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【小倉百人一首】32:春道列樹

2014年06月19日 01時31分12秒 | 小倉百人一首
春道列樹

山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり

飛鳥時代まで権勢を誇り、蘇我氏らの崇仏派と争って敗れた物部氏の末裔といわれる歌人。
ただし生前は歌人としては無名だったらしく、経歴についても文章生という漢学を教える文章博士の候補生になっていることくらいしかわからない。
本来ならそのまま名前を残すことはなかっただろうが、この歌が定家に選ばれたおかげで後世に名を残した。

【小倉百人一首】31:坂上是則

2014年06月18日 02時18分38秒 | 小倉百人一首
坂上是則

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

蝦夷討伐で知られる坂上田村麻呂の子孫と言われている。
坂上氏は渡来系の血筋で、奈良時代後期に苅田麻呂(田村麻呂の父)が橘奈良麻呂の乱と藤原仲麻呂の乱の2つで目立った勲功上げたため、権門でないにも関わらず異数の出世を遂げ、家運を開いた。
その息子・坂上田村麻呂が活躍したのは平安時代初期。平安最初の天皇である桓武はその治世のほとんどを平安京の建設と、蝦夷の討伐に費やした。
この頃蝦夷と朝廷とは緊張状態にあり、その鎮圧のための臨時の官職として作られたのが征夷大将軍。実際に蝦夷討伐のために任命されたのは3人で田村麻呂の前任の大伴弟麻呂と、後任の文室綿麻呂の3人だけ。その次に任命されたのは平将門の討伐のときで藤原式家の藤原忠文、それから大分時代があいて平氏討伐のために都にきた源義仲。ただし、当時は任命された義仲がすぐに源義経と戦って敗死したため、長く秘密とされてきたらしい。
義仲の次は当然源頼朝以下、鎌倉幕府の歴代将軍。そして足利尊氏から始まる室町幕府の歴代将軍となるのだが、その前に後醍醐天皇が自身の皇子である護良親王、成良親王を任命しており、そして南北朝時代に入って南朝の宗良親王、後醍醐の孫の興良親王がいる。

征夷大将軍はその初期の役割をみるとわかるとおり、基本的には臨時の遠征軍司令官的な意味合いが強い。その将軍が遠征先で軍政を行う場所を幕府という。遠征軍は現地で食料の調達や徴兵などをする必要があることからそれなりの権限が必要であり、これに目をつけた源頼朝(実際に考えたのはブレーンの大江広元だろうか)が、征夷大将軍への任官を朝廷に強要し、朝廷を必要としない独自の権力構造を作り上げたのは画期的といえる。

是則は歌人としてだけでなく蹴鞠の名手としても知られており、醍醐天皇の前で206回も鞠を落とさずに蹴り続けて絹を授けられたというエピソードがある。

ちなみにこの歌は恋の歌ではないので有明の月を詠ってはいるが別にせつなさをだすためではない。
吉野を詠っているのは、自身が大和国の国司経験があったので親しみがあったのだろう。

【小倉百人一首】30:壬生忠岑

2014年06月17日 02時26分47秒 | 小倉百人一首
壬生忠岑

有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし

前回とりあげた凡河内躬恒と同じで三十六歌仙であり、『古今集』の選者の一人である。
この歌は、後に藤原定家が『古今集』随一の名歌と評した。また、平安中期の藤原公任は著書の中で”上品上”という最高級のランクに位置づけている。

和歌では、”有明”といえば有明の月を指す。有明の月とは夜明け前の月のこと。
当時の貴族は男が夜に女の屋敷に通って逢瀬を重ね、朝になったら帰るというのが習慣だった。そのため有明の月というのは、男がくるのを待ち続けたまま、朝を迎えた女、または逢瀬を重ねたカップルが別れの時を迎えた朝(これを後朝という)のどちらかを表現している。
どちらにしろ有明の月といえば切ない瞬間を想定させるのである。

この歌では後朝を迎えた男が、女のそっけない(つれない)態度で別れたその日以来、暁ほどつらいものはない、と詠っているが、そっけないのは女ではなく月を指しているという解釈も成り立つ。
が、藤原定家は月と女の両方だと解釈した。
21番の素性法師の歌は詠んだとおり、有明の月になるまで恋人を待ち続けた女の切ない心情を詠っている。


【小倉百人一首】29:凡河内躬恒

2014年06月15日 08時24分09秒 | 小倉百人一首
凡河内躬恒

心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

三十六歌仙の一人。下級官人であるにも関わらず、歌人としての名声を買われて『古今集』の選者に選ばれている。ちなみに他の選者は紀貫之紀友則壬生忠岑の3人。
以前引用した正岡子規の『歌よみに与ふる書』では、この歌を以下のようにけなしている。

 この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり、
 初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜も有之不申

つまり「初霜があるくらいで白菊が見えるわけないだろ、つまらん嘘をつくな」と言っている。
子規は『古今集』自体を散々にこきおろしていて、

 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申す

といっている。
また、『古今集』の冒頭は

 年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ

という在原元方(在原業平の孫)の歌から始まるのだが、これついても以下のようにばっさり。

 実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合いの子を日本人とや申さん外国人とや申さん
 としやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。

古今集は平安期以降、貴族必読の歌集で長く日本人に親しまれてきたのだが子規のこの提言以来、『古今集』の評価はがくっと落ちて『万葉集』が再評価されるようになる。

【小倉百人一首】28:源宗于朝臣

2014年06月15日 07時22分34秒 | 小倉百人一首
源宗于朝臣

山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

光孝天皇の皇子・是忠親王の子。三十六歌仙にも入っている。
この人は自分の官位が全然進まないことを宇多天皇に訴えるエピソードが『大和物語』に収録されていることもあり有名になった。実際、兄・清平と弟・正明は参議まで昇っているが宗于は右京大夫で止まっている。
この歌がいつ詠まれたかはわからないが、都から離れた山里の寂しさを詠っていて、上記のエピソードとあいまって哀愁ただよう。

さて、名前からもわかるとおり宗于は臣籍降下した源氏で、光孝源氏というマイナーな系図につらなる人物。父・是忠親王は宇多天皇の同母弟ということもあり一度賜姓源氏となって中納言まで出世するが、親王に戻されるという経歴を持つ(。
河原左大臣のところでも書いた通り、賜姓源氏は代が下るにつれて身分もどんどん低くなるため、官人としての出世を諦めて別の生業につく人も多い。宗于の兄・清平の子孫も仏師に転職し、以後仏師の家系として栄え、仏教建築に多大な影響を与えることになる。
平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した、東大寺の金剛力士像の作者として有名な運慶もこの家系。