里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

国 境

2008年03月09日 | 歴 史
総領町から帰る途中、府中市の斗升(とます)町と行縢(むかばき町)の境で道路
脇に珍しい物を見つけた。


読んでみると、
「福山藩(15万石)は、水野氏の断絶に伴い一時天領になったが、その後領地が
 分割されて10万石に減らされ、松平氏に続いて阿部氏が入封した」
「残りの天領5万石については、その内の2万石が1717年に豊前中津藩(時の
 藩主は家康の娘婿の奥平氏)に編入され、ここ斗升村と行縢村が中津藩と福山藩
 の国境となった」
「その際、石州往来の新たな国境には石柱が建てられ、中津藩に於いては、藩主や
 代官の巡視があった時に出迎えたという、村役人の土下座場や籠次石があった」
と書かれていた。

谷の川向こうを見やると、何やら石柱が2本立っている。
早速降りてみると、夫々の国名を刻んだ2本の石柱が立っており、奇しくもその間
には水路が流れていて、今でも国境の感じがする。

傍には小さな水車が長閑に回っていたが、当時は巡視があろうものなら、斗升村の
村民(総戸数46戸、219人)は恐れおののいて対応したのであろう。
何しろ、昔は(今も?)権力者は横柄で少しでも粗相があろうものなら、
「無礼者!」「そこへ直れ!」「手打ちにしてくれる!」なんてな事になり兼ねない。
青天の霹靂で国境線を引かれてしまった村民の泣き言が聞こえて来るようで、つい
同情してしまった!


(左=北)従是西北中津領(右=南)従是南福山領