ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

神の痕跡―ハイデガーとレヴィナス

2009-07-25 23:41:32 | Weblog
岩田靖夫著、岩波書房刊

存在への問い。
西洋哲学は、人間に対する、素晴らしいアプローチのひとつだと思う。

自由を倫理という側面からとらえる。
愛によって充足する。
他者への応答。
自分の肉体と不可分な主観。

そして、認識に対する考察が深まる。

こういった本を休日に読むと、即、仕事を辞めたくなる。
他者という鏡なくして、自分はない。
だから、世間の目を気にする。
仕事で求められている役回りに徹しようとする。
そもそも、収入がなくては食事もできないし、生物的に生きてはゆけないとも思う。

でも、自分が代替不可能な存在だと信じたい。
結婚もせず、子どももいない。
生存の根底から突きつけられる「立場」を持たない。
そんな人間が、本当に、自分を代替不可能な存在だと信じられるのだろうか。
もし、信じられるとしたら、それはどこにあるのか。

これはすでに、哲学の領域を越えた問いのような気がする。
自分でも、本を読んでいて、求めているのは哲学ではなく、
ある種の宗教ではないかと感じることがある。

いっそ、新興宗教でもはじめてみるか。

そんな発想は、ニヒルな笑いにしかならない。
私は自分なりの「神学」というか「宗教」を持っていると思うけど、
それを既存の宗教はおろか、新しく団体をつくって、
他人と集い、共有した気分になることは、たぶん生理的にできない。

それほどまでに執着する、私という個。

ふだん、うまく自分をごまかしているのに、
ふと時間ができた週末に、ゾンビのように出てくる自分。

私にとって、仕事は収入のためだけのものではない。
でも、本当に自分のために仕事をしているのか。
そして、自分なんかのためだけに頑張れるのか、と思う。
共存って、なんだ。

日曜日も一人で引きこもる。
願わくば、上の家の子どもが静かで、思索の時間がとれますように。

会話と対話

2009-07-25 11:28:07 | Weblog
昨日、久しぶりに友人と長話をした。
話をしながら、頭のバックグラウンドで、
「話をする」ってどういうことだろう、と考えていた。

いつも仕事でいろいろな人と話をしている。
メインは、仕事場にいる仲間たち。
彼らは独特の世界観をもっているようなので、
会話の内容が肝心な価値観の部分になると、基本的には聞き役にまわる。

双方向のやり取りになるのは、社外の人。
私は仕事場で雑用係をしているから、多い時で30人以上の人と言葉をかわし、
メールは、多い日で60通程度のやりとりがある。

そんなボリュームになってくると、
もう頭の中がざわついて、何かをじっくり考えるような余裕はなくなる。
話をしている相手にとって、一番いいだろうと思われるソリューションを
テンポよく繰り出すことに徹する。
そして、そこそこ上手くハマった時は、それなりにテトリス的な気持ちよさがある。

でも、それは、想定の範囲を超える会話ではない。

そもそも仕事では、想定外のことが頻繁に起こると困るわけだから、
落としどころに誘導するように、話を進めることが多い。
何か不測の事態が起きたときにも、優先順位を決めて、
核がぶれないように情報を整理していれば、たいていのことは何とかなる。
それを順序よく、気持ちよく進めようと努力すると、何年かに1回くらい
「仕事ができる人だ」などというよくわからない賛辞をいただけたりする。

でも、これって飽きちゃうんだ。

昨日会った友人は「ブログを書いてみたら」と勧めてくれた人。
おかげで、このブログを始めた。

私にとってブログを書くことは、その日にあったことや感じたことを
読んだ本の内容を中心に整理して、自分なりの言葉にすること。
でも、日記とは違う。
日記なら、仕事であったイヤなこととか、
悩んでいることをストレートに書くことになるだろう。
それはそれでいいことだと思うけれど、
私の場合、それだと堂々めぐりの感情論になってしまって、
結局嫌気がさして書けなくなってしまう。
本の感想などに置き換えるから、はじめて整理できる気持ちがある。

仕事で交わしているのは「会話」で、
友人やこのブログで行っているのは「対話」、というところか。
私は最近、仕事で「対話」をしなくなったなあ。