こんばんは。いつの間にか本格的な夏が始まり、暑い日が続いてますね。
そんな中、私は今、腰が痛くて陸トレの日々を送っています。
あれこれ2週間、乗艇もエルゴもしていません。
入部以来「漕ぐ」動作をこんなにもしないのは初めてだと思います。
何かがすっぽりと抜け落ちたような感覚です。
たった1年で、こんなにも「漕ぐ」ことが染み付いてたことに驚いています。
さて。本題に入ります。
私はこの怪我を通して、努力というものは人を基準にするものではないな、と痛感しました。
人とは比べられないものだと知った、と言った方が正しいかもしれません。
というのも、それらは個人によって必要な量が違うからです。
また、見えてないところでこそ努力をしている人だっているからです。
私は今まで「“周りの人より”体幹をきちんとやろう」とか
「“周りの人より”ストレッチの知識をつけよう」とか、小さい頃からの癖で、「自分」と「主観的に見た他人」とを比べて、自分が人より上回っていると感じるだけで満足していました。
その恥ずかしいほど愚かな考えが、今回の敗因でしょう。
人よりやったところで私にとってはまだ不十分かもしれませんし、そもそも人より「どれくらい多く」やったかなんてのも、結局は自分にとっての努力の尺度で人の努力をはかった数字に過ぎません。
本当に、これほど曖昧なことはないでしょう。
努力なんて本人以外誰にも分かりません。
だから、努力なんて人と比べるものじゃありません。
比べられるとしたら、過去の自分しかいません。
だから私は今後、弱い自分に勝ち続けることに集中します。
そしてこのブランクを感じさせないほどに成長して、4年の夏、同期3人とクォドに乗ります。
ボートをはじめ、レース系の競技は最終的には相対的なものです。
タイムが自分にとってどんなに遅くても、他の選手より速ければ勝てます。(現実こんな甘いわけがありませんが)
逆に、自分にとってどんなに速いタイムを出しても、それを超える選手がいたら負けます。
レース自体は、こんな単純な世界です。
でも、それに辿り着くまでの経過は、個人で全く違う世界です。
この理不尽な世界で行われるからこそ、スポーツって楽しくて、ある時は人に感動や勇気を与えられるのかもしれませんね。
まとめきれていませんが、これで終わります。
いつになく稚拙な文章になってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
そんな中、私は今、腰が痛くて陸トレの日々を送っています。
あれこれ2週間、乗艇もエルゴもしていません。
入部以来「漕ぐ」動作をこんなにもしないのは初めてだと思います。
何かがすっぽりと抜け落ちたような感覚です。
たった1年で、こんなにも「漕ぐ」ことが染み付いてたことに驚いています。
さて。本題に入ります。
私はこの怪我を通して、努力というものは人を基準にするものではないな、と痛感しました。
人とは比べられないものだと知った、と言った方が正しいかもしれません。
というのも、それらは個人によって必要な量が違うからです。
また、見えてないところでこそ努力をしている人だっているからです。
私は今まで「“周りの人より”体幹をきちんとやろう」とか
「“周りの人より”ストレッチの知識をつけよう」とか、小さい頃からの癖で、「自分」と「主観的に見た他人」とを比べて、自分が人より上回っていると感じるだけで満足していました。
その恥ずかしいほど愚かな考えが、今回の敗因でしょう。
人よりやったところで私にとってはまだ不十分かもしれませんし、そもそも人より「どれくらい多く」やったかなんてのも、結局は自分にとっての努力の尺度で人の努力をはかった数字に過ぎません。
本当に、これほど曖昧なことはないでしょう。
努力なんて本人以外誰にも分かりません。
だから、努力なんて人と比べるものじゃありません。
比べられるとしたら、過去の自分しかいません。
だから私は今後、弱い自分に勝ち続けることに集中します。
そしてこのブランクを感じさせないほどに成長して、4年の夏、同期3人とクォドに乗ります。
ボートをはじめ、レース系の競技は最終的には相対的なものです。
タイムが自分にとってどんなに遅くても、他の選手より速ければ勝てます。(現実こんな甘いわけがありませんが)
逆に、自分にとってどんなに速いタイムを出しても、それを超える選手がいたら負けます。
レース自体は、こんな単純な世界です。
でも、それに辿り着くまでの経過は、個人で全く違う世界です。
この理不尽な世界で行われるからこそ、スポーツって楽しくて、ある時は人に感動や勇気を与えられるのかもしれませんね。
まとめきれていませんが、これで終わります。
いつになく稚拙な文章になってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。