ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

偏見

2013-01-26 13:15:49 | Weblog
私なりに「偏見」について考える。

日本人にとって「上海で育ち、上海語を話す人」は上海人だけど、
上海人にとってはそうではない。
「あの人の両親は、もともと寧波」とか「もともと江蘇」などとよく言う。
江戸っ子は、三代以上、江戸東京に住んでいる人のことを言うようなものだ。
上海自体の歴史が、中国の歴史に比べると全然短く、
アヘン戦争後の100年程度だと思うと、
遣唐使の時代から立派な町だった寧波なんかのほうが、
もっと胸をはっていいんじゃないかとも思う。

ただ、現時点でまだまだ地域格差が大きい中国では、
私から見ても、外省の人と、上海人では大きく違うと思うことがある。
三代まで続かなくても、上海で生まれ育った人と、大学以降に外省から上海に来た人、
特にあまり裕福でない地方から来た人は、違いがある。

ざっくりと見た目で言うと、色彩感覚と服装センスがまったく違うと思う。

中国人の服装センスは、この20年間でかなりよくなった。
ビックリするような化粧も、雄鶏かと思うような女性の前髪もなくなった。
男性も、Gパンとスニーカーをオシャレにはける人が増えた。

でも、全体的にもっさりとしていたり、ちぐはぐな色づかいだったりすることが、
やはり外省の人には多い。
オシャレの基準が違う。
ということで、会社に新しく中国人のメンバーが加わると、
一目で上海人か外省人かは見分けがつく。
そして、たまに「それで上海人?」という人もいるのだけれど、
こういう人は、上海人の中でも、服装と言うよりは考え方として、
浮いてしまうことが多いようだ。(浮くことが悪いとは限らないけど)

まあ、私も「中国用」で購入したユニクロの安いダウンジャケットのせいで、
セーターに羽がたくさんついて、ダサイこときわまりないので、他人のことは言えない。

あと、昨日上海人の同僚と話し込んでみて、
現在30代の上海人は独立心が強いと改めて思った。
過去20年間で上海は猛烈に発達し、裕福になって、外国のものも入って来て、
その過程で、自分の目で見て判断する習慣がついたんだと思う。
だから、比較と批判と、そして自他の違いに基づいた信頼の観念がある。
外国との距離はわかっているけど、決して卑屈ではなく、
そのギャップをユーモアにする余裕がある。(←これ、日本人が忘れている点)

外省出身者は、どちらかというと素朴だけど、他人への依存心も強い。
これは、家族の規模や、地方共産党政府の強さの違いなんだろうと思う。

ということで、私と同年代から10歳若いくらいまでの上海人とは、
結構話があうことも多い。
これが、年齢が10歳くらい上になると、
腹の探り合いばかりになるか、金儲けしか考えない人が猛烈に増える。
育った時代と場所は、こんなにも人格に影響するのかと、つくづく思う。

そして外省出身の20代前半~中盤の女子などは、もうまったく話があわない。
彼女たちは中国を知る上では非常にいい指標になってくれる。
20代外省女子が求める結婚の条件。
・上海人であること。
 →結婚して上海戸籍がほしい。
・お給料は低くてもいいから家をもっていること。
 →中国人は住宅ローンを組まないから、
  旦那さんの親が、家を購入できるほど、バブルに乗って資産家になったということ。
  (ここで、中国は共産主義だから資産家なんていないはずなどと言っても始まらない)
・家事ができること。
 →上海人の男性は家事全般ができることで有名だったが、
  80后の男性には、料理ができない人も結構多い。
  もし旦那さん自身が料理をできないなら、お手伝いさんを雇えるほど資産家であること。
・自分よりも背が高いこと。
 →上海人は、平均するとあまり背が高くない。
  特に外省の中国人女性は、平気で10センチくらいのハイヒールをはいて、
  会社にヨロヨロとよろめきながら出社してくるので、
  少し背が高い女性だと「自分が思う最高のおしゃれ」をしたときに、
  男性のほうが背が低いという事態に陥ることがある。

日本人からすると「なめんな!」と言うようなことを、「当然の権利」として主張してくる。
すごいお金持ちのお嬢様が出す条件ならわかる。
でも、上のようなことを、地方の一般家庭で育った子たちが平然と言うから、
恐ろしいと思う。

こうなると、一緒に仕事をしていても「顧客満足」なんて概念が通じるわけがない。
彼女たちが「顧客満足」と言う時は、単に、
「私が怒られちゃったじゃないのよ。どうしてくれるのよ!」という上司や会社に対する
不満でしかない。

ということで、
付き合う時間が長くなり、その人柄が見えてくるにつれて、
一人の人間として「田舎者だからしょうがないんだよ」と思いたくなる時もある。
でも、このとき、どうして、
「田舎者」「外省人」「上海人」「中国人」そして、「日本人」と、
ひっくるめた言い方をしたくなるのかが、不思議だ。

そして、ひっくるめたときから、それは「偏見」に落ちてしまう。
単に、「私が話した中では、こういう傾向が強い」というだけで、
サンプリングの母数としては数が足りなく、そしてサンプルの集め方としても偏っているのに。