少しまえのある平日、祖母の誕生日祝いにでかけた。
西鎌倉のお菓子屋さん「レ=シュー」(↓)で
彼女の子ども時代からの大好物・シュークリームを買って。
もうすぐ90歳になるのだから、かなり年季のはいった「好物」だ。
ちょうど1か月ほど前に祖母が自宅でころんで意識をうしない病院へいった
ということがあったので(祖母史上初)、この日は元気づけようと
子・孫・ひ孫と多彩な顔があつまり、平日の昼間とは思えない賑やかさだった。
そのうえ
祖母と同居の叔母が、仕事まえにスズキの刺身をつくっておいてくれ、
思いがけず食卓も賑やか。
大きなスズキ2尾の刺身とおおきな寿司桶1つ、というかなりの量を
ゆっくり話したりしながら時間をかけて、おいしく、ありがたく、みんなで完食。
もっとも、祖母が食べたのは中トロ1~2カンと刺身少々という小食ぶりで、
その食の細さにやはり彼女の体調の変化をかんじるとともに、
会話しつつ食べること(=会食)が難しくなったという厳然たる事実も知らされた。
しばしのおしゃべりのあと、
祖母の誕生日と結婚記念日の長年の定番・シュークリームと
やはり叔母がつくっておいてくれた手作りのシフォンケーキを冷蔵庫からだし、
熱い湯をわかして紅茶をいれ、「ハッピーバースデー」を歌ってから、みんなでおいしくいただいた。
誕生日を祝うケーキとシュークリームは祖母にとっても「別腹」だったので、なんだかすこしホッとした。
そういう気分でみるからか、この日のシュークリームは
アメリカの子どもむけ番組「セサミストリート」のエルモの笑顔に似ている。
ちなみに、それから約2週間のちに会ったとき祖母はこのお弁当を全部たべていたので、
わたしはまた少々安堵した。
ゆっくり時間をかけてではあったけれど、食事を食べられるということはやはり安心材料だ。
こうしてみると、昨秋ころんで意識をうしない病院へいったとき、
病院の勧めのままに祖母が入院することにならなくて、よかったように思う。
その日はたまたま主治医が不在で、代わりに診察した医者から「このまま入院して検査」といわれたのを、
「この年になって入院は、どうしても、嫌なんです」と、彼女は静かに、でもキッパリと
おことわりして帰ってきてしまったとか。
その話をきいた時、
「とつぜん倒れたために急いでいった病院で、医者の言葉にも、つき添っていた家族の言葉にも動じずに
高齢者が自分の意思を淡々と表明しそれをつらぬくって、わたしが想像する以上に大変なことだろうな、
この人はスゴイなぁ…」と、祖母のことをおもった。
祖母がたおれたという知らせで子らが続々と駆けつけてきたときにも、
「検査入院だけだから、ずっと入院するわけじゃないから」と心配して検査をすすめる声があっても、祖母は
「若いころ手術をして、入院もしましたが、この年になって入院は、どうしても、嫌なんです」
という言葉だけを、静かに繰りかえしていた。
そのときの写真をみると、和やかな表情の人たちのなかで、祖母ひとり、決然とした表情をしている。
このときもやはり、「この人はスゴイなぁ…」と、おもった(どうじに、親の意思を尊重しようとする周囲もスゴイ)。
祖母は若いころ大病をしている。
自分で体調の異変に気づいて病院へ行き、「なんともありませんよ」と医者にいわれ、
「たしかに体調がおかしいのに何ともないはずがない」と別の医者を訪ね、
ある医者が彼女の病気をきちんとみつけてくれるまで、それをつづけたと聞く。
そうやって医者に病気をみつけだしてもらい、治療をしてもらって生きぬいてきた祖母は、
わたしがみる限り、医者に敬意をもっているようにみえる。
ただ、その権威に屈することはなく、自分の身体や人生を他人任せにもしない。
それができるのは、なぜなんだろう?
感覚が鋭いのかな?
90に届こうという年齢になってより一層、祖母に学ぶことがたくさんある。