ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

偏見について

2010-02-09 15:57:50 | Weblog
人格の形成において、一番影響力があるのは、もちろん親だと思う。
私の母は比較的博愛主義の人だったけれど、
それはもう、私が嫉妬するくらい他人の子どもも大切にする人だったけれど、
ひとつだけすごく覚えている「偏見」の記憶がある。

私が幼稚園に通っていたころ、一緒に映画「風と共に去りぬ」を観た。
母はビビアン・リーが大好きで、この映画も大好きで、
両親ともに、最良のハリウッド映画としてあこがれていたから、
この映画を地上波で放送するというだけで、当時我が家にビデオデッキが来た。
ソニーのベータ、K-60というビデオテープとともに。

記憶をたよりに書くので、映画の細部は若干勘違いがあるかもしれない。

スカーレットが大好きだったアシュレと結婚したメアリーは難産だった。
戦火が近づくなか、メアリーは産気づき、
スカーレットは小間使いの黒人の女の子を町医者まで使いに出す。
「一刻もはやく来てほしい」と。

でも、待てど暮らせど小間使いは戻ってこない。
焦燥感にかられたスカーレットがふと窓の外に目をやると、
歌をうたいながらのんびりと戻って来る小間使いの姿が見え、
スカーレットは激怒する。
スカーレットの逆鱗にふれた小間使いは、自分がなんで怒られているのか理解できない。
ただおびえるのみだ。

このシーンで母は、「黒んぼの子どもっぽいね。足りない」と言った。
当時、私の幼稚園に来てくれていた英語のアリ先生は、
とても温厚でやさしく、落ち着いた雰囲気のすてきな黒人の男性だった。
だから私は、「アリ先生は、いい人だよ」と言った。
次に母から帰って来たのは、「アリ先生はいい人かもしれないけど、黒人は全体的にねえ」
という言葉だった。

「ダッコちゃん」人形も、友人がつけていたので私がほしがると、
「黒人なんかを腕につけて、何が面白いの」と一蹴された。

さいわい、私は黒人を嫌いになるほど、その後お近づきになることがなかったので、
この偏見は引き継がなくてすんだけれど、
心の奥底を探って行ったら、もしかしたらどこかに、偏見の片鱗がひそんでいるかもしれない。

もちろん、いろんな人がいるから、そんな黒人の小間使いもいただろう。
そして同時に、白人の小間使いでも、そんな人はいただろうと思う。
白人がつくった映画だから、黒人に対する偏見が入っているかもしれない。
黒人はこのようにおろかなんだ、という制作者側の偏見が、強くあらわれてしまっているのかもしれない。

でも映像となった瞬間に、それはものすごい影響力をもち、勝手に一人歩きして行く。
その映像世界の中で必然的であればあるほど、現実世界をもおかし、波及する。
その訴求力があるからこそ、クリエイターたちは映像をつくりたがる。
そして、中央統制の国家は、映像界を支配したがる。

卑屈ってどんなことだろう

2010-02-09 00:04:21 | Weblog
むかしうちで犬を飼い始めたとき、母が中学一年生の私にこう言った。
「いつまでも愛くるしいリョウちゃんでいてほしいじゃない。
だから、まず絶対にいじめないこと。これはわかるよね。
怒ることといじめることは違うんだよ。
そして次に大切なのは、私たち自身が卑屈な人間にならないように約束しよう。
意地悪な気持ち、そして卑屈な心は犬に伝わってしまうから気をつけようね」と。

野良犬や童話に出てくるかわいそうな犬のようになってほしくなかったら、
私は人間の友だちと接するように、尊重して接するように心がけた。

両親の教育というのは偉大だと思う。
感謝してもしきれない。

たとえそれが一時期は、重荷になったとしても、
呪縛のように心をふさいだとしても、
その霧が晴れたあと、見えてくるのは両親からもらった言葉であることが多い。

いま、一番合点がいかないのは、「卑屈」という言葉。
ある人が、自分のことを「私は卑屈な人間ですから」と言ったことがある。
正直に言って、私はその人のことを「嫉妬深い」「したたかだ」とは思ったことがあるけれど、
「卑屈だ」と思ったことはなかった。

あの人は、自分のどんな側面をもって「卑屈だ」と言ったのだろう。
そして、なんとなく言外に「でも、あなたも卑屈よね」と言われたような気がした。
そう受け取ったということは、私の中にも「卑屈」の芽があったのかもしれない。

でも、そもそも「卑屈」ってどんなことだろう。
上司にこびへつらうことや、お客さまに平身低頭することを「卑屈」というなら、
会社にいて仕事をしていくとき、
まったく卑屈さを自分の中に認めなかった人なんて、いないんじゃないかと思う。

私は「卑屈な人」よりも、仕事の中に、堂々と「村意識」を持ち込む人の方が、
付き合いづらいと思っている。

こんなときに、お酒を飲んで語りたい両親はすでにいない。
一人なんとなく杯をあけながら、心の中で会話をする。
今日は久しぶりに夜光杯を使おう。
あの石の冷たさと透過する七色の光が、なんとも恋しくなった。