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フランス人大学生が初すき焼きに大感激!初来日の外国人が日本文化に感動

2024-10-03 23:34:16 | 観光・旅行・外食・ショッピング

フランス人大学生が初すき焼きに大感激!初来日の外国人が日本文化に感動

https://www.youtube.com/watch?v=fvXNNObXYD4

 

 


MI6のアメリカ人女スパイ ベッティ・パック

2024-10-03 23:15:58 | ヨーロッパ・ロシア・中東・アメリカ全般、歴史・文化・食文化・芸術・建築


ベティ・パック(1910~1963)ミネアポリス(ミネソタ州)生まれ
リアルにMI6所属の女スパイ

 

 

パックは、結婚後の姓である。 彼女は1910年、ミネアポリス(ミネソタ州)にアミー・エリザベス(ベティ)・トープとして生まれた。

幼いころから風変わりな子供であった。 一人でいることを好む一方で、何か興奮できることを発見すると、夢中になって追い求めるところがあった。

 

彼女は米海兵隊士官であった父親ジョージ・トープを敬愛した。 その一方で母コーラは苦手だった。 コーラは当時でも珍しいほどの高等教育を受け、ミネソタ州議会上院議員だった。 母を嫌った理由はよく分らないが、性格が似すぎていたらしい。

「私たちを猫に例えるなら、母はペルシャ猫、私はシャム猫だった」(ベティ)

 

父ジョージは米西戦争や米の併合に反対するフィリピン人による抵抗戦争。(フィリピン戦争)などに従事したベテランだったが、その後、海軍大学(1915年卒)で学び直している。

その間、トープ一家はワシントンDCに暮らした。 

 

娘の美貌を知っていたコーラは、ワシントンに集まる外交官たちの世界(社交界)に娘をデビューさせた。 ベティはたちまち彼らの評判になった。 彼女を射止めたのは、英大使館書記官アーサー・パックだった。

彼女が二〇歳の時である。 彼は一九歳年長だったが結婚を決めた。 彼を心底は愛してはいなかったようだが、妊娠を知った両親が結婚を勧めた。

「私は夢遊病者のように成り行きに任せた。 他に何もエキサイティングなことがなかったからかも知れない」と当時を振り返っている。

 



スペイン内戦

1936年、パックはスペインの首都マドリードに転任となった。当時のスペインは人民戦線内閣(1936年2月成立)であった。 実質共産主義政権であり、スペインからあらゆる保守的なファクターを排除しようとする原理主義的な政治を進めていた。 

それに反発する勢力との内戦が激化すると、諸外国は大使館機能をスペイン国境に近いフランスの町ビアリッツ(ビスケー湾に面したリゾート地)に移した。

英国大使館もそこに移されたが、ベティはひそかにマドリードに戻った。かつて恋した貴族カルロス・サルトリウスが大保拘禁されたことを知ったからである。彼との出会いの詳細は分からないが、おそらくワシントンDC時代に会ったことがあるのだろう。

 

彼女はバレンシアに残って活動する英外交官ジョン・レッシュ卿の協力を得て共和国政権幹部に近づくと、元愛人だけでなく拘束されていた反政府軍パイロット17人も解放させた。 性的関係を持ったカソリック神父と協力し、赤十字が寄贈する医薬品を反政府軍(フランコ軍)に届ける工作もした。

カソリック教会共和国政府に旧勢力の権化とみなされ、激しく弾圧されていただけに、神父が彼女に協力するのは当然であった。

 

共産主義の西欧への拡散を警戒する英国は、1936年7月に共和国政権打倒に蜂起したフランコ将軍(フランシスコ・フランコ元陸軍参謀総長)の指示を決めた。英国は内戦が勃発するとヨーロパ諸国代表をロンドンに集め、スペイン内戦非介入を約束させた(1936年9月非介入協約)。

 

ドイツ、フランス、イタリア、ソビエトなど27ケ国が署名した。 良く知られているように独伊両国はその協約にも関わらず軍事介入しフランコ軍を支援したが英国はそれを黙認した。

 

スターリンは、共和国政府から度重なる支援を求められたが動けなかった。軍事顧問の派遣や小規模の武器供与、あるいは各国からやってきた共和国支援の義勇軍の訓練などの便宜を図るのがせいぜいであった。 スターリンは、ソビエトが軍事介入すれば英国も参戦すると怖れたのである。

 

共和国政府の、カソリック教会弾圧は激しかった。神父およそ6800(カソリック教会側の発表)が殺され、教会の建物も聖像も破壊された。 中世ヨーロッパを支配したオーストリアのハプスブルグ帝国であるが、太陽の沈まない国スペインはハプスブルグ(神聖ローマ帝国)のカール5世が当時のスペイン王であり、スペインはカソリックの盟主であった。

 

スペイン内戦は、共和国に同情的に描写する史書が多いため誤解されている。 上述のように英国は、スペインの共産化を警戒した。 当時、フランスも左翼政権であり、ソビエトだけでなくフランスも共和国政府側に立って参戦しかねない状況だった。

そうなれば、スペインはソビエトに続く二番目の本格的共産主義国家となった可能性があった。

 

共和国政府はなんとしても外交的孤立を打開しなくてはならなかった。 彼らはある奇策を考えた。 画家パブロ・ピカソの利用である。 開催が予定されているパリ万博(1937年5月35日~11月25日)に、独伊の「非道」を訴える作品の制作を依頼した。

万博訪問者にフランコ軍を軍事支援するドイツ軍の「非道」を訴え、国際世論を刺激し、独伊の軍事支援にブレーキをかけようと考えたのである

 

ピカソは、なかなかアイデアが浮かばなかった。 そんな時期にドイツ軍によりゲルニカ空爆(1937年4月26日)があり、それがインスピレーションとなった作品が『ゲルニカ』である。

高さ3.49m、幅7.77mの大作だったために完成までに二ケ月を要した。 万博開催には間に合わなかったが、夏には展示にこぎつけた。 ドイツはパリ万博に訪れる自国民に、このプロパガンダ作品を見てはならないと警告した。

 

ゲルニカは日本の高校性が学ぶ教科書にも無批判に掲載されている。 この作品が共産主義政権のプロパガンダ作品であることを知る者は少ない。

ドイツのゲルニカ空爆は、この町の近郊に軍事施設があったことで実行された。 民間人を標的とする空爆は許されない一方で、共和国軍のカソリック神父虐殺も同様に批判されなくてはバランスがとれない。

 

共和国政府がピカソを頼ったのは、彼が共産主義者だったからである。 ピカソが共産主義者であることは、世間に知られていないが、彼自身が

「われは如何にして共産主義になりにしか」を共産主義機関誌『新大衆』に寄稿(1945年)していることからも、それが知れる。

 

 



ベティのハニートラップで、ポーランド高官篭絡とエニグマ暗号解読

 

1938年、夫はワルシャワ(ポーランド)勤務となった。 ベティが正式に英国情報組織MI6の工作員として活動し始めるのはこの町である。

当時のポーランドは、二つの勢力がしのぎあっていた。 ソビエトの西進を警戒するグループと、ドイツナチズムをより怖れるグループである。

ポーランドは、ロシア革命後にポーランドに侵攻した赤軍を撃退した歴史がある(ポーランド・ソビエト戦争)。

 

ソビエトを怖れるポーランドはドイツとの間で、独・ポーランド不可侵条約を結んだ(1934年1月26日)。 当時のベティはナチズム興隆の憂いをジョン・シェリー(駐ポーランド英大使館諜報責任者)に漏らしていた。 彼はMI6工作員となることを勧めた。

 

彼女は迷うことなく誘いに乗った。

「身体中にアドレナリンが溢れ、知的興奮が湧きあがった。 ベティがこれからの人生の生きがいを感じ取った瞬間であった」(ハドレー・ミアーズ)

 

この時期の英国はポーランドをドイツから離反させようとやっきになっていた。 そんな時期にワルシャワにやってきたベティは使える人材であった。「愛人が出来た」と告げて来た夫への愛情は萎えていた。

 

シェリーは早速MI6のハニートラップ要因となった。 彼女がターゲットにするよう求められたのは、ハル・ルビエンスキ伯爵であった。 彼はポーランド外相ユゼフ・ベックの首席顧問格であり、ポーランド外交を左右できる大物だった。

彼女の魅力が相当であったことは、ルビエンスキをわずか一度の出会いで「落とした」ことで知れる。 愛人関係に入ると、ベティはベティは聞き役に徹した。 彼が漏らす言葉を逐一記憶し、自宅に戻ると細大漏らさず文字にして上司に伝えた。

 

彼女の最大の功績は、ポーランドがドイツの誇る高度の暗号『エニグマ』解読のヒントをつかんでいるという情報を得た事だった。 この情報をもとにMI6は可能な限りの情報を探った。

一般の歴史書では、エニグマ解読は英国の暗号解読チームによるものとされている。中でも数学者アラン・チューニングの活躍を称え、エニグマ暗号解読機の政策は彼の天才的能力によったことになっている。

 

ユーリングの作業に、スパイがもたらされた情報が役立っていることは書かれていない。 CIAは次のように記している。

 

「ドイツ暗号の解読は、数学の利用でエニグマ暗号の解読が可能と考えた、ブレッチリーパーク(ロンドンの北西160km)に集積した天才たちによって成就した。 しかし、数学の利用に最初に気付いたのはポーランドであった。

ポーランドの暗号解析者は1939年には初期のエニグマ暗号を解いていた。 (中略)

1839年9月、ドイツはポーランドに侵攻した。 逃亡したポーランド人解析者は、それまでに得ていたエニグマ暗号解読情報をブレッチリーパークのアラン・チューリングらに伝えた(The Enigma of Aran Turinng)

 

 

 

 

イタリア海軍暗号

夫の次の勤務地はチリであった。 ベティはジャーナリストとして活動を始めた。 反ナチスの論陣を張る『La Nacion』紙に寄稿している。 彼女は、チリでの生活が物足りなたっかのか夫との間に何かあったのか、夫と娘を置いて第二の故郷であるワシントンDCに舞い戻った。

BSCの指令があったのかも知れない。 この頃BSC(スチーブンソンは本国(英海軍)からイタリア海軍暗号表を入手するよう要請されていた。 暗号表は伊駐ワシントン大使館付駐在海軍武官アルベルト・ライス提督の管理下にあるだろうことは分かっていた。

 

スチーブンソンは、この工作にベティを起用した。 ワシントンは第二の故郷だけに勝手知ったる土地である。 ベティはライスとのkンタクトに成功するとトラップを仕掛けた。 出会いから数週間で提督は恋に落ちた。 彼自身がイタリアの対米諜報工作のキーパーソンでありながら、

「彼女との性行為の中で秘密を洩らした」(ハドレー・ミアーズ)のである。

 

「今思えば、ライスは経験豊富な海軍高官であり、愛国心に満ちていた筈であった。そうでありながら女の歓心を買うために何でもするという行為に走ったのである」(ナイジェル・ウエスト)

 

ベティは、ライス提督を完全に「落とした」ことを確信すると海軍暗号表が欲しいと伝えた。 常識的にはこの時点で、彼女が工作員であることが明白な筈であるが、提督は躊躇なく彼女の要求に応じた。

暗号表は暗号担当大使館員が厳重に保管していた。 提督はベティを暗号担当員に接触させた。 彼女はたちまち担当員をも篭絡した。

肉体ではなく金銭の要求だったようだ。暗号表を写真に収めるとフィルムは直ちにロンドンへ送られた。

 

これによって伊海軍情報は英国海軍に筒抜けになった。 1940年11月11日から翌12日にかけて、英海軍はイオニア海に面した南部イタリアの軍港タラントを襲った(Operation

Judgement)。  ここに集結するイタリア海軍主力部隊は英国の、エジプト譜面へのロジスティクスの障害になっていた。 この日、タラント港には戦艦六、重巡洋艦七、軽巡洋艦二、駆逐艦八が碇泊していた。

 

 

同港は、対魚雷ネットや敷設嫌いに守られ、海からの攻略は難しかった。 英海軍は航空母艦(空母:イラストリアス)から複葉雷撃機フェアリー・リゾートフィッシュを発艦させ、湾内の伊艦船を襲わせた。

フェアリー・リゾートフィッシュには爆弾あるいは魚雷を積載させていた。 魚雷は浅い水深に対応させた改良型であった。

 

二派にわたる攻撃で戦艦リットリオ、コンテ・ディ・カブールなどに大きなダメージを与えた。伊海軍はこれ以降主力部隊をより北にあるナポリ港に移動させざるを得ず、伊艦隊の地中海での作戦行動は大きな制約を受けることになった。

英国海軍の被害は少なく、航空機二機を失っただけであった。 史上初めての艦載機からの大型艦船攻撃作戦に強い関心を示したのが日本海軍であった。 米海軍も注目した。

 

「ルーズベルトの強力な支持を取り付けていた当時の米海軍作戦部長、スターク提督は、1940年11月11日夜から12日朝にかけて英海軍の母艦機が行ったいわゆるタラント泊地にいる伊主力艦隊への奇襲攻撃の重要性を把握し、この攻撃の直後に、後からみても適切極まる進言を、当時の太平洋艦隊司令官(ジェイムズ)リチャードソン提督に打電していたのである。 

その要旨は今後のイギリス海軍の奇襲成果にかんがみ、小生にオアフ島湾内貴艦隊に対する水中・海上・空中よりの奇襲の可能性について即刻再検討の上、報告せよ。というものであった。

 

 

上記記述から分るように米海軍は、タラント奇襲以降、日本海軍機動部隊によるハワイ奇襲の可能性をよく理解していた。 スターク提督からの警告を受けていたリチャードソン提督は、太平洋艦隊の主力を真珠湾に常駐させるルーズベルト命令に反対し、カリフォルニア沿岸への移動を求めた。

提督はルーズベルトの怒りを買い、1941年1月に解任された。 後任のハズバンド・欽メル提督は、日本の真珠湾攻撃を許した責任を問われ、大将から少将に降格されたうえで解任された(1941年12月17日)。

 

伊海軍暗号入手で不要となったライス提督は、米国に接収されていた伊船舶の破壊工作を謀ったとして、ペルソナ・ノン・グラータ(外交上好ましからざる人物)に指定され、国外追放処分となった。

戦後、ライスの息子ルシオは、父の名誉回復を求めて、ベティのハニートラップの顛末を著したモンゴメリー・ハイドを名誉棄損で訴えた。

イタリア政府は、彼が暗号表をベティに取得させたことは認めたが、逆防諜(カウンターインテリジェンス)であったと提督を擁護した。 訴訟の結果ハイドの著作はイタリア国内での販売が止んだ。

 

 

 

 

 

フランス(ペタン政権)海軍暗号

 

編集中

 

 


OpenAIが1兆円調達 生成AI「勝者総取り」の規模追求へ

2024-10-03 13:48:52 | AI・IT・サイバーセキュリティ・メタバース・NFT・ゲーム、


オープンAIのアルトマンCEOは、マイクロソフトやエヌビディア、ソフトバンク
グループなどから巨額資金を調達した

 


【シリコンバレー=山田遼太郎】

米オープンAIが2日、66億ドル(約9600億円)の資金調達を発表した。

巨額の調達を踏まえ非営利組織(NPO)から営利企業に経営主体を移す見通しだ。生成AI(人工知能)の開発競争は資金やデータの規模を確保した企業が強くなる「勝者総取り」の様相が鮮明になってきた。

 

 

オープンAIの企業価値は1570億ドルに膨らんだ。円換算では23兆円近く、日本の上場企業との比較では日立製作所ソニーグループの時価総額を上回る。

すでに投資元だった米マイクロソフトに加え、米半導体大手エヌビディアソフトバンクグループ(SBG)が新たに投資した。

 

巨額調達を通じ、従来のNPO中心の体制から営利を重視する組織構造に変わっていくオープンAIの方針が浮き彫りになった。

「約束が果たせなければ、投資金額に9%の金利を上乗せして返還する」。米ネットメディアのジ・インフォメーションによると、オープンAIは投資家にこう提案した。

 

「約束」とは2年以内に営利企業主体の体制への転換を示す。NPO支配からの脱却が資金確保の前提にあるのが明らかだ。

 

 

先行投資を優先、50億ドルの赤字

営利企業への転換方針は、オープンAIが置かれた事業環境をみると必然の成り行きだった。

対話型AI「Chat(チャット)GPT」は2022年11月の公開から2年のうちに世界で毎週2億5000万人が使うサービスになった。

 

サム・アルトマン最高経営責任者(CEO)は技術の素早い投入を重視する。性能を高めて利用者を呼び込み、集めたデータでAI開発を加速する循環をつくった。

開発強化に比例して赤字は膨れ上がった。AIの開発・運用に大量のコンピューターを使い、投資が先行するためだ。

 

米紙ニューヨーク・タイムズによると、オープンAIの24年の売上高は37億ドルに達するが、損益は約50億ドルの赤字を見込む。当面、黒字化のメドはたっていない。

 

 

 

資金需要は増すばかりだ。

オープンAIの開発方針は「スケーリング」と呼ぶ法則が左右する。コンピューターの能力や学習に使うデータ量を増やし、AIを巨大にするほど性能が高まるとする理論だ。

 

アルトマン氏はこの法則をとことん突き詰める方針だ。

米国内外の政府に直接掛け合い、AIの計算に使うデータセンターの増設や、必要な電力の供給を働きかけている。生成AIの覇権をとるために兆円単位の資金を投じていく構えだ。

 

シリコンバレーのインターネット産業は「勝者が全てを手にする」傾向を強めてきた。

検索や動画、SNSなど多くのネットサービスは、データや利用者数といった規模を押さえた企業のみが生き残り、技術力や利便性を磨いてきた。

 

 

創業の精神はどこに

オープンAIはもともと、勝者総取りの発想をAIに持ち込めば開発に抑えが利かないことを心配した研究者らが15年に立ち上げた。

創業の精神を脇に置くのは、生成AIでもネットワークの経済性のルールが変わらないからだ。

 

オープンAIを追う米グーグルや米メタといった巨大テックはデータセンターへの設備投資を大幅に増やした。

ライバルの生成AIのスタートアップも果敢な投資に動く。

米調査会社CBインサイツによると、米アンソロピックは累計74億ドル、イーロン・マスク氏が率いる米xAI(エックスエーアイ)も同61億ドルの資金を調達している。

 

 

生成AIの先行優位を保とうとするオープンAIの行動にはあやうさがつきまとう。

米欧メディアによればオープンAIは投資家に対し、ライバル企業への支援を控えるよう求めた。

 

アンソロピックやxAIが対象だ。マスク氏は報道を受けて「オープンAIは悪に落ちぶれた」とX(旧ツイッター)に投稿した。

資金調達は生成AIの成長に死活問題なだけに、市場の寡占化を招きかねないオープンAIの姿勢は排他的にも映る。

 

オープンAIが規模の追求にひた走るなか、AIの安全性をどう担保していくかが課題となる。

オープンAIでは共同創業者11人のうち8人が同社を離れた。辞めた幹部にはAIの安全対策を専門とする研究者も多い。発足時の理念が薄れたことが人材流出の一因だとみられている。

 

NPOの理事会(企業の取締役会に相当)は23年、コミュニケーション不全を挙げアルトマン氏を一時解任した。

経営の不安定さを示す一方、理事会の監督は組織内で歯止めをかける仕組みともいえた。自らのガバナンス(統治)が利かなくなれば、政府や社会が監視の目を強めることは避けられない。

 

 

 

 

 

生成AI

文章や画像を自動作成する生成AIに注目が高まっています。ChatGPTなど対話型AIやMidjourneyなど画像生成AIがあります。急速な拡大を背景に、国際的な規制や著作権に関わるルールなどの策定が急がれています。

 

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日経記事2024.10.03より引用

 

 

 


赤いファーストレディ エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)-1

2024-10-03 05:04:51 | ヨーロッパ・ロシア・中東・アメリカ全般、歴史・文化・食文化・芸術・建築


ルーズベルト大統領夫人 エレノア(1884~1962)

 

スターリンは、ソビエトのために尽くす知識人や芸術家を「役に立 つ馬鹿(useful idiots)」と呼んだらしい。

自らの考えを絶対善(真)と考え、いささかの迷いもなく、口だけで自称愛国保守と振舞うお馬鹿たちが「役に立つ馬鹿」になりやすい。

共産党のスパイと疑われないように愛国保守と自ら振舞ってくれるのが、コ中国・ロシアなどミンテルンには有難い。

日本でいえば、親中露のアホボン安倍と、元々リベラルでそれを隠すかの如く愛国保守を自ら大声でアピールし、実はやっていることが真逆で、反日・親中政策をとる高市早苗みたいなものである。 

ただ、彼らは頭が悪く、抜けだらけで、とてもスパイにはなれきれずお馬鹿をやる彼らに、私はスパイとは言えません。(頭脳明晰のスパイに失礼)

 

 

話を、エレノア・ルーズベルトに戻します。 第5列とは、スペイン内戦時にフランコ軍の将軍、エミリオ・モラが発した言葉に由来します。将軍は四個部隊を率いてマドリードを攻略しましたが、市内にフランコを装って潜入していた第5の部隊がいると語りました。

モラ将軍の攻撃に呼応して敵陣内で放棄する隠れ部隊です。 これが第5列の語源。 これは国際常識なので覚えておきましょう。

 

 

フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の妻エレノアはその典型でした。 第5列はスパイではありません。 しかし、彼女は共産党の友人(中にはスパイもいました)を多く持ち、若き共産主義者を愛人にしました。

本来政治力がないはずのファーストレディの影響力を行使し、彼らを政府の要職に就けました。 彼女の行動がソビエト外交と体米内政干渉に利したことはいうまでもありません。

常軌を逸した彼女の行動と、それが米国の外交・内政に与えた負の影響について詳しく紹介していきます。

 

 

あまりに酷い親中政策をとつ安倍首相と愛人と称される高市早苗、みかねたジャパンハンドラーズの米シンクタンクCSISが安倍政権を公然と非難した直後にアホボン安倍晋三は電撃辞任。 安部さん入院もせずに元気でしたけどね。w

そして菅政権が誕生し、菅政権・岸田政権は反中露政策。 安部元首相が首相に返り咲こうと活動を始めた矢先に暗殺されました。



高市早苗は元々蓮舫と朝日TVのキャスターをやっていたバリバリのリベラル左翼。松下政経塾卒業後、反日・親中の小沢一郎率いる新進党に入党し、小沢と反日活動をやっていました。 

そして、話題となった山本拓との再婚。 山本も小沢と反日をやっていた親中のド左翼。 高市の実の弟は山本の秘書という一族挙げての反日職活動家です。

国民にそっぽを向かれ、高市・山本ともに自民党に鞍替え、山本は親中で有名な二階派に所属。 分かり易いですね。

 

高市早苗は、当時清話会の権力者森喜朗に押しかけ女房のように近づき、自民党内で役職を得ます。 しかし、清話会を裏切り、今度は町村派の町村氏に接近。 次は稲田朋美よろしく女性関係に緩い安倍晋三に押しかけ女房。

アホボン安倍は、すぐに鼻の下を伸ばし、彼女らを防衛大臣とか総務大臣に任命し、安倍派の議員たちから評判が悪いのはご存じの通り。

 

 

今回の総裁選でも、麻生氏が議員たちに高市に投票城と命令して20人の推薦人すら集まらなかった高市が1回目の投票ではNo.1となり、アホの高市とその信者たちを喜ばせ勘違いさせました。

私がいつも言っているように、第二次大戦の敗戦後、アメリカの承認なしに日本の首相、総理大臣にはなれません。 案の定、最終決戦では高市は敗れました。

 

 

麻生太郎が、議員たちに高市に投票しろと命じたのは、宿敵の菅元総理が推す小泉進次郎を絶対に日本の首相にしたくなかったからと報じられています。 それはそれで分かり易いのですが、

一つ解せないのは麻生派には前回の総裁選でも岸田首相の次に票を集めた実力者の河野太郎がいるのに、何故河野太郎ではなく、高市早苗なのかです。 『政界で、飲みーの、やりーの、飲みまくりと自叙伝を書いた高市は有名ですが、おそらくそういう事なのだと理解しています』

 

 

また、地方の国立大学の学部卒の学歴の高市早苗が、近畿大学の教授になれたのは、選挙に落選し失業中に、これまた自民党の重鎮の世耕議員に接近したからです。 wikiにもあるように、近畿大学の理事は代々世耕一族が就任しており、自民党と近畿大学、日本大学はズブズブなのです。

 

 

 

話を、赤いファーストレディ、エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)に戻します。

 

 



NKVDと米共産党による内政干渉

NKVD(内人民務委員部(ないむじんみんいいんぶ)とは、ソビエト連邦の人民委員部の一つで、ヨシフ・スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、人権報機関などを統括する組織です。 wiki

 

1940年5月23日、ノア・メイソン下院議員(イリノイ州共和党)は、フランシス・パーキンス労働長官とエレノア・ルーズベルト大統領夫人を厳しく非難しました。

 

パーキンスはルーズベルト大統領(FDR)に心酔する左翼思想の忠僕でした。 第一期政権発足時(1933年)から第四期政権まで労働長官であり続け、FDRの死(1945年4月12日)に涙を流して辞任しています。

NKVDと米共産党は、内政干渉にあらゆる手段を講じましたが、なかでも労働組合運動の利用は、その中核となりました。

 

 

労働行政の長である労働長官が共産主義シンパであることは、ソビエトに好都合でした。 彼らは政府組織内における労組結成を最重要課題としました。

 

当時、ソビエトは組合オルグ能力に長けた工作員を米国に移民として数多く送り出しました。 米国の安全保障上、危険と思われる人物も、やすやすと入国し、帰化できました。彼らは短期間に共産党系組織の幹部に登用されました。

これを問題視したワシントン議会は、非米活動調査委員会を設置(1938年5月)し、行政府の親ソ政策を監視することを決めました。委員長は共産主義拡散を警戒するマーチン・ダイズ議員であったことから、『ダイズ委員会』と呼ばれました。メイソン議員は同委員会の委員でした。

 

「メイソン議員は、「FDR政権の左傾化に一人の女性が関わっている。 wレノア大統領、夫人である」と発言し、次のように続けました。

「1938年3月、ウィリアム・ヒンクリーが教育省幹部に登用される事件がありました。 彼は長きにわたり米国青年議会(AYC:American Youth Congress)の全国委員長を務め、米国共産党の方針に沿って動いていたバリバリの活動家です。

そのような人物を、重要な役所の幹部に据えることは国家的恥辱である。 彼の登用は大統領夫人の口利きだと聞いている」。

 

 

メイソン議員の発言からも分かるように、大統領夫人エレノアの行状には、多くの議員が眉をひそめていました。 大統領夫人には、そもそも公的な政治権力はありません。 にも拘わらず、FDR政権幹部は、政権内に自然発生した「共産主義容認の空気」の中で、容共的なエレノアも、ホワイトハウスの女王のように扱い、彼女は女王のように振舞いました。

 

 

止まらない彼女の『悪行』に評論家ウェストブルック・ペグラーが嚙みつきました(1942年2月12日)。 『ワシントン・ポスト』紙の連載コラム「Fair  Enough」欄で次のように書いています。


「彼女(エレノア)は、共産党系組織であるニュースペーパーギルドの会員をオファーされ、嬉々として受けた。 本来ならば彼女には会員資格はない。 新聞業界に身を置く者はこの組織がモスクワ傘下にあり、汚いやり方で運営されている事を知っている。 多くの仲間がギルドの迫害を経験している。

彼女は、我々新聞人の敵となった。 彼女がギルドのメンバーシップをオファーされたのは、大統領夫人であるというただそれだけの理由である。 共産主義者は大統領夫人を利用すると決めたのである」。

「ダイズ委員会は、彼女の悪行が長きにわたって続いている事を知っている。 エレノア夫人は、大統領府の影響力をかさにして同委員会の予算を削ろうとさえしている」。

 

ペグラーのエレノア批判は止むことはありませんでした。 同年7月3日コラムは、エレノアの労働組合の悪行に対する無知を咎める公開質問状のスタイルをとりました。 幹部による一般組合員への脅し、組合資金流用などの事例を挙げて。こうした組合を擁護する大統領夫人は彼らの活動実態をどれほど知っているかと聞きました。

 

エレノアは、止まらない批判への対処を友人の組合幹部ジェイムズ・B・カレイ(産業別組み合会議:CIO)やジョージ・ミニー(米国労働総同盟:AFL)に相談しました。 ペグラーの批判の妥当性を知っている二人は、無視を勧めました。 ペグラーが要求する組合の横暴を調査する評議会設置の提案もスルーするよう『指導』しました。 

しかし、彼女はおとなしく『同士』のアドバイスに従うタマではありません。 FBIに圧六をかけペグラーを国家反逆罪容疑操作させると決めます。 FBIは大統領夫人のプレッシャーを前にして、捜査すると約束せざるを得ず捜査の正当化(見かけ上だけでも)できる『事件』を待ちました。

 

そのキッカケとなったのは、1942年11月28日付けのコラムでした。 この日のコラムではペグラーは読者からの投稿を紹介しています。 

投稿者はアンドリュー・ヘルチャ(Andrew Helcha Jr.)と言い、フィラデルフィアの洗車製造工場(BaldwinLocomotive社)の組立工でした。

 

 同工場の組合は、様々な労働条件を経営側から引き出し、その結果工場の生産性が著しく落ちていた。

ヘルチャは、組合が『妨害』しなければもっと多くの戦車生産が可能であると訴えていた。 ペグラーは、投稿者の実名は明かしませんが、FBIの捜査でヘルチャからの訴えであることが判明しました。

 

いうまでもなく、組合は捜査に協力しました。 Baldwin Locomotive社は、元来は機関車製造の名門です。 

明治期には少なくない数の同社製機関車が輸入され、愛知の明治村では九号蒸気機関車が今でも保存されています。

 

Baldwin Locomotive社の組合は、大手鉄鋼会社ユナイテッドスチール労組に加盟していました。

 

同労組は、ただちにヘルチャを貶める証言を収集しました。 

彼の同僚行員7人から、「ルーズベルト大統領はユダヤの犬」「ヒトラーやムッソリーニの方がルーズベルトよいまし」といったルーズベルトの悪口をヘルチャから聞かされたとする証言を得ました。

 

しかし、 Baldwin Locomotive社組合幹部を含む他の同僚からヘルチャが親ナチス・親ムッソリーニではありえないとの反証が上がりました。

 

ッヘルチャにナチス・シンパのレッテルを貼りたいユナイテッド・スチール労組は、党機関紙『デイリーワーカー』紙に情報をリークし、「ペグラーは親ナチスの行員を使って軍事工場労働者を侮蔑した」とする記事を掲載させました。

同労組は、さらに加えて、ジョセフィーヌ・アダムスなる女性に意見書を書かせエレノアに届けさせました。

 

ジョセフィーヌの素性(役割)が明らかになったのは戦後しばらくしての事です。ここらが、日本人から見てアメリカの面白いところですが、

彼女は1956年1月16日、上院国内安全保障小委員会の場で自身が米国共産党アール・ブラウダーとルーズベルト大統領の連絡係を務めていたこと、彼女はホワイトハウスだけでなく私邸(ハイドパーク)にも招かれ計40回ほど、大統領あるいはエレノアと会ったと証言したのです。

 

1942年12月31日、エレノアはフーバーFBI長官に、ジョセフィーヌ作成の文書を見せました。 エレノアも「Dear Mr.Hoover」で始まる長官あての親書を書いています。

そこには、FBIはただちに、当該反米工作活動(ヘルチャの行為、ペグラーの言論活動)を調査すべきこと、長官への要請は夫(ルーズベルト大統領)の提案によるものであることなどが書かれ智ました。

 

ここまでされるたフーバー長官は,仕方なく直ちに捜査を開始。

ジョセフィーヌの知り合いの女性やBaldwin Locomotive社、組合幹部の聞き取り、ペグラーのコラムや『デイリーワーカー』の記事を入手し分析。 その上で年が明けた1943年1月6日にエレノアに報告しました。

 

「捜査は継続中ですが、これまでのところヘルチャが反米工作に関わっている事を示す事実は見つかっておりません」。

「ヘルチャは、Baldwin Locomotive社をすでに辞めていますが、その際の彼の言葉は、同社の戦車製造量が少なすぎる。その原因は組合の妨害(効率経営の妨害)だ、というものです」。

 

より多くの戦車を製造して対独戦争に資するべきというだと訴えるヘルチャが親ナチスである筈がありませんでした。

しかし、エレノアは承服しませんでした。更なるプレッシャーをFBIにかけました。 

 

彼女はFBI報告書をジョセフィーヌに見せてもいます。 FBIはヘルチャを直接尋問せざるを得なくなりましたが、彼はルーズベルトは嫌いなことは認めましたが、親ナチスであるはずがないと笑いながら否定しました。

「僕はチェコスロバキアからの移民の子である。心底ドイツ人が嫌いである!」

 

 

 

 

エレノア、若きロシア人共産主義者、ジョセフ・ラッシュとの不倫現場盗聴される

 

エレノアは、1918年以降、夫(ルーズベルト大統領)とは仮面夫婦でした。
祖の原因が夫と自身の秘書との不倫で会ったせいか、その後はフェミニズムの女性闘士と交流を深め、更には女性ジャーナリスト(ロレーナ・ヒコック)とレズビアン関係となりました。

男へのルサンチマンがなせる業でありました。 1933年、大統領夫人に収まると多くの左翼思想の若者が彼女に近づきました(彼女からのアプローチした可能性も大)。

 

その一人に、ジョセフ・ラッシュ(米国青年共産主義者同盟書記長:ロシア系ユダヤ人)がいました。 エレノアは彼と愛人関係になります。 彼女は両性愛者だったのです。

1938年3月に5月に設置されたダイズ委員会は、翌1939年米国青年議会(AYC:American Youth Congress)の調査を開始しました。 この組織は米青年共産主義者同盟(Young Communist League)と密接な関係にありました。

 

彼らは複数の赤い学生組織のメンバーをワシントンに集結させ、暴力的に審議妨害を企てました。

下院委員会に大挙して押しかけ、ダイズ委員長は非難するビラを撒くなどしました。驚くべきことに、そうした若者グループの先頭にエレノアがいました。 衛視が彼らを制止できなかったのは、そのためです。

 

大統領夫人が左翼学生の暴力的示威行為に加担する前代未聞の光景でした。 同委員会で証言を求められた一人が、エレノアの愛人、ジョセフ・ラッシュでした。 ラッシュは1909年、ロシア系ユダヤ移民の二世として、ニューヨークに生まれました。

ニューヨーク市立大学、コロンビア大学で学びました。 学生時代から共産主義思想に傾倒し、1936年から米青年共産主義者同盟書記長になっています。

 

スペイン内戦では共和軍の加勢にスペインにわたるほどの絵にかいたようなスターリン崇拝者でした。 1938年頃には、米国でも知られていたスターリンの『血の静粛』にも動じず、ソビエト支持を貫きました。

スターリンと敵対したトロッキーに激しく反発し、「トロッキーは共産主義を脅かす梅毒である」とコキおろしました。

 

彼はダイズ委員会の証言では、委員を子馬鹿にした発言に終始し、不都合な質問には黙り込む典型的な「敵対的証人(Hostile witness )」でありました。

エレノアは,その『勇姿』に惹かれました。

 

 

エレノアは証人喚問の場にいましたが、ラッシュの奮闘に興奮し、後方の席から最前列に移ると委員長を睨みつけました」。

公聴会が終わると、二人は文通を始める仲になり、それは次第にエスカレートし性的関係に発展したのです。

 

 

日米戦争が始まると、ラッシュは海軍に志願しましたが不採用となりました。 エレノアは不採用の理由が「ラッシュはユダヤ人だから」だと思い込みます。 ダイズ委員会に召喚されたのもそれが理由と疑いました。

FBIは、ラッシュの左翼活動を警戒していました。 同様に陸軍防諜部(Counter Inteligence Corps of G-2)も監視しました。防諜部から報告を受けファイルしていました。

FBIは、大量に残されたファイル(およそ7000)は情報公開法に基づき1983年に公開されました。 ワシントンポスト紙によれば、公開請求者はマルケット大学(ミルウォーキー)のエイタン・テオハリス(歴史学)です。

 

まだ、プライバシー保護などの理由ですべてが公開されているわけではありません。ファイル1000P相当が未公開です。

 

ラッシュは海軍不採用後、陸軍に採用されました。 前線には出ない気象観測部門への配属でした。 おそらく大統領夫人エレノアの力でしょう。 愛人を戦死させたくないからです。

 

フ:ーバーFBI長官は、赤いファーストレディの居座る大統領府にその愛人の監視報告書を提出するほど、やわではありませんでした。 報告はフーバー長官の私的ファイルに保管されました。

同ファイルにある陸軍防諜部の1943年3月6日、および7日付け報告書は、エノレアとラッシュが肉体関係にあることをはっきりと示していました。 医科がその内容です(一部省略)。 まるで、現代の浮気調査レポートです。

 

 

調査報告書(Confidential)

・調査開始地:イリノイ州者ムート陸軍基地
・報告日:1943年3月6日
・ファイル番号:ジョセフ・P・ラッシュ#201
・捜査対象者:ジョセフ・P・ラッシュ
・住所:イリノイ州者ムート陸軍基地(この頃、ラッシュは者ムート陸軍基地で気象観測の訓練を受けていました)

 

本官は、1943年3月5日午後6時に対象(ラッシュ)に対する行動監視を開始した。
監視はシャムート基地を起点とし、その後の行動を記録するものである。

シャムート基地での気象予報講座は午後6時35分終了。 (中略)午後7時、ラッシュは兵舎を出て同基地西ゲートに到着(7時10分)。 大きめの茶封筒(25cmx38cm)を手にしていた。 講座で使う器具などを入れる封筒と同じタイプのものである。

門衛に身分証明書を提示し、基地を出ると、通りを渡りバスを待った。 正門近くで(尾行のために)待機しているアーク調査員に連絡。対象はその後バスを待ったが、やってきたバスはいずれも満員で乗ることはできなかった(7時05分)。 対象はその後バスを待ったが、やって来たバスはいずれも満員で乗ることはできなかった(7時25分)。 対象は苛立った様子で通りを往ったり来たりしていたが、7時37分、基地正門にランタウル(基地近くの町、シカゴの南およそ200km)のタクシーが乗客を降ろすのを見ると、小走りで同タクシーをつかまえた。行先はランタウルのバスターミナルだった。

7時50分、対象はシャンペーン(ランタウルの南およそ30kmの町)行のバスに乗った。 8時25分、バスはアーバナ(シャンペーン近郊)の町に入り、対象はアーバナ・リンカーンホテルのある一区間前で下車。 同ホテルに徒歩で向かった。

 

 

・報告日:1943年3月7日
・ファイル番号:ジョセフ・P・ラッシュ#201
・聴取対象者:情報提供者

 

本官は信用できる情報提供者(以下提供者とする)から1943年3月5、6、7日にわたって聞き取り調査をイリノイ州アーバナで実施。 聴取情報は、共産主義者(組織)との関係が深い対象(ラッシュ)の行動に関わる者である。 

提供者によれば、フランクリン・ルーズベルト大統領夫人(以下夫人とする)は、アーバナ・リンカーンホテルに1943年3月5日午前11時45分にチェックインした。 (私設秘書の)マルヴィーナ・トンプソンを連れていた。 夫人は、同ホテル滞在は秘密にしたいこと、シャムート基地所属の若い友人がやってくる友人用とし、夫人は332号室に入った。 両部屋ともツインベッド二つがあり、両部屋は(室内のドアの鍵は必要に応じて開錠でき)連結できる。

提供者によれば、夫人は三人分のルームサ-ビスを注文、8時半頃に332号室に運ぶよう指示した。 ラッシュが到着すると、クロークに預けてあったと思われるトンプソンの鞄類は夫人の部屋332号室に運ばれた。

提供者によれば、翌6日、夫人と対象はホテル内のレストランで昼食を取った以外は全日部屋に籠ったままであった。

提供者によれば、翌朝(3月7日)7時35分に夫人はチェックアウトした。その数分前に対象はホテルを出ている。

なお、3月6日はラッシュの全日非番の日であった。 また、夫人の手紙を参考資料として添付したが、そこには夫人が3月5日にシャンペーンの町にいると記されている。(後略)

 

 

大統領の怒り

(中略)後で書きます。

 

・・・・

 

資料の中にホテルに仕掛けた盗聴器による録音記録があった。 それは夫人とラッシュの間に性行為があったことを示していた。 を大統領は聞き終わると、ホワイトハウスに住む夫人を会儀室に呼んだ。

夫人は証拠の録音を突きつけられた。 その後、二人の間で激しい口論が起きた。

 

翌朝5時頃、大統領はアーノルド将軍(陸軍航空司令官)を呼び出した。大統領は将軍に対して、ラッシュを10時間以内に、国外に赴任させるか、前線に出すよう命じた。 

更にこの事を知る関係者すべてをその任から外し、南太平洋戦線に遣り、JAP(日本軍)にやられるまで戦わせろと命じました。

ビッセル大佐は、この事実を知る関係者は全員ホワイトハウスのブラックリストに載ったままになるだろうと語りました。

 

実際、大統領は全ての関係者を南太平洋に送り戦死させたかったらしい。 しかし、それは叶いませんでした。 事実を知る者が余りに多かったからです。

ビッセル大佐については、ワトソン将軍が擁護しました。 「ビッセルがこのことで口を滑らすことはない」と助け船を出したようです。

 

1938年、ラッシュに関わるFBIファイルが公開されました。『ワシントンポスト』はそれをベースにした記事を掲載しました(1938年12月12日付)。

それによれば、この事件の数週間後、ラッシュは確かに南太平洋の全線赴任が命じられ、フォート・ホラバード(Fort Holabird、バルチモア市メリーランド州)に本部があった陸軍防諜部は解散となりました。