戦いの後、佐藤継信の菩提を弔うため寄進したのではなかったろうか?
仁右衛門島、とやら付近
安房の山は驚くほど荒れている。ナラ枯れというそうだが・・・
安房西部を北上、いすみ、九十九里へ
館山市を素通りして洲崎へ。
先ずは灯台へ。
洲崎神社
長い階段を上り
下を見下ろす。
天候がいいと富士山が見えるそうだ。
房総半島にたどり着いた頼朝に安房の豪族長狭氏が立ちふさがる。長狭常伴は頼朝の居所を襲おうとし、三浦義澄と合戦になったという。
三浦は長狭を撃退。頼朝一行は洲崎神社で武運を祈る。後に政子の懐妊時に安産も祈願している。
京葉道路を南下する。かなり山がちだ。
鋸南町に入る直前、前にそびえる鋸山、明らかに石切の跡が見える。上総国分尼寺の資料館で、礎石を鋸山から切り出していたと聞いたが、まさかアレ? 鋸山トンネルを抜けると鋸南町だ。
釣り人が多く、路上に車がいっぱいだが、パトカーが動かせ、と云っている。
曇っていたが三浦半島が見える。かすかだが伊豆半島も見えるようだ。三浦半島からは20kmない。ここは三浦氏の影響下にあったのだろう。伊豆半島真鶴からだと70kmほどあるだろうか。
頼朝上陸地碑
頼朝上陸地 ここから頼朝の奇跡の敗者復活が始まる。
鋸山にもいかなくっちゃと戻った。
確かに景勝地だろうし、東京湾がよく見えた。意外に人が多かった。
地形や地質、どのように使われてきた石が採れたのかの説明が何もなくその点は不満だった。
房州石というそうで凝灰岩だそうである。
千葉市街から南下、市原市に入る。
上総国分尼寺跡に行く。
立派な復原回廊がある。
ここまで復元してあるのは初めて見た。文化庁の仕事だそうである。資料館もある。立派なジオラマがあり、学芸員が説明してくれる。
市役所を間に挟み、国分尼寺と僧寺が建つ。僧寺には七重の塔があったそうだ。
国分寺跡
将門塔と称するものがあったが、時代は合わないそうだ。
市原市のホテルに入る.強行軍になり疲れた。
千葉神社は流行っているお宮さんであまり面白くもなかったが、妙見さんと云うのは星神さんだとわかった。
君待橋は地名にもなっている。
公園もあるが、碑の位置は公園より南へ下がる。
出来すぎの話だが、ここで千葉常胤は頼朝を待っていた、ということになっている。
ラーメンで昼食、千葉市郷土歴史館へ行く。
模擬天守閣があってびっくりしたが、もともと猪鼻城という城郭があったらしい。
騎馬像はもちろん常胤。この資料館は常胤をメインに千葉一族の事が詳しい。とても消化しきれず、頭がくらくら。
白旗神社へも寄ってみる。
やたらと犬の散歩をするな、猫に餌をやるな、の貼り紙がしてある。異様なほどの枚数の貼り紙なのだ。貼り紙するな、と書いてやりたい。
曇ってはいるがまだ降り出してはいない。
木下(きおろし)という古くからの印西の中心地だったらしい地区を通って利根を渡る。名前からして水運をつかった木材の集散地だったのだろう。利根を渡ると茨城県だ。平地が広がる。丘陵地帯ではない。
利根親水公園と云うのがあったので寄ってみる。蓮池があった。
蛟蝄(こうもう)神社、蛟蝄とはミズチの事だそうだ、即ち水神。
小高い、荘境の目印か、相馬御厨の東端になるそうだ。
階段上から見下ろすと樹木越しに平野が見渡される。
千葉常胤の父の代に伊勢神宮に寄進され立荘されたはずが、平治の乱後、いろいろあって、千葉氏はこの荘園の権益の大半を失う。
若草橋を渡り、千葉県に戻る。二百円、有料の橋だ。
印旛沼の周りを走るつもりが道がよくわからなかった。
成田を経由し佐倉に入る。結構遠い。
円城寺という寺の址を探すのだが、すんなりとは見つからない。小高い住宅地の中にあった。
円城寺は日胤の菩提を弔うため千葉常胤が建てたという。日胤は常胤の息子だ。園城寺の律成房日胤、以仁王の乱のときの主戦派の一人だ。以仁王と日・場所を共に死んでいる。
中心にある樹は槇だ。この案内板は1973年になっている。少なくともこの時には檀家があったことになる。
樹齢推定650年と云うのは鎌倉末期か、樹は雷にやられたか上部がなくなっている。
古い墓石が集められている。五輪塔はかなり古そうだ。
石仏は新しそうに見えたが、一つ享保の年号が見えた。
8時出発、小田原過ぎて日差しがなくなる。
品川から京急線乗換、京急と言っても都内は浅草線の地下鉄でそれから京成線だ。
千葉ニュータウン中央は乗り降りの人の多い駅だ。近くのホテルで連れと落ち合い、松戸方面に向かう。
ニュータウン然としたところを抜けると、丘陵を曲がりかねって走る田舎道だ。田圃はなく畠だ、雑木林や竹林も残る。片側1車線づつの道なのだが、道路のキャパに対し車の量があまりにも多い。信号も多く、その度に1度の信号待ち時間ではすまない。
梨の栽培農家が多く、直売所が道沿い至る所にある。梨街道だそうだ。
松戸市高塚新田に八幡神社があり、
松下邦夫と云う人の「松戸の歴史案内」によればイケヅキの墓の伝承があるらしい。イケヅキ自身が伝説の馬であろうが、行ってみたかったのだ。
八幡神社は梨香台と言う大きな団地の裏にあった。確かに小高い高塚で古墳を疑っていたがそうではないらしい。
残念ながらいけづきを示す物は何もなかった。猫は四匹いた。団地でも二匹見かけたが良い思いをしていないのか、警戒心が強かった。
狛犬が変わっていてかわいかった、仔犬付きだ。
引き返す。往時よりは速かった。