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鴻池財閥

2024-07-22 22:17:35 | 国際政治・財閥

関西人で、『鴻池(こうのいけ)財閥』の名を聞いたことのない人はいないでしょう。 

江戸時代には三井、住友と並ぶ三富豪の一角を占める大富豪でした。
しかし、実際の取引をした人はほとんどいないと思います。

それもそのはず、『鴻池財閥』は、すでに消滅してしまっているからです。

 

 

鴻池財閥の歴史

鴻池家の先祖は、戦国時代の名将・山中鹿之助幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)であったという伝説が残っています。鹿之助の遺児。山中新六幸元(しんろくゆきもと)が、摂津国伊丹(現・大阪府伊丹)の鴻池に逃げ延び、酒造業を始めたのが鴻池家の発祥と伝えられています。

新六は、どぶろく(濁り酒)に灰を混入すると清酒になることを発見(一説には新六に恨みを持つ使用人が酒樽に灰をまいて逃げ、翌朝、どぶろくが清酒になっていたといいます)。

 

どぶろくしかない当時、清酒は飛ぶように売れ、大船を擁して江戸に販路を拡大し、莫大な利益を上げました。新六の子が鴻池善右衛門(ぜんうえもん)を名乗り、以降、鴻池家の当主は代々善右衛門を襲名しました。

 

初代・鴻池善右衛門

初代・鴻池善右衛門正成(1608~1693)は清酒運送の経験を生かして海運業にも手を拡げ、その利益で両替商も始めました。 

三代目・鴻池善右衛門宗利(むねとし:1667~1736)は酒造業を廃して、両替商専業となり、鴻池家繁栄の基礎を築きました。 幕府の新田開発奨励に沿って、河内(かわち)国(現・大阪府南部)に鴻池新田を開発した事でも有名です。

鴻池家は、大阪最大の両替商に成長し、大名相手に高利で金貸し(大名貸し)を行うようになっていきます。 17世紀後半に鴻池家と取引のあった大名は32藩、幕末には76藩に及び、大名諸侯から「日本の富の七分は大阪にあり、大阪の富の八分は今橋(鴻池邸)にあり」と言われたほどでした。

幕末期には新選組に脅されて二百両を献金したことにより、明治政府に疎まれ、一八七一年の廃藩置県で大名貸しは棒引きされてしまいました。 しかし。鴻池家の財力はそれくらいでは尽きませんでした。

 

一〇代目・鴻池善右衛門幸富(1841~1920)は、一八七七年に第十三国立銀行を設立。一八九六年に国立銀行の私立銀行転換が可能となったため、一八九七年に個人経営の鴻池銀行を設立して、第十三国立銀行の営業を引き継ぎました(1900年に合名会社、1919年に株式会社に改組)。

鴻池家は大阪一の大富豪だったため、新規事業の創設にあたって、信用力のある『看板』として担ぎ出され、企業新設時に出資を要請されることが多くありました。 たとえば、一八八九年に日本生命保険株式化社社長、翌年に大阪貯蓄銀行株式会社頭取に担がれました。

 

原田二郎の堅実経営

しかし、一八八〇年代後半、鴻池家は保守的経営で衰退を始めます。 十一代・鴻池善右衛門幸方(1865~1931)の義父・三井高安は鴻池家の衰退を憂いて、井上馨に陣在の斡旋をお願いしました。 「中上川改革」で成功を収めていた三井銀行の総長(頭取)が高安その人だったからです。

井上は一八九九年に外交官の島村久を推し、鴻池銀行理事に押し込み、ついで大蔵省出身の原田二郎が候補になりました。 鴻池銀行東京支店支配人・芦田順三郎の義兄弟だったからだといいます。

一九〇二年に井上は原田を鴻池銀行理事に指名し、一九〇七年に専務理事としました。原田は徹底した堅実経営を行い、それまでほうぼうに出資していた資金を引き揚げ、鴻池家が名誉的に就任していた会長職を辞任しました(例えば、日本生命保険、大阪貯蓄銀行の株式を売却して役員を辞職し、両家は山口家の支配下になりました)。

こうして鴻池家の家業は金融、(合名会社鴻池銀行)、倉庫(大阪倉庫株式会社)、農業に集約されました。 しかも、取り付け騒ぎを恐れて鴻池銀行の神戸・名古屋支店も他行に譲渡し、業績低迷を続けた大阪倉庫を一九一三年に東神倉庫株式会社(現・三井倉庫ホールディングス株式会社)に売却してしまいます。 その結果、一時的な現金収入は増えましたが、原田の堅実経営が鴻池家の衰退を決定的なものにしました。

 

遅すぎた加藤明比古の改革

一九一九年に原田が引退すると、鴻池家でもさすがに消極的な経営方針が問題となった。 そこで、日本銀行総裁・井上準之助の推薦で、日本銀行営業局長・加藤明比古を招聘し、鴻池財閥を立て直すことになりました。

加藤は、一九一九年に合名会社鴻池銀行を株式会社に改組し、三倍以上に増資しました。 また、一九二一年には鴻池合名会社(以下、鴻池合名)を設立して、鴻池の家の土地、有価証券らの資産を一括管理し、一大改革を試みました。

しかし、原田が消極策を講じていた明治時代末から大正時代にかけて、第一次世界大戦にともなう好況で、他財閥は大躍進を遂げていました。


加藤にいかなる才能があっても、その間,ひたすら守勢を決め込んでいた鴻池財閥に挽回する余地はありませんでした。 『川崎・鴻池コンツェルン読本』では、持株会社・鴻池合名の地、鴻池財閥の傘下企業として、株式会社鴻池銀行・鴻池信託株式会社・山上株式会社・鴻池ビルジング株式会社の四社のみを挙げています。

 

 

三和銀行への合併・鴻池財閥の消滅

一九三三年一二月、株式会社三十四銀行、株式会社山口銀行と三行合併し、株式会社三和銀行(現・株式化社三菱UFJ銀行)となりました。

また、鴻池信託は、三和銀行の誕生を受け、一九四一年に関西信託や共同信託と合併して、三和信託株式会社になり、最終的に三和銀行に合併されました。

結局、鴻池銀行、鴻池信託はともに三和銀行に収斂され、鴻池家の力が及ばないものになってしまいました。

 

通常、財閥であれば、傘下企業といえないまでも、幾つかの企業に株式投資をしているものですが、原田が所有株式を売却してしまい、鴻池財閥には親密企業さえ、ほとんど見当たりません。

川崎金融財閥・山口財閥では、傘下企業の系譜を引く金融機関同士が親密な関係を維持し、何らかの名残を残していましたが、鴻池財閥ではそれもなく、『鴻池』を匂わせる痕跡は完全に消え去りました。

 

 



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