1階に降りてきました。
車両甲板の見学ができます。
ヨ6000
貨物列車の車掌が乗務するための車掌専用車です。
製造初年/昭和37年(1962)
全長/7.95メートル
自重/9.0トン
青函連絡船の大きな特徴は鉄道車両をそのまま船内に格納して運べるよう線路の
ついた広い空間を持っていることです。船内に入れた車両は船の傾きで脱線したり
転覆しないよう連結器や緊締具と呼ばれたさまざまな車両固定用の器具でしっかりと
止められるようになっています。
船尾には波の進入を防ぐため厚い扉が付いており航海中はしっかりと扉が閉められる
ようになっています(船尾扉)。車両の出し入れは船尾から陸上と船をつなぎ自在に
動く可動橋を利用します。
スユニ50
国鉄の所有した郵便車の最終型で、荷物室と郵便室の両方を備えていました。
昭和61年(1986)10月に鉄道荷物・鉄道郵便が廃止されたため廃車にされました。
製造初年/昭和52年(1977)
全長/20メートル
自重/31.4トン
キハ82
昭和36年(1961)10月の白紙ダイヤ改正で、全国の非電化区間に快適な特急の旅を
もたらした、国鉄動力近代化の中心となった特急用のディーゼルカーです。
製造初年/昭和36年(1961)
全長/21.1メートル
自重/43.6トン
DD16
線路状態の良くない簡易線区(低規格線)へ入選できるよう軸車(レールにかかる
機関車の重さを対の車輪であらわしたもの)を軽くしたディーゼル機関車で、全国で
幅広く使われていました。
製造初年/昭和46年(1971)
機関車重量/48トン
機関/800ps/1330rpm
全長/11.84メートル
ヒ600
連絡船の中に、車両を出し入れするときに使用された可動橋にかかる重量を少なく
するため、機関車と出し入れする車両の間に連結された出し入れ専用の貨車で、
控車の名称を持っています。
自重/約7.7トン
昭和の時代まで本州と北海道の間には、線路といわれる「レール」がありません
でした。そう、海があったからです。
明治の就航から第二次世界大戦の時も物資や人を運んだ青函連絡船ですが、昭和29年
「洞爺丸台風」の襲来で、当時船尾扉がなかった船に海水が入り、すべての制御盤が
起動しなくなったことから座礁・転覆。タイタニック事故以来の大惨事となってしま
いました。
この海難事故から新型船の登場と平行し、青函トンネルの着工が始まりました。
そして昭和63年3月。海底に作られた青函トンネルの開通と同日、青函連絡船は80年
間、貨物車を運んだ役目を終えることとなりました。
車両甲板の線路は連絡船に列車を移動させるための大切な設備です。
青函航路の連絡船では大正13年に就航した翔鳳丸・津軽丸・松前丸・飛鸞丸の4隻
から船内に線路が設けられ、以後、昭和63年の終航までに造られた全ての青函航路用
に線路が敷かれました。
エンジンルーム(機関室)
地下1階「第2甲板」(この階より海面下)
連絡船の心臓部。この階は海底となり、中には1,600馬力エンジンが8基搭載されて
いるエンジンルーム(ご見学は4基搭載されている第1主機室のみ)と、電気・冷暖
房等すべての起動システムが入っている総括制御室、発電機室があります。
総括制御室
総括制御室は機関や航行に必要な補助機械の遠隔制御をはじめ機器の監視や計測・
記録が居ながらにして行えることから、操舵室に次ぐもう一つの頭脳と言える部屋
です。
八甲田丸の総括制御室は防音装置と冷暖房が整い、快適な環境づくりが行われて
いました。
発電機室
青函連絡船メモリアルシップ 八甲田丸
青森市柳川1丁目112-15地先
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