たぶんいま、プレ四十肩になっている。
首の後ろから右肩にかけてが痛く、症状は、
・右腕が肩より上に上がらない。
・うつむけない。
なんとも友好的で前向きだ。
私のようなケンカっぱやい人間には、ちょうどいいのではないかと思う。
姿勢を変えるのもつらい、という痛みを経験するのは、生まれてから3回目。
1回目は、幼稚園のとき足の骨をおった。
2回目は、小学生のときに肺炎になり、胸から胃にかけてが猛烈に痛かった。
そして、3回目はいま。
どんどん上にのぼってきている。
きっと次は、脳が動かなくなるのだろう。
痛覚だけ残ったらイヤだな。
よくチベットで中国政府による迫害に遭った人の話で、
拷問による痛みに耐え、自分の信念を守り通したことを聞く。
いまも現在進行形で、耐えて、戦っている人たちがいる。
この強さって、何なんだろう、と思う。
今日と明日、明後日以降が平和に続くことを信じて育って来た私にとって、
こういった人たちのことを、自分のことのように考えることができるのは、
もしかしたら自分の身体に変調があり、
いやおうなく、肉体的な痛みと直面したときだけかもしれない。
私は母子家庭で育ち、預金もほとんどない中で母が倒れ、
その後10年以上を植物状態の母とともに過ごしたけれど、
そんな私でも大学をやめることなく、奨学金以外の借金をせず、
暑くも寒くもなく、着るものも住むところもあり、
旅行に行ったり美味しいものを食べたりできたのは、
ひとえに、日本という国に生まれ、バブルの蓄えがあった時代に
学生時代を過ごすことができたことによる。
母に一番お金がかかったとき、まだ介護保険制度は始まっていなかったので、
いまよりも、ずいぶんたくさんの援助金を、行政機関からもらえた。
私よりももっと賢くて、人格の優れた人が、
ただ生まれた場所と時代が少し違うというだけで、
その能力を発揮できないままに倒れていくことがある。
運命は平等ではないけれども、人にはそれぞれ、超えるべきものがある。
それを見て、それに挑める人。
他人との比較ではなく、自分の前にあるものを見てひたむきに登ることができる人。
私は、それをしなやかにできたらいいなあ、と思う。
首の後ろから右肩にかけてが痛く、症状は、
・右腕が肩より上に上がらない。
・うつむけない。
なんとも友好的で前向きだ。
私のようなケンカっぱやい人間には、ちょうどいいのではないかと思う。
姿勢を変えるのもつらい、という痛みを経験するのは、生まれてから3回目。
1回目は、幼稚園のとき足の骨をおった。
2回目は、小学生のときに肺炎になり、胸から胃にかけてが猛烈に痛かった。
そして、3回目はいま。
どんどん上にのぼってきている。
きっと次は、脳が動かなくなるのだろう。
痛覚だけ残ったらイヤだな。
よくチベットで中国政府による迫害に遭った人の話で、
拷問による痛みに耐え、自分の信念を守り通したことを聞く。
いまも現在進行形で、耐えて、戦っている人たちがいる。
この強さって、何なんだろう、と思う。
今日と明日、明後日以降が平和に続くことを信じて育って来た私にとって、
こういった人たちのことを、自分のことのように考えることができるのは、
もしかしたら自分の身体に変調があり、
いやおうなく、肉体的な痛みと直面したときだけかもしれない。
私は母子家庭で育ち、預金もほとんどない中で母が倒れ、
その後10年以上を植物状態の母とともに過ごしたけれど、
そんな私でも大学をやめることなく、奨学金以外の借金をせず、
暑くも寒くもなく、着るものも住むところもあり、
旅行に行ったり美味しいものを食べたりできたのは、
ひとえに、日本という国に生まれ、バブルの蓄えがあった時代に
学生時代を過ごすことができたことによる。
母に一番お金がかかったとき、まだ介護保険制度は始まっていなかったので、
いまよりも、ずいぶんたくさんの援助金を、行政機関からもらえた。
私よりももっと賢くて、人格の優れた人が、
ただ生まれた場所と時代が少し違うというだけで、
その能力を発揮できないままに倒れていくことがある。
運命は平等ではないけれども、人にはそれぞれ、超えるべきものがある。
それを見て、それに挑める人。
他人との比較ではなく、自分の前にあるものを見てひたむきに登ることができる人。
私は、それをしなやかにできたらいいなあ、と思う。