県道393号線を走っていると神辺町箱田に“榎本武揚の父、箱田良助誕生の地”
と書いた看板が立っているので、予てから気になっていたので行ってみた。
すると、一軒の大きなお屋敷の前に、武揚の曾孫に当たる方の書による、石碑が立
って居た。
碑文の略歴を読んでみると、
「良助は、寛政2年(1790年)箱田村庄屋細川園右衛門の次男として生まれた。
通称良助、後に左太夫、源三郎。
細川家が一時期箱田氏を称した事により、箱田姓を名乗った。
文化4年(1807年)17歳の時、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。
九州第1次、第2次測量に参加した後、忠敬の筆頭内弟子として測量及び地図作
成に尽力し、文政4年(1821年)の大日本沿海興地全図完成に大きく寄与した。
文政5年(1822年)榎本家に入り榎本園兵衛武規と改名、御徒士となる。
弘化元年(1844年)御勘定方となって旗本の列に加えられた。
榎本武揚は園兵衛の次男、オランダに留学して帰国後明治元年(1867年)幕府艦
隊を率いて函館五稜郭に立てこもった。
後、明治政府の要職を歴任した」
と書かれていた。
まさかこんな人物が隣町に住んで居たとは、今迄60数年生きて来て全く知らなか
った!
それにつけても、我が一族にはどこを探してもこのような名のある人物は居ない!
お金持ちの子は元々頭が良いのか、それともお金持ちの家は教育にお金をかけるか
らなのか、貧乏人はつい僻んでしまう!
と書いた看板が立っているので、予てから気になっていたので行ってみた。
すると、一軒の大きなお屋敷の前に、武揚の曾孫に当たる方の書による、石碑が立
って居た。
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碑文の略歴を読んでみると、
「良助は、寛政2年(1790年)箱田村庄屋細川園右衛門の次男として生まれた。
通称良助、後に左太夫、源三郎。
細川家が一時期箱田氏を称した事により、箱田姓を名乗った。
文化4年(1807年)17歳の時、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。
九州第1次、第2次測量に参加した後、忠敬の筆頭内弟子として測量及び地図作
成に尽力し、文政4年(1821年)の大日本沿海興地全図完成に大きく寄与した。
文政5年(1822年)榎本家に入り榎本園兵衛武規と改名、御徒士となる。
弘化元年(1844年)御勘定方となって旗本の列に加えられた。
榎本武揚は園兵衛の次男、オランダに留学して帰国後明治元年(1867年)幕府艦
隊を率いて函館五稜郭に立てこもった。
後、明治政府の要職を歴任した」
と書かれていた。
まさかこんな人物が隣町に住んで居たとは、今迄60数年生きて来て全く知らなか
った!
それにつけても、我が一族にはどこを探してもこのような名のある人物は居ない!
お金持ちの子は元々頭が良いのか、それともお金持ちの家は教育にお金をかけるか
らなのか、貧乏人はつい僻んでしまう!