ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

死と身体―コミュニケーションの磁場

2009-07-14 21:39:16 | Weblog
内田樹著、医学書院刊。

レヴィナスの本をよく翻訳している内田さんの書き下ろし。
帯には、「人間は、死んだ者とも語り合うことができる」と。

人は「喪」の作業を行う。確かにそう思う。
お線香をあげて手を合わせると、死者たちと会話をしたような気分にもなる。

でも、ある朝、夢から覚めた瞬間に、永遠の喪失感を味わうことがある。
ふとしたときに、「もう話すことはできないんだ」と思うことがある。

これは、失恋した相手に、もう二度と会えないと思う感覚に似ている。
ただ単純に、会えない、のだ。

「喪」の作業とは、人の死という現実を引き延ばして受け止めるものなのだろうか。
四十九日など、宙ぶらりんな状態が慣習としてあることは、
実感はあまりないけれど、一応知っている。
これは、「死」を引き延ばしたいからあるものなのか・・・。

「死者」は、「モノ」でもなく「生者」でもない。
だからその中間のどちらでもない領域に死者たちは宙づりにされなければならない。

本当にそうなのだろうか。

では、自分の「生」を生きられない人は、「死者」なのか。
「植物状態の人間」は、すでに「死者」なのか。
「生者」と「死者」は、どこに境界線があるのか。
いま元気に仕事をしている人のうち、自分をだましだまし毎日を過ごしている人は、
どちらに属しているのか。

この本を読んで、すごくすごく納得したこともあれば、
レヴィナスの本を読んだ後のような、「これは?」「あれは?」と考えるような
感覚も残った。
これこそが、読書がくれる刺激というもの。
だからこそ、わたしはどんなに忙しくても読書をやめられない。

わたしの喪の作業は、決してスムーズだとはいえない。
七転八倒だ。

先日、高野山の母のお寺さんから、お盆の案内が来た。
「ろうそく祭り」に行きたいけど、今年も仕事があって無理。

最近思う。
私は死んだら、父と弟のいる埼玉のお墓と、母のいる高野山とに分骨してもらいたい。
埼玉は、どうしても父祖の地という気持ちがしない。
でも、高野山は、訪れただけで血が喜ぶような感覚を味わう。

去年は仕事が忙しくて高野山に行けなかったんだけど、今年は行きたいなあ。