次の祝日は、いとこの結婚披露宴。
さすがにボサボサ髪では失礼だろうとおもい、
この週末、夜まであいてる美容院をさがしていってきた。
なのに、「またボサボサ髪で」と友だちにいわれ、
「え、それ美容院いったの?」と母にいわれる始末。
美容院についやした時間とお金は、なんだったのか?
どうしよう。(わたしにとっては)朝はやいけど、
がんばって当日に美容院でセットしてもらうべき?
などと思ってしまうのは、その日に結婚する彼女が
わたしにはちょっとスペシャルな従妹だから。
中学2年生のとき、わたしは日本の学校を休学しアメリカの中学校へ半年かよった。
当時、「年のはなれた末子の話し相手がほしい」といっているアメリカ人がいる
と母の友人からきき、(恐れをしらなかった)13歳のわたしは
(英語も話せないままむこうみずにも)ひとりで渡米し、白人家庭にホームステイした。
まわりはとてもいい人たちが多かったけれど、
当然ながら、その日々には好いことも嫌なこともあった。
そもそも言葉のハンディがある。
思春期どまんなかだったから、友だちとしゃべりたいのに
英語では思ったような意思疎通がむづかしい。
文化や習慣、考え方の違いに戸惑うことも少なくなかった。
勉強もたいへんだった。
親切な友だちが毎日のように電話で宿題をみてくれたが、
それでも、なかなか満足にできない。
(英語で)文章を書くクラスや(アメリカ社会についての)社会科は特に悲惨。
かろうじて「A」評価だったのは、日本では苦手だった数学と、美術・家庭科だけ。
つまり、日本に比べると進度のおそかった科目と、言葉のいらない科目のみ。
いま思えば、
ホームステイ先での組みあわせもイマイチだったのかもしれない。
4人きょうだいの「末子」と5人きょうだいの「長子」なんて。
ともかく、その年の冬、わたしはクタクタに疲れきっていた。
ちょうどそのころ、わたしの叔母が
シカゴ大学に留学した夫についてシカゴに移り住んだばかりで、
わたしはクリスマス休暇を先どりし2週間をシカゴですごした。
次の祝日に結婚するいとこは、この叔母の長子なのだ。
当時2-3歳、まだ言葉もたどたどしく、でもかわいい盛りだった。
彼女と時間をともにし、わたしは彼女の面倒をみているつもりで
ぎゃくに彼女に慰められ、元気を回復していったと思う。
ひとの心を癒すのに、言葉はさほど大きな意味をもたないのかもしれない。
その後、そのいとこが中学2年生になったとき、
彼女の母親である叔母に「長女が留学したいといっている」ときき、
「幼すぎる」とわたしは言下に反対したことがある。
「幼すぎる」といったそばから、あの白い冬に2歳だったいとこも
いつのまにか当時のわたしの年齢になっていたことに気づき、
「よくぞあの時、大人たちは、わたしをアメリカへ出してくれた」と思った。
叔母にそういうと
「そりゃあ、みんな、ものすごく心配していたのよ」と苦笑されてしまった。
…ありがとう、心配してくれて。
そして、それでも手放し、可能性に託しながら、見守ってくれて。
あのときアメリカに行っていなかったら、わたしの人生はずっと違っていただろう。
別の人生も悪くはないだろうけど、いまの人生をわたしは結構気にいっているから、
あのアメリカはわたしが大泣きした時期のひとつではあるけれど、
それでも、今のわたしには不可欠の経験だったと思う。
この感謝を誰にささげればいいのか分からないけれど、
与えてくれた人に返すのではなく、わたしもいつか、
誰かに与えることで、お返しすることができたらと願う。
そんなわけで、
さまざまな過去や未来への思いが交錯する、いとこの結婚式。
しかも20名近いいとこの中で、招待したのはわたしだけらしい。
いとこ代表ってこと? …むむ。このボサボサ髪、どうしよう?
さすがにボサボサ髪では失礼だろうとおもい、
この週末、夜まであいてる美容院をさがしていってきた。
なのに、「またボサボサ髪で」と友だちにいわれ、
「え、それ美容院いったの?」と母にいわれる始末。
美容院についやした時間とお金は、なんだったのか?
どうしよう。(わたしにとっては)朝はやいけど、
がんばって当日に美容院でセットしてもらうべき?
などと思ってしまうのは、その日に結婚する彼女が
わたしにはちょっとスペシャルな従妹だから。
中学2年生のとき、わたしは日本の学校を休学しアメリカの中学校へ半年かよった。
当時、「年のはなれた末子の話し相手がほしい」といっているアメリカ人がいる
と母の友人からきき、(恐れをしらなかった)13歳のわたしは
(英語も話せないままむこうみずにも)ひとりで渡米し、白人家庭にホームステイした。
まわりはとてもいい人たちが多かったけれど、
当然ながら、その日々には好いことも嫌なこともあった。
そもそも言葉のハンディがある。
思春期どまんなかだったから、友だちとしゃべりたいのに
英語では思ったような意思疎通がむづかしい。
文化や習慣、考え方の違いに戸惑うことも少なくなかった。
勉強もたいへんだった。
親切な友だちが毎日のように電話で宿題をみてくれたが、
それでも、なかなか満足にできない。
(英語で)文章を書くクラスや(アメリカ社会についての)社会科は特に悲惨。
かろうじて「A」評価だったのは、日本では苦手だった数学と、美術・家庭科だけ。
つまり、日本に比べると進度のおそかった科目と、言葉のいらない科目のみ。
いま思えば、
ホームステイ先での組みあわせもイマイチだったのかもしれない。
4人きょうだいの「末子」と5人きょうだいの「長子」なんて。
ともかく、その年の冬、わたしはクタクタに疲れきっていた。
ちょうどそのころ、わたしの叔母が
シカゴ大学に留学した夫についてシカゴに移り住んだばかりで、
わたしはクリスマス休暇を先どりし2週間をシカゴですごした。
次の祝日に結婚するいとこは、この叔母の長子なのだ。
当時2-3歳、まだ言葉もたどたどしく、でもかわいい盛りだった。
彼女と時間をともにし、わたしは彼女の面倒をみているつもりで
ぎゃくに彼女に慰められ、元気を回復していったと思う。
ひとの心を癒すのに、言葉はさほど大きな意味をもたないのかもしれない。
その後、そのいとこが中学2年生になったとき、
彼女の母親である叔母に「長女が留学したいといっている」ときき、
「幼すぎる」とわたしは言下に反対したことがある。
「幼すぎる」といったそばから、あの白い冬に2歳だったいとこも
いつのまにか当時のわたしの年齢になっていたことに気づき、
「よくぞあの時、大人たちは、わたしをアメリカへ出してくれた」と思った。
叔母にそういうと
「そりゃあ、みんな、ものすごく心配していたのよ」と苦笑されてしまった。
…ありがとう、心配してくれて。
そして、それでも手放し、可能性に託しながら、見守ってくれて。
あのときアメリカに行っていなかったら、わたしの人生はずっと違っていただろう。
別の人生も悪くはないだろうけど、いまの人生をわたしは結構気にいっているから、
あのアメリカはわたしが大泣きした時期のひとつではあるけれど、
それでも、今のわたしには不可欠の経験だったと思う。
この感謝を誰にささげればいいのか分からないけれど、
与えてくれた人に返すのではなく、わたしもいつか、
誰かに与えることで、お返しすることができたらと願う。
そんなわけで、
さまざまな過去や未来への思いが交錯する、いとこの結婚式。
しかも20名近いいとこの中で、招待したのはわたしだけらしい。
いとこ代表ってこと? …むむ。このボサボサ髪、どうしよう?