ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

合理的な理由

2009-07-09 23:09:16 | Weblog
基本ネガティブな人間だと思う。

よく過去のことを思い出しては、くよくよするし、
これから起こるかもしれない未来を予想しては、自己嫌悪になっている。
そのくせ、忘れっぽい。

言うなれば、ヒマな人間、なのだと思う。

自分を納得させたいがために、いろいろぐるぐると考える。
そして、合理的な理由を作り出そうとする。
そんな時間があるのなら、もっと何かワクワクどきどきするような、
みんなと楽しめるような生産的なことをすればいいのに、
と、自分でも思うけれど、
まず、こういう考えにとらわれているときは、身動きがとれなくなる。

もし、そんな状態の自分を、幽体離脱して外から見ることができたなら、
きっと、ただ、ボーっとしているのんきな人に見えるだろう。
内面は、ものすごい勢いで複雑に絡み合っているというのに、
ただの自意識過剰がこうじているだけだから、まあ端から見ればヒマ人そのものだ。

今日は、朝の電車のなかで、ひとつ合理的な理由を見つけた。
なぜ、私は「ある一点」において、他人に譲歩したのか、ということへの理由。
要は、自分のキャパシティをこえて他人に親切にしてしまい、
それが常態化して、疲れてしまったことへの自分なりの合理的な理由を探していたのだ。

私には、よく、この手のくよくよがある。
気が強いくせに、あるとき断りきれないことがあって、後でずっと後悔するのだ。
しかも、いったん引き受けてしまったがために、なかなか断れなくなる。
とにかく、変にプライドが高くて、自分に辟易する。

朝の電車のなかで思いついた理由というのは、
去年の11月、ダライ・ラマが来日したおりに、講演会を聴きにいった。
その時えらく感動し、「利他」「慈悲」について実践してみたいというあこがれがつのり、
思わず人に深切にしてしまったけど、
それは、ただのあこがれであり、心が入れ替わったわけではなかったから、
いま、そのひずみで苦しんでいる、ということ。
確かに、あの慣習がはじまったのは、ダライ・ラマの講演会の翌週ではあった。

そして、先日『華厳経』を読んだことが、
この「合理的な理由」を思いついた、ひとつのトリガーとなったのだろう。

朝は、この考えで、ふと合点がいき、気が楽になった。
でも、夜になって考え直してみると、これが本当に合理的な理由だとは思えなくなって来た。
つまり、またぐるぐるしだした。

そしていま、最大の感心ごとは、今晩は上の家の子どもが静かかどうかということ。
昨晩は、1時半過ぎまで、上はドタバタ騒いでいた。
集合住宅には、たまにこういった試練がある。
そして、また忘れ、またぐるぐる考える。