最近日本では、悲しい出来事ともに「体罰」について様々な議論があるようで、
ニュースのトピックスを見るたびに、中学の部活のことを思い出す。
中学の部活では、毎日顧問の先生に殴られていた。
殴られない日があると、チームメートとお祝いするくらいに殴られた。
もちろん、毎日時間が止まって部活の時間が来なければいいと思っていたし、
自殺しようかと思ったこともあった。
チームメートも同じようなことを言っていた。
2年生のある日、あまりにもすごく殴られ最悪な気持ちになっていたら、
引退した3年生の先輩が「いまの辛さは絶対将来役に立つよ。
受験勉強は苦しいけど、殴られない分だけまだマシと思って頑張れるもん」と励ましてくれた。
これは顧問の先生もよく使った言い訳で、「将来の根性につながる」とよく言われた。
ただ、あまりにも体罰がひどかったので、親の間でも「引継」があり、
「なるべく交代で練習を見に行くこと。親がいると顧問も手加減するから」と
先輩の親から母も言われたらしい。
中学時代はいつも母と一緒にお風呂に入っていたので、
私の身体についた青あざをみて、ある日母が「お母さんから先生に言おうか?」と言った。
私は咄嗟に顧問からの報復をおそれ、こう答えた。
「まだ我慢できるから大丈夫。もっとひどく殴られている人いるし。
それに、私にはお父さんがいないから、ちゃんと叱ってくれる男の大人がいるのはいいことだよ」と。
そしたら、母に「ごめんね。でも、そういう考え方できるって嬉しいよ」と言われた。
私の咄嗟の言い訳が母を傷つけたわけだ。
母は褒めてはくれたけど、悪いことを言っちゃったんだなと思い、
それから、部活が辛いと言いづらくなってしまった。
そして引退して、受験勉強があって、
いろいろと苦しいときに、中学時代の体罰の記憶が支えてくれるかと思ったんだけど、
見事なまでに、まったく思い出さなかった。
私の性格は、「いま辛いけど、過去と照らし合わせて頑張れる」と思うのではなく、
「これを乗り越えたら、何かをやる可能性が広がる」と思うほうだった。
ということで、将来にやりたいことが明確なほうが、頑張れた。
実際、部活で辛かったことを我慢できたときだって、
これを我慢してついていったら、次の試合に勝てるかもしれないと思ったからであって、
それよりももっと過去と比較して頑張っていたわけではない。
部活をやっていた当時だって、両親が離婚した辛さが、体罰を乗り越える支えにはなってくれず、
かえって母を傷つけたのと同じだ。
体罰には絶対的な立場の違いが必要で、
弱い立場の者は、永遠に負債を返し続けることを要求されることで成り立つ。
中学や高校の部活の試合なんて、ルールすれすれのケンカと同じなんだから、
同年代の対戦相手と本気で戦えることのほうがずっと重要だ。
ミスをしたら顧問から怒られるというので萎縮したら、それこそ意味がないし、
体罰をする先生ほど「おまえらはケンカもしたことがない」と変なことを言うものだ。
ただし、だからといって、ある特定の先生や学校だけを問題視するのは、おかしいと思う。
そうやって絶対的な立場の違いから「負債の返済を求める」のは、体罰と同じ構造に見える。
ニュースのトピックスを見るたびに、中学の部活のことを思い出す。
中学の部活では、毎日顧問の先生に殴られていた。
殴られない日があると、チームメートとお祝いするくらいに殴られた。
もちろん、毎日時間が止まって部活の時間が来なければいいと思っていたし、
自殺しようかと思ったこともあった。
チームメートも同じようなことを言っていた。
2年生のある日、あまりにもすごく殴られ最悪な気持ちになっていたら、
引退した3年生の先輩が「いまの辛さは絶対将来役に立つよ。
受験勉強は苦しいけど、殴られない分だけまだマシと思って頑張れるもん」と励ましてくれた。
これは顧問の先生もよく使った言い訳で、「将来の根性につながる」とよく言われた。
ただ、あまりにも体罰がひどかったので、親の間でも「引継」があり、
「なるべく交代で練習を見に行くこと。親がいると顧問も手加減するから」と
先輩の親から母も言われたらしい。
中学時代はいつも母と一緒にお風呂に入っていたので、
私の身体についた青あざをみて、ある日母が「お母さんから先生に言おうか?」と言った。
私は咄嗟に顧問からの報復をおそれ、こう答えた。
「まだ我慢できるから大丈夫。もっとひどく殴られている人いるし。
それに、私にはお父さんがいないから、ちゃんと叱ってくれる男の大人がいるのはいいことだよ」と。
そしたら、母に「ごめんね。でも、そういう考え方できるって嬉しいよ」と言われた。
私の咄嗟の言い訳が母を傷つけたわけだ。
母は褒めてはくれたけど、悪いことを言っちゃったんだなと思い、
それから、部活が辛いと言いづらくなってしまった。
そして引退して、受験勉強があって、
いろいろと苦しいときに、中学時代の体罰の記憶が支えてくれるかと思ったんだけど、
見事なまでに、まったく思い出さなかった。
私の性格は、「いま辛いけど、過去と照らし合わせて頑張れる」と思うのではなく、
「これを乗り越えたら、何かをやる可能性が広がる」と思うほうだった。
ということで、将来にやりたいことが明確なほうが、頑張れた。
実際、部活で辛かったことを我慢できたときだって、
これを我慢してついていったら、次の試合に勝てるかもしれないと思ったからであって、
それよりももっと過去と比較して頑張っていたわけではない。
部活をやっていた当時だって、両親が離婚した辛さが、体罰を乗り越える支えにはなってくれず、
かえって母を傷つけたのと同じだ。
体罰には絶対的な立場の違いが必要で、
弱い立場の者は、永遠に負債を返し続けることを要求されることで成り立つ。
中学や高校の部活の試合なんて、ルールすれすれのケンカと同じなんだから、
同年代の対戦相手と本気で戦えることのほうがずっと重要だ。
ミスをしたら顧問から怒られるというので萎縮したら、それこそ意味がないし、
体罰をする先生ほど「おまえらはケンカもしたことがない」と変なことを言うものだ。
ただし、だからといって、ある特定の先生や学校だけを問題視するのは、おかしいと思う。
そうやって絶対的な立場の違いから「負債の返済を求める」のは、体罰と同じ構造に見える。