「何か1つ」を見つける毎日(⌒‐⌒)

自然と神様と猫と木と音楽、、それからそれから、、( - ө - )

もう二度と、、(:_;)

2023-11-04 21:52:02 | 小さな旅のおはなし
最後に東京及び横浜に行ったのはつい4ヶ月前。そんときゃ東京は赤坂、の日枝神社のそばにある出来たてのホテルにツイン一泊二万前後で泊まったんだ、うん。大浴場もあって、朝食付き。で翌日の横浜も、桜木町駅からさほど遠くないこれまた大浴場付きで朝食付きの高層ホテルに、これもツインで確か三万ちょいくらいの値段で泊まれたのでした。
それで、、今回、前回と同じパターンで、金曜の夜は東京泊、翌日鎌倉泊ってと。そんな感じでホテル探しを始めたのですが、、。旅行の予約サイト見てびっくり👀!!エーっ、、?!何だ何だ!見間違いじゃないよね⚡HOTEL、めっちゃ値上がりしてません?!ただならぬ事態。こうなると、ヒマ人の私は、過去に泊まったホテルがどんだけ値上がりしてるかを調べてみたくなり、色々と調べてしまいました。予約内容は、全てツインの朝食付きです。一番高かったのは、頑張ってお金貯めて一昨年泊まった千代田区にある憧れの高層ホテル、お値段は確か五万円代後半でした。今10万超え\(◎o◎)/!他、日本橋の大浴場付きのホテル3年前大体二万円台後半、今は六万越え。汐留の高層ホテル当時三万位。今は大体七万。うわあ〜。じゃ、過去に泊まったことなくて、いつかは泊まりたいと夢見てた、横浜の、あの海の目の前に建つ老舗のホテルは?と恐る恐る調べたら、朝食なしのツイン、一番安いプランでも六万近かった(@_@;)。何かマジもう一生泊まれそうにない、、😞。今度行く鎌倉も場所がらなのか、全体的にお高いのでございます。ビックリしました。(´;ω;`)せっかく行くのだから、ちょっといい宿を、と思っていたのですが、軌道修正し、鎌倉駅周辺は諦めた次第です。いつの間に、、こんなにホテルは高くになったんだい?ちょっと、もう浦島太郎状態です。亀は助けていませんが、、𓆉うわあ、、、懐かしい、、。多分もう二度と泊まることはないだろうなあ、、😂

ちなみに、冒頭に書いた赤坂のホテルも4万越えとなってました。




わけあって、鎌倉時代にUターン。 鎌倉時代〜

2023-11-04 17:27:44 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
全くの個人的な理由で、鎌倉時代に戻り改めて復習いたします。、、来月、鎌倉に旅に行くことになり、改めて鎌倉幕府の頃の鎌倉、についてお勉強しようかはあ、あの人がこの場所で、この場所であの人たちが、、、などと予習してから見る鎌倉の景色は、何かしらまた違って見えるかも知れません。お寺や神社などは、人物やそれにまつわる歴史上重要な出来事を絡め、特に念入りに予習復習を頑張りたい。📚鎌倉時代の出来事は結構血なまぐさいのもありますので、復習するにもドキドキはしますが。💗かまくらー、、待っててくれよー。って、、わずか一泊なんですけどね(;´∀`)気合だけは人一倍。、、鎌倉時代、、何かこの時代も色々あったなあ、、。源氏と平家の争い、鎌倉での政権の基盤づくり、何たってショウグンやで!の時代です。この時代の有名な言葉の一つ→征夷大将軍。、、この役を頂いた源頼朝は名実ともに自ら開いた鎌倉幕府のトップに立ったのです。と、、ここから始まるのでしたね、鎌倉幕府。ヘイヘイ😎

本名、島津一子。誰だかわかる? 幕末〜

2023-11-04 15:25:47 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
ハリスと接見するという大役を果たした13代将軍を徳川家定ですが、彼の名は余り世間には知られていないのではないでしょうか。奥さんを二人続けて失くし、子供もおりませんでした。そんな家定のもとに、3人目の奥さんがやってします。この方こそ!有名人篤姫じゃ。ドラマの主役になるほどの名の知れた人。そうよ、篤姫よ。この婚姻がまたすごくて、何がすごいのかというと、壮大な政略結婚とでもいいますか、、。そう、家康の頃から度々チェックが入った薩摩藩、の島津家、しかも島津家の中でもキラッ🌟と光る実力派、藩主島津斉彬の養女が、幕府の徳川家に嫁ぐわけですから。もうそれだけでびっくりドキドキです。でも、実は島津は、これより少し前にも幕府徳川に娘を嫁がせているんです。島津重豪の娘、茂子、が徳川家斉のもとに嫁に行っとります。たくさん子供をもうけ、当時としては長生きだった事から、島津家のおなごはいいんじゃないの?的な評判ももしかしたらあったのかも。
というわけで、どのような経緯があったかはわかりませんが、島津斉彬の養女でのちに将軍家の養女となる敬子(後の篤姫=天璋院)が、家定の3人目の嫁となります。、、が、残念なことに家定は、篤姫と結婚して2年も経たずに脳溢血を起こし、そのまま亡くなってしまいました😞。ここから熾烈な家定の後継者争いが始まるのですが、それは後に述べるとして、今は篤姫について書いてみます。篤姫(本名、敬子)は、結婚してわずか2年も経たないうちに未亡人となってしまいましたが、家定亡き後も薩摩には戻りませんでした。幕府に留まることを決意したのです。( ・ิω・ิ)せやで!わたしゃ最後まで幕府を支える決心やで!(by篤姫😉)。
家定亡き後、篤姫は仏門に入り、天璋院と名乗ります。そんな篤姫の何がすごかったのでしょう。調べていきましょか。
篤姫は天璋院になってから、本丸に戻り大奥の取締役となります。つまり、、ボスやね。
篤姫は、自分の結婚が、藩と幕府を結ぶための架け橋婚だった事をきちんと自覚していた人なのでしょう。家定の3番目の嫁を、何としても島津から送り込みたい!と島津斉彬は考えていたし、将軍家は将軍家で、「以前島津から将軍家に嫁いで来た広大院、、あの人は上部で仕事もでき子を沢山生んだよなあ、、。島津からまたよめもらえないかしらん、、」と互いの意向が合致したんですな。、、そんな篤姫は、天保6年、薩摩一門の今和泉家の生まれです。生まれた時の名前は一子。一子→敬子→篤姫→天璋院いやー、変わる変わる🌀。