豚も杓子も。

私にすれば上出来じゃん!と開き直って、日々新たに生活しています。

2006年05月27日 | Weblog
朝一番に、コンピュータの記憶装置であるバンクを起動させる。
これは、日替わりの当番制でした。

バンクには、仕事に必要な膨大な情報が登録されていました。それを更新するための作業の前に、前日の終わりに眠らせたバンクを目覚めさせ、準備を整えておかなくてはならないのです。幅広い磁気テープが収納された大型のクローゼットのようなものがそのバンク本体でした。二十数年ほど前は、まだまだいろんな装置が大掛かりでした。

昔のシングルレコードほどの大きさのフロッピーを差し込んでキーを回しボタンを押して起動させるという作業が、なかなか一回ではうまくいかないのです。

そこで、私が考えた方法は・・。
当番の日は、まず深呼吸をしてバンクの前に立ち、朝の挨拶をした後、バンク様に向かい、あなたがどのように聡明で美しいかを讃えます。特に、美しいというところを強調します。とても、あなた様に適う私ではないと。
そして、どうか今日もご機嫌麗しくお目覚め下さいますようにとお願い申し上げます。そうして、キーを回し、起動ボタンを押すと、あーら不思議、たいがい一回で起動するのです。なぜか、バンク様は女性だと信じていました。


万物に魂が存在するという考え方は、日本の特徴としてよく言われることですが、
生き物以外にも、そういう考え方を当てはめがちなのかもしれません。
物を大切に扱うということもその一つかも。

人間の魂の存在というのは、そういう考え方の下では存在しないほうがおかしいといえるのかもしれませんね。
亡くなった方に最後のお別れをする時、生前のお姿にお別れするというよりは、まさに亡骸と対面するような感じを受けてしまいます。
今まで、その人の中心にあったものが抜け出たような。
中心は、どこか他のところに行ってしまったような気がします。

臨終の時の質量の変化を記録したという実験では、ほんのわずかだけど重さが減ったという報告がされているそうです。それが、いわゆる魂の重さなのだと。
宇宙全体の質量は一定だとすると、その減ったわずかな重さもどこかで存在していないと理屈にあわないのだそうです。

どこにいっちゃったんでしょうね。

その人の存在を特徴付ける中心を魂とするなら、それの集合している場所はあるのかないのか。次に降りていく乗り物を見定める待機場所のようなところがあるのかないのか。
記憶から消されているので思い出せないのか、そういうものは最初からないのか。
まったく、わかりません。

だけど、物事の見方を魂レベルまで引き上げてしまうと、たいがいの迷いや悩みは焦点がかすんでしまうような気がします。
この地表での、約束事はそれなりに大切なはず。
レベルを上げて考えるのは逃げなのかもしれません。
たった100年を生きるのもなかなか難しいことだと思います。