二〇〇八年 北京オリンピックを前提に、作家重松清の視点(もしくは独断と偏見)から捉えた、「今」の中国の色々を記したルポ・ルタージュ。いや、旅行記か? 五輪観戦記? 本人曰く「オヤジの漫遊記」。ああ、まさしくそんなカンジ。
ぶっちゃけ、私はオリンピックに興味がない。むしろ嫌いと言っても過言ではない。
四年ごとに、その時期がくると「非国民!」と罵られる。(ちなみに今も非国民っぽい)
だいたいにおいて国と国とがなんやかやと、スポーツにしろなんにしろ、競い合い、争い合うのが気に食わない。まぁ、あんまり言うとまた「非国民!」と罵られるのでやめておくが、まったくそういうことに興味がないのだ。
そんな私が「北京オリンピックのなんやかや」を書いた本を読むのは、ひとえに重松清氏の作家力に他ならないのだが、ぶっちゃけ、このところの量産型重松小説には辟易としていたところもある。
「もう、どれ読んでもとにかくシゲマツだな」
そのようなカンジに陥ってしまっていたので、ここ最近は新刊が出ても読まなかった。が、ふと、旅行記の棚に目をやると(10冊に1冊の割合で旅行記を欲する)「重松清」の名が。氏の小説は、ちょっと読む気になれなかったが旅行記は是非とも読んでみたい、熱烈に。
というわけで読むに至った「加油……!」。日本語に訳すと「がんばれ」。
北京オリンピックでは、連呼されていたらしい「中国、加油!」。知らんけどさ。
で、この本なのだが、いい。すごく、いい。なにがいいかって、だって、オリンピックを題材にしているにもかかわらず、競技のことにはほとんど触れていないんだもの。
重松清の取材対象は、主に五輪の外にいる、もしくは、はじき出された人々。
国家の大イベントである、オリンピック。しかしそれを、いかほどの人民が、人間が、歓迎し、熱狂しているのであろうか。ようするに、色々な人がいる。私のように、まったくオリンピックにしろワールドカップにしろ無関心な人間が、いる。
そういうことを、北京という、いや中国という国家を通して、ちくちく、ぢくぢく、と書く。重松清は、書く。
「人情」というのではない。実際、中国にはそういう「情」は無い、というか、持たないのだと思う。でも、「温かみ」がある。それは大陸的な、おおらかさとも言えるし、横柄さとも言えるだろうけど、確実に、人間本来の、「温かみ」を、私はこの重松清の独断と偏見に満ちた本から見出した。これは重松清という自分にとっては特別な作家だからなのかも知れないけれど、このテの本(小説以外)で、しかも本人曰く「オヤジの漫遊記」とかいってる本で泣いてしまうというのは、そうそうないことである。
最後の「あとがき」が、ものすごい泣けてくるんだけれど、そこだけ読んでも泣けないだろう。本書を読み終えた後、中国という国の人々の姿がおぼろげながら見えてきたときに、最後のエピソードが効いてくるのだ。
本書を読んで、「やっぱり重松すげーや」と、わざわざ見直したアホウの私は早速「かあちゃん」という氏の小説をば借りてきた次第であります。
ぶっちゃけ、私はオリンピックに興味がない。むしろ嫌いと言っても過言ではない。
四年ごとに、その時期がくると「非国民!」と罵られる。(ちなみに今も非国民っぽい)
だいたいにおいて国と国とがなんやかやと、スポーツにしろなんにしろ、競い合い、争い合うのが気に食わない。まぁ、あんまり言うとまた「非国民!」と罵られるのでやめておくが、まったくそういうことに興味がないのだ。
そんな私が「北京オリンピックのなんやかや」を書いた本を読むのは、ひとえに重松清氏の作家力に他ならないのだが、ぶっちゃけ、このところの量産型重松小説には辟易としていたところもある。
「もう、どれ読んでもとにかくシゲマツだな」
そのようなカンジに陥ってしまっていたので、ここ最近は新刊が出ても読まなかった。が、ふと、旅行記の棚に目をやると(10冊に1冊の割合で旅行記を欲する)「重松清」の名が。氏の小説は、ちょっと読む気になれなかったが旅行記は是非とも読んでみたい、熱烈に。
というわけで読むに至った「加油……!」。日本語に訳すと「がんばれ」。
北京オリンピックでは、連呼されていたらしい「中国、加油!」。知らんけどさ。
で、この本なのだが、いい。すごく、いい。なにがいいかって、だって、オリンピックを題材にしているにもかかわらず、競技のことにはほとんど触れていないんだもの。
重松清の取材対象は、主に五輪の外にいる、もしくは、はじき出された人々。
国家の大イベントである、オリンピック。しかしそれを、いかほどの人民が、人間が、歓迎し、熱狂しているのであろうか。ようするに、色々な人がいる。私のように、まったくオリンピックにしろワールドカップにしろ無関心な人間が、いる。
そういうことを、北京という、いや中国という国家を通して、ちくちく、ぢくぢく、と書く。重松清は、書く。
「人情」というのではない。実際、中国にはそういう「情」は無い、というか、持たないのだと思う。でも、「温かみ」がある。それは大陸的な、おおらかさとも言えるし、横柄さとも言えるだろうけど、確実に、人間本来の、「温かみ」を、私はこの重松清の独断と偏見に満ちた本から見出した。これは重松清という自分にとっては特別な作家だからなのかも知れないけれど、このテの本(小説以外)で、しかも本人曰く「オヤジの漫遊記」とかいってる本で泣いてしまうというのは、そうそうないことである。
最後の「あとがき」が、ものすごい泣けてくるんだけれど、そこだけ読んでも泣けないだろう。本書を読み終えた後、中国という国の人々の姿がおぼろげながら見えてきたときに、最後のエピソードが効いてくるのだ。
本書を読んで、「やっぱり重松すげーや」と、わざわざ見直したアホウの私は早速「かあちゃん」という氏の小説をば借りてきた次第であります。
まだ図書館に返していなかったら、是非まわしてくれ。