湘南ゆるガシ日和 ・・・急がず、休まず

湘南でゆるゆら暮らしココロ赴く先へガシガシ出かけるライター山秋真が更新。updated by Shin Yamaaki

ボサ髪どうする?:2歳だった従妹の結婚式

2010-02-08 23:22:44 | 日記
次の祝日は、いとこの結婚披露宴。
さすがにボサボサ髪では失礼だろうとおもい、
この週末、夜まであいてる美容院をさがしていってきた。

なのに、「またボサボサ髪で」と友だちにいわれ、
「え、それ美容院いったの?」と母にいわれる始末。
美容院についやした時間とお金は、なんだったのか?

どうしよう。(わたしにとっては)朝はやいけど、
がんばって当日に美容院でセットしてもらうべき?

などと思ってしまうのは、その日に結婚する彼女が
わたしにはちょっとスペシャルな従妹だから。

中学2年生のとき、わたしは日本の学校を休学しアメリカの中学校へ半年かよった。
当時、「年のはなれた末子の話し相手がほしい」といっているアメリカ人がいる
と母の友人からきき、(恐れをしらなかった)13歳のわたしは
(英語も話せないままむこうみずにも)ひとりで渡米し、白人家庭にホームステイした。

まわりはとてもいい人たちが多かったけれど、
当然ながら、その日々には好いことも嫌なこともあった。

そもそも言葉のハンディがある。
思春期どまんなかだったから、友だちとしゃべりたいのに
英語では思ったような意思疎通がむづかしい。
文化や習慣、考え方の違いに戸惑うことも少なくなかった。

勉強もたいへんだった。
親切な友だちが毎日のように電話で宿題をみてくれたが、
それでも、なかなか満足にできない。

(英語で)文章を書くクラスや(アメリカ社会についての)社会科は特に悲惨。
かろうじて「A」評価だったのは、日本では苦手だった数学と、美術・家庭科だけ。
つまり、日本に比べると進度のおそかった科目と、言葉のいらない科目のみ。

いま思えば、
ホームステイ先での組みあわせもイマイチだったのかもしれない。
4人きょうだいの「末子」と5人きょうだいの「長子」なんて。

ともかく、その年の冬、わたしはクタクタに疲れきっていた。
ちょうどそのころ、わたしの叔母が
シカゴ大学に留学した夫についてシカゴに移り住んだばかりで、
わたしはクリスマス休暇を先どりし2週間をシカゴですごした。

次の祝日に結婚するいとこは、この叔母の長子なのだ。
当時2-3歳、まだ言葉もたどたどしく、でもかわいい盛りだった。
彼女と時間をともにし、わたしは彼女の面倒をみているつもりで
ぎゃくに彼女に慰められ、元気を回復していったと思う。
ひとの心を癒すのに、言葉はさほど大きな意味をもたないのかもしれない。

その後、そのいとこが中学2年生になったとき、
彼女の母親である叔母に「長女が留学したいといっている」ときき、
「幼すぎる」とわたしは言下に反対したことがある。

「幼すぎる」といったそばから、あの白い冬に2歳だったいとこも
いつのまにか当時のわたしの年齢になっていたことに気づき、
「よくぞあの時、大人たちは、わたしをアメリカへ出してくれた」と思った。

叔母にそういうと
「そりゃあ、みんな、ものすごく心配していたのよ」と苦笑されてしまった。

…ありがとう、心配してくれて。
そして、それでも手放し、可能性に託しながら、見守ってくれて。

あのときアメリカに行っていなかったら、わたしの人生はずっと違っていただろう。
別の人生も悪くはないだろうけど、いまの人生をわたしは結構気にいっているから、
あのアメリカはわたしが大泣きした時期のひとつではあるけれど、
それでも、今のわたしには不可欠の経験だったと思う。

この感謝を誰にささげればいいのか分からないけれど、
与えてくれた人に返すのではなく、わたしもいつか、
誰かに与えることで、お返しすることができたらと願う。

そんなわけで、
さまざまな過去や未来への思いが交錯する、いとこの結婚式。
しかも20名近いいとこの中で、招待したのはわたしだけらしい。
いとこ代表ってこと? …むむ。このボサボサ髪、どうしよう?
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