サバ奈子

むかし猫ブログ、いま趣味ブログ

札幌市 野外彫刻 百合が原公園

2024-07-22 05:53:12 | 野外彫刻

百合が原公園の中でモニュメントを発見。

チューリップみたいな形。

ひらく
伊藤隆道

北海道アサヒビール株式会社寄贈

トップ画像のモニュメントの説明では、タイトルは「ひらく花」となっています。

花の新鮮ですがすがしいフォルムをデザイン。

これらのモニュメントは、昭和61年(1986年)の夏、百合が原公園を舞台にくり広げられた「花と緑の博覧会」を記念して製作されたもので、花と緑と人間のふれあいを美しく表現したモニュメントは、博覧会が終わったあとも、そのまま公園の施設として残されています。

北の森たち
伊藤隆一

寄贈 北海道銀行

三本の松の木と40羽の飛ぶ鳥で構成されており、百合が原公園のシンボル塔となっている。

百合が原公園の中にはユリ以外のものも咲いています。

ドームシュタット フルダ

百合が原公園には有料エリアと無料エリアがあり、無料エリアで見られるモニュメントは3点です。

有料エリアのモニュメントは、百合が原公園のユリが見ごろになったころに再訪して撮りに来ることにしました。

花と輪の和
名畑八郎

菊のつぼみが大輪の花となるところをデザイン

寄贈 札幌輪の会

札幌輪の会については、検索しても出てこず、花と緑の博覧会のあと、解散してしまったのではと思いました。

いすがあり、説明もあるので、撮ってきた。

私のガーデンチェア:ライラック
百合が原公園の景観をゆったりと楽しんでいただけるように、季節の花の見ごろにあわせて園内各所に木製チェアを配置する企画。
こちらのチェアは、デザイン・製作をKANTO~furniture&craft~の石津氏が手がける。
チェアのデザインは、座面の高さと角度、背中の長さにこだわり、いろいろな方向から座って楽しめるようにあえてひじ掛けを無くしている。
チェアの色は、「札幌の景観色70色」から百合が原公園及び札幌に関わりの深い色を選択し、塗装は、太平児童会館を利用する児童が行った。

こちらも園内にいくつかガーデンチェアがあるようなので、再訪した時に撮ってきますね。

百合が原公園
札幌市北区百合が原公園210番地

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森町 野外彫刻

2024-07-12 05:48:13 | 野外彫刻

もりまち桜まつり開催中の、青葉ヶ丘公園です。

こういう大きめの公園に来ると、何かモニュメントとか彫刻がないかな?と探してしまいます。(職業病)

ほら、やっぱり見つけた。

せっかくなので、撮ってきました。

心美しき母にして世に強き子あり

作者がないな。

ぐるっと探してみる。

台座にサインあり。

般若純一郎 とのことです。

昭和四十年十月二十四日
日本青年会議所認承記念
森青年会議所建立

青葉ヶ丘公園
茅部郡森町字清澄町

森町役場です。

角地に彫刻あり、背景にあるのが青葉ヶ丘公園です。

佐野雨田翁像

佐野雨田翁は明治元年新潟県に生れ 三十年来道 三十四年森村外五村の戸長となり 三十五年二級町村制施行とともに初代村長に就任した 

以来大正四年任期満了まで十三年間開拓途上の森村進展に万難を克服して当り 卓越せる識見をもって 産業の開発 経済基盤の確立 

教育文化の向上等に努められた治績は誠に大きいものがあった ここに森町開基百十年を記念して その功績をたたえこの像を建てる

昭和四十三年九月五日
森町
協賛 佐野雨田翁顕彰会

立体写真像 発明者 盛岡勇夫

森町役場
北海道茅部郡森町字御幸町144番地1

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松前町 野外彫刻 その2

2024-07-05 05:43:42 | 野外彫刻

松前公園の敷地の中に町村記念公園の看板がありました。

町村記念公園の説明
昭和33年、当時の北海道知事 町村金吾 が200本の桜を寄贈したとのこと。

博古知今  古(いにしえ)に博くして今を知る (孔子家語) 

200本桜を寄贈した石碑。

逆光ですが、

鎌倉翁の顕彰碑
松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。

 

鎌倉翁は大正十年頃より約五十年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方でございます。

昭和四十三年九十一歳で亡くなられました。

左下に、1966 T.SUZUKIのサインあり。

松前公園
松前郡松前町松城

松前町郷土資料館です。

町民顕彰なのですが、

松前が生んだ偉大な書家、金子鷗亭の書 ということで写真を撮ってきました。

松前町郷土資料館
松前郡松前町神明30

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松前町 野外彫刻

2024-07-04 05:49:13 | 野外彫刻

松前町の松前公園です。

私は松前の桜を見たことがなかったので、夫が連れてきてくれました。

桜祭りが開催されており、思いがけず彫刻を見つけたものです。

金子鷗亭先生 
圓鍔勝三

松前が生んだ偉大なる書家です。

足下にサインあり。1994春

鷗亭先生の後ろにずらっと石碑が並びます。

ひともとや春の日かげをふくみもちて
野づらに咲ける山さくら花
 若山牧水歌「山ざくら」より

見あぐれば南十字星きらめける
欄に倚りては街の灯を見る
 一九七五年夏 日本書道代表団ブラジルを訪ふ
 リオのコルコバード展望台にて 
  自詠「リオ・デ・ジャネイロ」

觀瀾(かんらん)は、紀元前三百年頃の中国思想家孟子のことばで、
水を観るに術あり、
必ず其の瀾(波)を観るべし、とあります。

水を見る時、波動がどうであるかを見るべしと解さ れますが、世の動きのとらえ方を述べているものと思われます。 

鴎亭先生68歳の作品で、力強く、奥深さを感じるものです。

潮かをる 
北の濱邊(はまべ)の砂山の
かの浜薔薇(はまなす)よ 
今年も咲けるや
函館の 青柳町こそ かなしけれ
友の恋歌 矢車の花
 石川啄木歌「忘れがたき人々」より

海雀(うみすずめ) 海雀
銀ノ點々(てんてん) 海雀
波ユリクレバ ユリアゲテ 
波ヒキユケバ カゲウスル 
海雀 海雀 
銀ノ點々 海雀   
北原白秋詩「海雀」より

松前町松前公園
かねて耳驚かしたる二堂開帳す
経堂は三将の像をのこし
光堂は三代の棺を納め
三尊の仏を安置す
七寳散りうせて珠の扉かぜにやぶれ
金の柱霜雪に朽ち
既に頽廃空虚の叢と成るべきを
四面新にかこみて
甍を覆ひて風雪を凌ぎ
暫時千歳の記念とはなれり
五月雨の 振りのこしてや
金堂
 松尾芭蕉「奥の細道」より

蘭染煙 菊承露

疎蘭尚染煙
  残菊猶承露

疎蘭(そらん) 尚(な)ほ(お)煙に染まり
残菊(ざんぎく) 猶(な)ほ(お)露を承(う)く

 唐(中国)の二代皇帝太宗(たいそう)の詩「山閣晩秋」の一節

右上
星の群が目へ近づいてくるにつれて、空は いよいよ遠く 夜の色を深めた 

左上
村は しいんと底に沈んでゐるやうだった

右下
夜の底が白く なった 

左下
萱の穂が一面に咲き揃って眩しい銀色に揺れてゐた 

 川端康成の「雪国」から4点

丘壑(きゅうがく)とは、
人里離れたところにひっそりと住むという意味を持っています。 

懐抱(かいほう)とは、心に思っている、抱(いだ)いているという意味です。   

夏雲や 巍峨の山脈 荘厳す

昭和甲辰晩夏知床の秘境を探る
この日快晴也 巉嵒半天に聳え
紺碧の海萬里の涯に展舒す

 自作句「夏雲や」

渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覚到君家
 高青邱詩『尋胡隠君』

僕は今 断崖のにあ風景に窒息する
 小野十三郎詩「断崖」より

巨いなる龍の鱗を攀ぢ登る
八達嶺を指呼に仰ぎて
一九七八年九月萬里長城
 自詠「萬里長城」

金子 鴎亭記念「北鴎碑林」
平成20年、松前公園内に金子鴎亭先生の生誕100年を記念して
鴎亭先生の石碑13基、先生の仲間や門人であり、
著名な書家の石碑71基の計84基の碑林が完成しました。

門下生や仲間達の石碑がた~くさん。

全部写真を撮っていたら日が暮れてしまいます。

さて、桜を見に行くか。

松前公園
松前郡松前町松城

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豊浦町 野外彫刻

2024-06-29 07:46:37 | 野外彫刻

豊浦町役場です。

お仕事で行くことがあるのですが、初日から気になっていたのが、

ロビーにあるこのレリーフです。

豊浦の太陽 本田明二
寄贈 伊達信用金庫

写真を撮りながら、役場の人に不審者と思われたらどうしようと思ったが、思いがけず本田明二の作品に出会えて心が躍った。

豊浦町東雲山村広場です。

彫刻があります。

明日を拓く
豊浦町 開基100年記念



1981年の作品とのこと。

本田明二は月形町出身で、記念碑などの制作依頼を多く受けたことから、北海道内の公共施設に数多くの作品が設置されています。

この日はとても天気がよかったので、彫刻がとてもきれいに撮れました。

東雲公園は、国道37号線沿いに位置する町民憩いの公園です。桜や藤棚があり、散策道もあるので、のんびりとお散歩をしていただけます。

豊浦町は昭和五十五年に開基百年を迎えました
きびしい自然に立ち向かい血と汗をながし今日の豊浦町を築いてくれた人の労苦をしのび感謝の念を捧げるとともに豊浦町の歴史を全町民がこぞって祝福し私たちの郷土をより豊かにしていこうとする愛郷心を結集して決意を新たに二世紀をみんなで築こう伸びゆく豊浦を町民の出金によって豊浦町開基百年記念像を建立します
建立年月日 昭和五十六年七月四日
(文字起こしは所々摩耗し、解読があやしいところがあります。)

足元に
M.HONDA ’81

横に作者があった。
彫刻制作 本田明二

海の方を見ている。

東雲公園
豊浦町字東雲町45-1、45-6、45-8

さて、さらに作品を求めて、豊浦町噴火湾展望公園に向かったが、道路が閉鎖されており、

行けなかった。火曜日は定休日とのこと。

画像は北海道デジタル彫刻美術館から拝借しました。

機会があったら撮りに行くが、これは(作者もタイトルもないし)作品とは思えないので、いらないかなぁ・・

ホタテ と イチゴ と 豚肉 は、豊浦町の名産品です。
遊具なのかなぁ? ベンチ?

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室蘭市 野外彫刻 大川原脳神経外科病院

2024-06-25 05:48:05 | 野外彫刻

大川原脳神経外科病院です。

毎日、通勤で病院前を通っているのですが、

玄関から造形物が見えて、銘板もちらっと見えたものだから、中に入ってみました。

大川原脳神経外科病院 Art Gallery

室蘭の自然をテーマに物語をつくりました。
風-森-海-水-花をモチーフに道内外で活躍する3名の作家が一つ一つ大切に制作しました。
身近な風景や心地良い季節を院内で見つけてください。

風 EURUS 春を告げる風
熊谷文秀

熊谷文秀HPより

海 UNDULATION 波動
熊谷文秀

熊谷文秀HPより

あと受付の後ろに作品があったのだけど、こちらは写真NGだったので、大川原脳神経外科病院から拝借しました。

他にも2点ほど作品があるようなので、機会があったら撮ってきたいです。
脳ドック、こちらの病院で申し込んでみます。(が、うちの職場は人間ドックと脳ドックは5年に1回しか当たらないので、再来年の予定です。ひっどい頭痛でもなければ脳神経外科にはお世話になることがないような。)

大川原脳神経外科病院
室蘭市寿町1丁目10番1号

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東京都 野外彫刻 東京駅 他

2024-05-30 05:53:08 | 野外彫刻

東京駅の八重洲地下中央改札の近くに

銀の鈴
宮田亮平 作
東京芸術大学 学長
2007年10月25日

東京駅「銀の鈴」の歴史
(初代)
昭和43年6月 昭和39年の東海道新幹線開業以降、お客様が増えたことをきっかけに、東京駅社員による考案で、「銀の鈴」待ち合わせ場所が1階の東海道新幹線乗換え改札前に誕生しました。
第1代目は手製の張子で、岳で鈴の型を作り、銀紙で装飾したものでした。
(銀の鈴の由来)
神社で鈴をつけた紐を揺すってから拝むのは、神様を呼ぶためのものだそうです。
古来、鈴は神様だけでなく、人を呼び注意を促す道具として鈴が制作されました。

(2代目)
昭和44年11月 手製の第1代目誕生から約1年半後に鋳銅製で制作され、昭和53年3月まで鈴の音を流していました。

(3代目)
昭和60年2月 東京駅名店会により名店街30周年記念事業として東京駅に寄贈され、1階八重洲中央待ち合わせ場の改良工事完成と共に設置されました。
平成6年8月に、長野新幹線(平成9年開業)乗入れ整備に伴って、現在地に移転されました。

 (4代目)
平成19年10月 東京駅が生まれ変わる「東京ステーションシティー」の誕生を機に、東京芸術大学 楽長、金工家・宮田亮平氏による制作の4代目「銀の鈴」が(株)鉄道会館により寄贈されました。

都庁に向かう地下通路で発見。

銘板はなく、検索しても引っかからず。

調べている途中で、排除アートなるものを目にする。

特定の人々(ホームレス等)の排除のために作用する、デザインとアートの中間のものとのこと。
排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン が面白かったので、興味がある方はどうぞ。

都庁から帰ってくる途中で見つけた。

スバルビル新宿の目
作 宮下芳子
1969.12.27
東京都新宿区西新宿1丁目7-1

人の流れが多く、無人で撮るのはほぼ無理です。
中に照明があり、東日本大震災の後、節電のため消灯していたが、今はLED照明になり点灯を再開したとのこと。
アートも進化するのね。

夫は東京に4年ほど住んでいたことがあり、銀の鈴や新宿の目は見慣れており、足を止める事はないが、私には興味津々。
別の角度で観光を楽しめるのもまた楽しい。

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靖国神社 その2

2024-05-27 06:03:58 | 野外彫刻

明治26年、門人らの篤志(とくし)で完成したこの銅像は、日本最初の西洋式銅像で、たちまち東京の新名所となりました。
高さ12メートル。彫刻家 大熊氏廣(おおくまうじひろ)制作です。
(靖国神社ホームページより)

筒袖羽織(つつそでばおり)に短袴(たんこ)を着け、左手に双眼鏡を持った大村益次郎銅像は、江戸城富士見櫓(ふじみやぐら)から北東方面の上野に籠もる彰義隊(しょうぎたい)を凝視している姿をモデルにしたとも言われています。

銅像台座の文章は三條實美(さんじょうさねとみ)による大村益次郎顕彰文です。
弓矢をデザインした鉄柵と大砲8門(もん)が配置されていましたが、昭和18年に撤去され、陸軍省に献納されました。
現在も、基壇(きだん)には鉄柵の跡が残っています。

「日本陸軍の父」といわれ、司馬遼太郎作「花神(かしん)」の主人公ともなった大村益次郎(村田蔵六)は、長州藩の出身で蘭学にすぐれ、維新政府に参画して、近代的軍隊の基礎を作りました。

また靖國神社の前身である招魂社を九段坂上に建立することを決定しました。ところが、大村に反感を持つ士族らに京都で襲われて重傷を負い、招魂社創建直後の明治2年、大阪で歿しました。

亨年47歳でした。

大村益次郎の説明です。

全国の戦歿者の妻たちが所属する日本遺族会婦人部からの献金により、昭和40年に建設されました。

靖国の時計塔

国の繁栄と平和への祈りを、永く後世に伝えようとするブロンズの時計塔です。

靖国の時計塔
国は、昭和三十八年四月一日「戦没者等の妻に対する特別給付金支給法」を制定し、戦没者の妻の特別な立場を認め、慰藉の方途を講じました。
この感激を記念して、奉納いたします。
昭和四十年十月
財団法人 日本遺族会婦人部

慰霊の泉

異境の厳しい戦場で、「お母さん、水を!」と叫びながら息を引き取った兵士たちを偲んで、国際的社会奉仕団である社団法人東京キワニスクラブから、明治百年を記念して昭和42年に奉納されました。

この彫刻は清らかな水を捧げる慈愛にあふれる母を、抽象的に表現したものです。

作品の下にあるのが

戦跡の石

激戦の戦跡では、遺骨収集も困難を極めます。
硫黄島、グアム島他各戦地を象徴する石、計51個が集められ、うち半数の25個が展示されています。「慰霊の泉」とともに東京キワニスクラブの奉納です。

出征を見送る家族の像

令和2年10月、徳島県遺族会奉納により建立されました。

国の為に尊い一命を捧げられた御祭神の家族が、我が子、兄弟、夫、父等を見送る際に抱かれたせつない愛慕の情を後世に伝えるものです。

制作は鎌田邦宏氏、鋳造は阪井鋳金所阪井泰彦氏によるものです。

靖国神社
東京都千代田区九段北3-1-1

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靖国神社 その1

2024-05-26 07:51:56 | 野外彫刻

はとバスに乗って靖国神社に来ました。

小雨がちらつく寒い日でした。

右の燈篭(海軍)

大燈籠
ここに聳え立つのは高さ13メートルで日本最大級の大きな花崗岩製の燈籠です。
基壇部分のレリーフは社殿に向かって左側に陸軍、右側に海軍の日清戦争から満洲事変までの主な戦闘場面が各7面ずつ描かれています。
帝国美術院長 正木直彦(まさきなおひこ)の監修により、4人の彫刻家が制作しました。

日露戦争 第二回旅順港閉塞の広瀬中佐
小倉右一郎

日露戦争 日本海海戦戦艦三笠艦橋の東郷元帥
小倉右一郎

第一次世界大戦 地中海遠征の特務艦隊
吉田久継

上海事変 上海付近の空中戦
小倉右一郎

上海事変勃発 海軍陸戦隊
吉田久継

救護 日本赤十字社救護看護婦の活動
小倉右一郎

日清戦争 黄海海戦
吉田久継

左の燈篭(陸軍)

北晨事変 天津城の攻撃
畑政吉

日清戦争 広島大本営
畑政吉

昭和10年、現・富国生命である富國徴兵保険相互会社から奉納されたものです。終戦直後に撤去されそうになりましたが、レリーフを隠す工事を施して難を逃れることができました。
富國徴兵保険相互会社は1923年(大正12年)創業の保険会社です。
戦前は子息が徴兵された際に保険金が出る「徴兵保険」を扱う会社でした。

台湾鎮定 明治四十一年 警官隊の戦闘
畑政吉

上海事変 爆弾三勇士
斎藤素厳

満州事変 熱河長城攻撃
畑政吉

第一次世界大戦 装甲列車の戦闘
斎藤素厳

日清戦争 奉天入城式
斎藤素厳

桜をモチーフにした”さくら陶板”は、令和元年、靖國神社御創立150年記念事業に際して、英霊にゆかりのある各都道府県の土を用いて現地の陶工達により制作・奉納されたものです。
英霊へまごころをこめ、伝統の技によりつくられた陶板一枚一枚が慰霊の心とその継承を表現します。
”さくら陶板”により、皆様が本殿に御参拝戴く際の”みちしるべ”となるよう”慰霊の庭”と名付けられたこの地に建立されました。
(靖国神社ホームページより)

北海道のさくら陶板だけ載せておきます。

北海道河東郡と名寄市の土 南匡剛作

田中支隊忠魂碑

常陸丸殉難記念碑

日露戦争中の明治37年6月15日、陸軍輸送船「常陸丸(ひたちまる)」は近衛後備歩兵第一聯隊(このえこうび ほへいだいいちれんたい)を乗せ、満洲を目指して濃霧の玄界灘を航海していました。そこにロシアのウラジオ艦隊が突如現れ、常陸丸は猛烈な集中攻撃を浴びせられましたが、輸送船のため十分な反撃もできず、須知(すち)聯隊長は軍旗を奉焼し自決、1千余名が船と運命をともにしました。毎年6月15日、この碑の前で戦歿将兵ともども、常陸丸船長以下の陣歿した3名の英国人に対する慰霊祭が行われています。
(靖国神社のホームページより)

つづきます。

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東京都 野外彫刻 千代田区 東京駅

2024-05-24 05:53:53 | 野外彫刻

東京駅です。

丸の内南口です。

ドームの天井を見上げます。

拡大
創建時の石膏パーツが取付けられたレリーフ
戦災復興工事によって設置されたドーム天井裏に、創建当初のレリーフの一部が残存していました。その表面はほとんど焼け落ちていましたが石膏によるパーツには保存可能なものがありました。復原に際し、残存した創建時の石膏パーツが、一部取り外され強化剤含浸の上、南ドームのアーチレリーフに取り付けられました。(黒い部分)

拡大
ドーム下の八角コーナーには、左を向く八羽の勇猛な鷲が取り付けられています。両翼を広げた約2.1mの大鷲は細部にわたり躍動感にあふれています。

拡大
干支の彫刻は、ドーム内の8カ所のコーナーに、その干支の方位に従って十二支のうち八支の彫刻が配置されています。残りの四支、子(ねずみ/北)、卯(うさぎ/東)、午(うま/南)、酉(とり/西)は省かれています。いずれも灰緑色をバックにガラス繊維強化石膏(GRG)で作られています。

東京駅駅前広場の南側です。

男性が両手を広げた祈りの像があります。


αγάπη

愛の像(アガペの像)
「アガペ」とは、ギリシャ語「αγάπη」(アガペー)、神の人間に対する愛、「無償の愛」の意味という。

製作は横江嘉純

Wikipediaより
横江 嘉純(よこえ よしずみ、1887年(明治20年)5月 - 1962年(昭和37年)2月14日)は、日本の彫刻家。塑像を得意とし、木彫、大理石像、洋画も遺した。

戦争犯罪(戦犯)で捕まり獄死、法務死した人々の遺書をまとめた「世紀の遺書」の収益金の一部で建てられたとのこと。

東京都のマンホール蓋

東京駅丸の内駅前広場の北西端に彫刻があります。

正二位勲一等子爵井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云大正三年十一月建

井上勝(一八四三年~一九一○年)
明治期の鉄道専門官僚
江戸時代末期の長州藩(現在の山口県萩市)に生まれる。一八六三年(文久三年)、英国ロンドンに密航留学し、西欧の近代技術を学び、明治維新直後一八六八年(明治元年)に帰国。
一八七二年(明治五年)、日本最初の新橋ー横浜間をはじめ、初期の主要路線の敷設を主導する役割を担い、この功績から「鉄道の父」と呼ばれている。
一九一○年(明治四十三年)、欧州鉄道観察中に病に倒れ、若き日に過ごしたロンドンで息をひきとる。享年六十八歳。

大正三年十一月建立
昭和三十四年十月再建
昭和三十八年四月移設
平成二十九年十二月移設

初代の銅像は、本山白雲の制作で、金属供出により撤去されました。

昭和34年、朝倉文夫により再建されました。

東京駅
東京都千代田区丸の内1丁目9-1

東京駅の北西に位置する、日本工業倶楽部会館です。

登録有形文化財(建造物)
東京駅駅頭に建つアメリカ式オフィスビルの形態にユーゲント・シュティルの意匠を加味した大正建築。

我が国工業界のシンボル的建築で、正面中央パラペット上部の人像彫刻は当時の二大工業(石炭と紡績)を表す。
設計は横河工務所、松井貴太郎の担当とされる。
彫刻は、小倉右一郎の制作。
「日本初の本格的コンクリート彫刻」とのこと。

日本工業倶楽部会館 
東京都千代田区丸の内1-4-6

余談
さらっと書いているけど、3点とも作者調べるのにけっこう苦労しました。

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