松戸市五香にある施設を訪問しました。近くに善光寺というお寺さんがあるいうことで、散策してみました。
五香周辺の歴史(HP新京成・北総の車窓風景より):明治初頭に政府によって下総牧開墾計画がたてられ、三井組が主体となり、政府も20万両を出資し、東京で開墾民を募集したところ、約8千人が集まり、下総牧開墾事業が始まりまったとされています。
開墾地には最初となった初富以降、ナンバーを付した瑞祥文字があてられ、その五番目の五香と六番目の六実は開墾会社の解散とともに一緒になって<五香六実村>となりました。1870年まで入植者は五香で494人と記録されていますが、自然災害に火災も重なり生活は最初から困窮を極め、逃亡も相次ぎ、七栄(富里市)や八街への再移住も余儀なくされたということです。1889年の市制町村制施行時に、<金ヶ作村>や<日暮村>とともに、<高木村>となり、<松戸町>の市制施行と同時期に編入されています。五香十字路近くにある善光寺は、開村後に小金村東漸寺大康の寺院創建の意思を継いだ門下の山崎弁栄の働きで建立されたということです。善光寺とは:欽明天皇の時代に百済の聖明王から献呈されたと言われている「善光寺式阿弥陀三尊」が紆余曲折の末、「本田善光」の手により飯田市(元善光寺)にもたらされたれ、本尊とされた事が起源であると伝えられています。善光寺の名前は「本田善光」の名前からとられたとも言われています。
鎌倉時代には、源頼朝や北条一族の信仰を受け、全国各地に新善光寺が建立されました。戦国時代になると、武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権に巻き込まれる形で本尊は全国を転々とする形となり、各所に善光寺が建立される事となっりました。最終的には豊臣秀吉の手より、本尊が現在の善光寺に帰された。そのような歴史もあり、全国には善光寺や善光寺と同じ「善光寺式阿弥陀三尊」を奉る寺院が多数もたらされました。 現在では、400を超える善光寺式阿弥陀三尊、100を超える善光寺を名乗る寺院が存在しています。
江戸時代の泰平の世になると、庶民の間で「牛に引かれて善光寺参り」、「一生に一度は善光寺参り」という言葉が流行し、多くの人々が善光寺詣を行う事が一般化し、現在まで続いています。
本堂
抜苦地蔵菩薩
創生当時からの石灯籠ですかね。
明治の開墾時に建てられたことを思わせるものや、当時の苦しさを示すものがありました。
辨榮聖人をウイキペディアで調べてみました。
山崎辨榮(やまざき べんねい、安政6年2月20日(1859年3月24日) - 大正9年(1920年)12月4日)は、日本の浄土宗の僧侶。大正時代に浄土宗の社会運動である光明主義運動を行った。安政6年、下総国手賀沼鷲野谷(現、柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生まれる。近所の真言宗寺院で仏画を習う傍ら、12歳の時、阿弥陀三尊を夕日の中に観想して出家を願い、明治12年(1879年)11月、東漸寺の大谷大康に師事して出家した。
明治14年(1881年)に上京し、増上寺や駒込吉祥寺学林(現、駒澤大学)で研鑽を積み、明治15年(1882年)に筑波山中で念仏修行を行った。明治18年(1887年)に習志野に移住し、善光寺 (松戸市)建立・浄土宗本校(現、大正大学)設立の勧進を行った。明治27年(1894年)にはインド仏跡巡拝に出かけ、翌28年に帰国した。その後、光明主義運動を始め、大正3年(1914年)には如来光明会(現、光明修養会)を設立した。
大正5年(1916年)には、総本山知恩院の夏安居に講師に招かれ、大正7年(1918年)には時宗当麻派の本山、無量光寺 (相模原市)の61世法主に迎えられ、境内に人々の教育のために光明学園を創設した。大正9年12月、各地を巡錫中、柏崎市の極楽寺で還浄した。とかかれていました。
これも辨榮聖人が書いたもののようです。
地名の由来
はじめ開墾地には地名がなかったので、入植した順序により数字を組み合わせて名づけられ、初富(はつとみ)、二和(ふたわ)、三咲(みさき)、豊四季(とよしき)、五香(ごこう)、六実(むつみ)七栄(ななえ)、八街(やちまた)、九美上(くみあげ)、十倉(とくら)、十余一(とよいち)、十余二(とよふた)、十余三(とよみつ)となりました。と松戸市のうんちくに書かれていました