人格の形成において、一番影響力があるのは、もちろん親だと思う。
私の母は比較的博愛主義の人だったけれど、
それはもう、私が嫉妬するくらい他人の子どもも大切にする人だったけれど、
ひとつだけすごく覚えている「偏見」の記憶がある。
私が幼稚園に通っていたころ、一緒に映画「風と共に去りぬ」を観た。
母はビビアン・リーが大好きで、この映画も大好きで、
両親ともに、最良のハリウッド映画としてあこがれていたから、
この映画を地上波で放送するというだけで、当時我が家にビデオデッキが来た。
ソニーのベータ、K-60というビデオテープとともに。
記憶をたよりに書くので、映画の細部は若干勘違いがあるかもしれない。
スカーレットが大好きだったアシュレと結婚したメアリーは難産だった。
戦火が近づくなか、メアリーは産気づき、
スカーレットは小間使いの黒人の女の子を町医者まで使いに出す。
「一刻もはやく来てほしい」と。
でも、待てど暮らせど小間使いは戻ってこない。
焦燥感にかられたスカーレットがふと窓の外に目をやると、
歌をうたいながらのんびりと戻って来る小間使いの姿が見え、
スカーレットは激怒する。
スカーレットの逆鱗にふれた小間使いは、自分がなんで怒られているのか理解できない。
ただおびえるのみだ。
このシーンで母は、「黒んぼの子どもっぽいね。足りない」と言った。
当時、私の幼稚園に来てくれていた英語のアリ先生は、
とても温厚でやさしく、落ち着いた雰囲気のすてきな黒人の男性だった。
だから私は、「アリ先生は、いい人だよ」と言った。
次に母から帰って来たのは、「アリ先生はいい人かもしれないけど、黒人は全体的にねえ」
という言葉だった。
「ダッコちゃん」人形も、友人がつけていたので私がほしがると、
「黒人なんかを腕につけて、何が面白いの」と一蹴された。
さいわい、私は黒人を嫌いになるほど、その後お近づきになることがなかったので、
この偏見は引き継がなくてすんだけれど、
心の奥底を探って行ったら、もしかしたらどこかに、偏見の片鱗がひそんでいるかもしれない。
もちろん、いろんな人がいるから、そんな黒人の小間使いもいただろう。
そして同時に、白人の小間使いでも、そんな人はいただろうと思う。
白人がつくった映画だから、黒人に対する偏見が入っているかもしれない。
黒人はこのようにおろかなんだ、という制作者側の偏見が、強くあらわれてしまっているのかもしれない。
でも映像となった瞬間に、それはものすごい影響力をもち、勝手に一人歩きして行く。
その映像世界の中で必然的であればあるほど、現実世界をもおかし、波及する。
その訴求力があるからこそ、クリエイターたちは映像をつくりたがる。
そして、中央統制の国家は、映像界を支配したがる。
私の母は比較的博愛主義の人だったけれど、
それはもう、私が嫉妬するくらい他人の子どもも大切にする人だったけれど、
ひとつだけすごく覚えている「偏見」の記憶がある。
私が幼稚園に通っていたころ、一緒に映画「風と共に去りぬ」を観た。
母はビビアン・リーが大好きで、この映画も大好きで、
両親ともに、最良のハリウッド映画としてあこがれていたから、
この映画を地上波で放送するというだけで、当時我が家にビデオデッキが来た。
ソニーのベータ、K-60というビデオテープとともに。
記憶をたよりに書くので、映画の細部は若干勘違いがあるかもしれない。
スカーレットが大好きだったアシュレと結婚したメアリーは難産だった。
戦火が近づくなか、メアリーは産気づき、
スカーレットは小間使いの黒人の女の子を町医者まで使いに出す。
「一刻もはやく来てほしい」と。
でも、待てど暮らせど小間使いは戻ってこない。
焦燥感にかられたスカーレットがふと窓の外に目をやると、
歌をうたいながらのんびりと戻って来る小間使いの姿が見え、
スカーレットは激怒する。
スカーレットの逆鱗にふれた小間使いは、自分がなんで怒られているのか理解できない。
ただおびえるのみだ。
このシーンで母は、「黒んぼの子どもっぽいね。足りない」と言った。
当時、私の幼稚園に来てくれていた英語のアリ先生は、
とても温厚でやさしく、落ち着いた雰囲気のすてきな黒人の男性だった。
だから私は、「アリ先生は、いい人だよ」と言った。
次に母から帰って来たのは、「アリ先生はいい人かもしれないけど、黒人は全体的にねえ」
という言葉だった。
「ダッコちゃん」人形も、友人がつけていたので私がほしがると、
「黒人なんかを腕につけて、何が面白いの」と一蹴された。
さいわい、私は黒人を嫌いになるほど、その後お近づきになることがなかったので、
この偏見は引き継がなくてすんだけれど、
心の奥底を探って行ったら、もしかしたらどこかに、偏見の片鱗がひそんでいるかもしれない。
もちろん、いろんな人がいるから、そんな黒人の小間使いもいただろう。
そして同時に、白人の小間使いでも、そんな人はいただろうと思う。
白人がつくった映画だから、黒人に対する偏見が入っているかもしれない。
黒人はこのようにおろかなんだ、という制作者側の偏見が、強くあらわれてしまっているのかもしれない。
でも映像となった瞬間に、それはものすごい影響力をもち、勝手に一人歩きして行く。
その映像世界の中で必然的であればあるほど、現実世界をもおかし、波及する。
その訴求力があるからこそ、クリエイターたちは映像をつくりたがる。
そして、中央統制の国家は、映像界を支配したがる。