44 尋花処不定
大かたの花のさかりをこころあてにそこともいはずいでしけふかな
九四 大方のはなのさかりを心あてにそこともいはず出(いで)しけふかな 文政八年
□「おほかたの」、ものの七八分、大略、大凡也。大概也。推量まかせに行く也。
○「おほかたの」は、ものの七八分のこと。大略(たいりゃく、おおむね)、大凡(おおよそ)だ。大概(ということ)だ。推量まかせに行くのである。
※花見の気分をよくとらえている駘蕩とした歌だ。
45 霞隔花
さやかにも見るべきものを春がすみたなびく時に花のさくらん
九五 さやかにも見るべきものを春霞たな引(びく)ときに花のさくらむ 文政三年
□みてもみてもあかぬ花故、さやかに見たきものを春がすみの時ぢや、となり。「たなびく時に」さかいでもよいのに、と花を恨み、霞を恨むやうにいふなり。実はかすみのあるがおもしろきなり。情にいろいろあるなり。人情の大は、かはらぬなり。小さきは、かはる也。「大徳不踰閑、小徳出入可」也。是小さき情はかはるなり。古人の霞をよむはいつも邪魔になるものによみなれたり。
○見ても見ても飽きない花なので、はっきりと見たいのに春霞の時じゃ、と言うのである。(わざわざ霞が)たなびく時に咲かなくてもよいのに、と花を恨み、霞を恨むように言ってみるのだ。実のところは、霞のある方がおもしろいのである。(人の)情には、いろいろの相があるものだ。(もともと)人情の大きさというものは、変わらないものである。(ただ)小さいものは、変わるのだ。(「論語」にこうある。)「大徳不踰閑、小徳出入可也」(大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。小徳は出入して可なり)(道徳には大小があって、大徳にはけじめをつけ、小徳にはあまりこだわらないでいてもよい。)これを要するに、小さい情というものは変わるものなのだ。古人が霞を詠む時は、いつも霞が邪魔になるものとして詠み慣れている。(改ページ)
□今は大かた、のどかな方によむなり。古、のどかな方もなきにはあらぬなり。今も邪魔に見る事もあれども、大段は古今うつりかはるなり。「万葉」時代の子規は、「しこ時鳥追へど追へ」などあり。今は殊の外賞翫するなり。人情のうつる事見るべし。大段を知りおくべし。
○今はだいたいのどかな方に詠むのである。昔ものどかな方(の詠み方)もないわけではない。今も(霞を)邪魔に見る事もあるけれども、だいたいの所は昔と今とで移り変わっている。万葉時代のほととぎすは、「しこ時鳥」「追えど追えど」などと(言っている歌が)ある。今はことのほか賞翫する。人情の移り変わりという事を見るべきである。(だから)おおまかなところを押さえておけばいいのだ。
※「万葉集」「慨(うれ)たきや醜(しこ)ほととぎす今こそば声の嗄るがに来鳴き響めめ」巻八。「追へど追へど」は、大伴家持の長歌(一五〇七)にある。
46 花似雲
風ふけばみだるゝまでを山ざくら何ぞはくもにまがひそめけん
九六 風吹けばみだるゝまでを山ざくらなにぞは雲にまがひそめけむ 文化十三年 二句以下、空ニミダルル心マデ雲ニハ花ノイカデ似ツラム 文政六年
□風ふけばみだるゝといふやうな所までを似せたりとなり。これを出すは新趣向なり。山にたなびく雲と似たるは、たいじなきなり。似てもよい事、乱るゝまで似たりとなり。乱るゝを恨むなり。花を賞する情なり。
○「風ふけばみだるゝ」と言うような所までを(花が雲に)似せているというのである。これを出すのは新趣向である。山にたなびく雲と似ているのは大事ないのである。似てもよい事(として)乱れるところまで似ているというのである。(その)乱れるのを恨むのだ。花を賞するの情(こころ)である。
※しかし、古来の膨大な類歌に埋没するものという印象はぬぐいがたい。
47 曙山花
ほのぼのとたなびきあくる雲の上にあらはれそむる山ざくらかな
九七 ほのぼのとたな曳(びき)あくる雲のうへにあらはれ初(そむ)る山ざくらかな
文政二年
□たゝ(ゞ)気色をいふなり。やす歌なれども調を以て入れたり。
「たなびく雲」靉靆として薄紅にたなびくなり。「たなびきあくる」、棚引なりにあくるなり。
○ただ気色を言うのである。容易な歌だけれども調をもって(集中に)入れたのである。たなびく雲が靉靆として薄紅にたなびくのだ。「たなびきあくる」棚引くかっこうで(夜が)明けるのである。
※「桂園遺稿」に「ほのぼのと明行く雲の絶間より匂ひ初ぬる山ざくら哉」(文政二年)とある。
48 遠村花
打わたす遠山もとの垣根までおりゐるくもはさくらなりけり
九八 うちわたす遠山もとの垣ねまでおりゐる雲はさくらなりけり 文化三年
□「うち渡す」見わたすの代のやうにつかふは、誤なり。「うちわたす」は、こゝからかしこまでの事なり。それも見ねばならぬ故に見ることにするなり。本意は見ることではなきなり。「万葉」に「打渡す竹田の原」などあるなり。目を以て打渡すことになるなり。あたるなり。
○「うち渡す」(これを)「見わたす」の代わりのように使うのは誤りである。「うちわたす」はここから向こうまでの事である。それも見ねばならぬために見ることにするのである。本意は見ることではないのだ。「万葉」に「打渡す竹田の原」などとある。(これは)目を以て打渡すことになるのだ。(視線が)当たるのである。
□此歌「見渡せば」とありてもよき所なれども、下句に「おりゐるくもは」などあるにつかへるなり。かたがた「打わたす」にするなり。
○この歌は「見渡せば」とあってもよい所なのであるけれども、下句に「おりゐるくもは」などとあるのにつっかえるのである。いずれにしても「打わたす」にするのである。 △以前の訳を一箇所訂正した。
□「遠山本」といへば村里の気味があるなり。歌をよむ人の上では、それで通ずるなり。俗人には通ぜぬなり。さて「山本の垣根」と云ふ事が、「本」の所に里といふ事が匂ふなり。 「嶺の垣山」の「垣」というても通ぜぬなり。「山本の垣根」といへば自然と里の事になるなり。
○「遠山本」というと村里の気味がある。歌を詠む人の上ではそれで通ずるのだ。俗人には通じない。さて「山本の垣根」という事が、「本」の所に里だという事が匂ふのである。「嶺の垣山」の「垣」と言っても通じないのだ。「山本の垣根」と言えば自然と里の事になるのだ。
□「おりゐる」、降居なり。雲がおりてゐるなり。「万葉」に「雲居たなびく」などあるなり。雲がゐてそれなりにたなびくなり。又常に「雲居」といへば空の事なり。雲の居る所なり。晴天でも曇りでも雲居なり。今の「雲居たなびく」は、雲が居たなびくなり。雲は垣根までおりゐるものではなきが、おりゐるものは桜ぢや、となり。
○「おりゐる」は、「降居」だ。雲がおりているのだ。「万葉」に「雲居たなびく」などとある。雲がゐて、それなりにたなびくのである。又常に「雲居」といえば空の事だ。雲の居る所だ。晴天でも曇っていても雲居である。今の「雲居たなびく」は、雲が居たなびくのである。雲は垣根まで降り居るものではないが、(それなら)降り居るものは桜じゃ、という歌意である。
※坂上郎女(763)「うちわたすたけたのはらになくたづのまなくときなしあがこふらくは」(「万葉集」巻四)
※これもどうにもならぬぐらい似た歌が多数存在するが、上句に実景風の興味がやや感じられる。景樹に垣根の歌は多く存在し、それはどれも実景の感じを起こさせるところがある。
※以下注 拙著『香川景樹と近代歌人』より。
「たとえば、遠方を俯瞰した時の視線の枠組みのようなものに、景樹という人は敏感だった。(略)
作者は、見ようとして見たのではなく、視線が突き当たるように向こうまで届いて見てしまった。そのように視線が向こうに「当たる」ことが、「うち渡す」なのだ。それは、「見わたす」ということとは、違うことなのだ、と詳説してみせる。
ここには、見ることと、見えること、それが言葉にあらわされるのに際して、どのように言い分けられなければならないかということについて、徹底的にこだわる作者の姿がある。ここのところを曖昧に流さないということが、結局最後には、緻密な凝縮された詩的な表現を産むことにつながっていったのである。景樹(らが)こういった問題関心を持ちながら、歌の言葉を吟味していたということの意味は、小さくない。近代短歌が、「写生」という言葉を獲得したのは、国民国家の成立やジャーナリズムの発達や近代科学の導入といった近代化の流れに沿うものだった。しかし、その前代の歌人たちも、視覚の問題にこのように肉薄しながら、歌のありようを考えていたのだった。このことを確認できたところで、私の景樹についての関心の当初の目的の一つである、近代短歌との方法上の関心の連続性についての疑問は答を得たのだった。視点の場所が明確な例として、旅中吟を一首引いておく。
ましらなく杉のむら立(だち)下に見て幾重(いくへ)のぼりぬすせの大坂
嵩山(すせ)は、三河国の本坂街道の宿場町の名。この歌は、景樹の江戸行の往路における本坂峠越えの実体験を詠んだものである。「はるかにかへりみれば谷深うしてものすごく、巫峡の三声思ひ出らる」と詞書がある。李白の白帝城の詩の一節を思ったわけである。「下に見て」「幾重のぼりぬ」という三、四句めが、言葉を簡略に用いながら大きな景色をみごとに活写している。水墨の山水図のような雰囲気を持ちながら一首の調子は強く、細かいだけでなくてがらんとした大づかみな懐の深さを持つ歌である。これは景樹の歌の特徴のひとつでもある。
大かたの花のさかりをこころあてにそこともいはずいでしけふかな
九四 大方のはなのさかりを心あてにそこともいはず出(いで)しけふかな 文政八年
□「おほかたの」、ものの七八分、大略、大凡也。大概也。推量まかせに行く也。
○「おほかたの」は、ものの七八分のこと。大略(たいりゃく、おおむね)、大凡(おおよそ)だ。大概(ということ)だ。推量まかせに行くのである。
※花見の気分をよくとらえている駘蕩とした歌だ。
45 霞隔花
さやかにも見るべきものを春がすみたなびく時に花のさくらん
九五 さやかにも見るべきものを春霞たな引(びく)ときに花のさくらむ 文政三年
□みてもみてもあかぬ花故、さやかに見たきものを春がすみの時ぢや、となり。「たなびく時に」さかいでもよいのに、と花を恨み、霞を恨むやうにいふなり。実はかすみのあるがおもしろきなり。情にいろいろあるなり。人情の大は、かはらぬなり。小さきは、かはる也。「大徳不踰閑、小徳出入可」也。是小さき情はかはるなり。古人の霞をよむはいつも邪魔になるものによみなれたり。
○見ても見ても飽きない花なので、はっきりと見たいのに春霞の時じゃ、と言うのである。(わざわざ霞が)たなびく時に咲かなくてもよいのに、と花を恨み、霞を恨むように言ってみるのだ。実のところは、霞のある方がおもしろいのである。(人の)情には、いろいろの相があるものだ。(もともと)人情の大きさというものは、変わらないものである。(ただ)小さいものは、変わるのだ。(「論語」にこうある。)「大徳不踰閑、小徳出入可也」(大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。小徳は出入して可なり)(道徳には大小があって、大徳にはけじめをつけ、小徳にはあまりこだわらないでいてもよい。)これを要するに、小さい情というものは変わるものなのだ。古人が霞を詠む時は、いつも霞が邪魔になるものとして詠み慣れている。(改ページ)
□今は大かた、のどかな方によむなり。古、のどかな方もなきにはあらぬなり。今も邪魔に見る事もあれども、大段は古今うつりかはるなり。「万葉」時代の子規は、「しこ時鳥追へど追へ」などあり。今は殊の外賞翫するなり。人情のうつる事見るべし。大段を知りおくべし。
○今はだいたいのどかな方に詠むのである。昔ものどかな方(の詠み方)もないわけではない。今も(霞を)邪魔に見る事もあるけれども、だいたいの所は昔と今とで移り変わっている。万葉時代のほととぎすは、「しこ時鳥」「追えど追えど」などと(言っている歌が)ある。今はことのほか賞翫する。人情の移り変わりという事を見るべきである。(だから)おおまかなところを押さえておけばいいのだ。
※「万葉集」「慨(うれ)たきや醜(しこ)ほととぎす今こそば声の嗄るがに来鳴き響めめ」巻八。「追へど追へど」は、大伴家持の長歌(一五〇七)にある。
46 花似雲
風ふけばみだるゝまでを山ざくら何ぞはくもにまがひそめけん
九六 風吹けばみだるゝまでを山ざくらなにぞは雲にまがひそめけむ 文化十三年 二句以下、空ニミダルル心マデ雲ニハ花ノイカデ似ツラム 文政六年
□風ふけばみだるゝといふやうな所までを似せたりとなり。これを出すは新趣向なり。山にたなびく雲と似たるは、たいじなきなり。似てもよい事、乱るゝまで似たりとなり。乱るゝを恨むなり。花を賞する情なり。
○「風ふけばみだるゝ」と言うような所までを(花が雲に)似せているというのである。これを出すのは新趣向である。山にたなびく雲と似ているのは大事ないのである。似てもよい事(として)乱れるところまで似ているというのである。(その)乱れるのを恨むのだ。花を賞するの情(こころ)である。
※しかし、古来の膨大な類歌に埋没するものという印象はぬぐいがたい。
47 曙山花
ほのぼのとたなびきあくる雲の上にあらはれそむる山ざくらかな
九七 ほのぼのとたな曳(びき)あくる雲のうへにあらはれ初(そむ)る山ざくらかな
文政二年
□たゝ(ゞ)気色をいふなり。やす歌なれども調を以て入れたり。
「たなびく雲」靉靆として薄紅にたなびくなり。「たなびきあくる」、棚引なりにあくるなり。
○ただ気色を言うのである。容易な歌だけれども調をもって(集中に)入れたのである。たなびく雲が靉靆として薄紅にたなびくのだ。「たなびきあくる」棚引くかっこうで(夜が)明けるのである。
※「桂園遺稿」に「ほのぼのと明行く雲の絶間より匂ひ初ぬる山ざくら哉」(文政二年)とある。
48 遠村花
打わたす遠山もとの垣根までおりゐるくもはさくらなりけり
九八 うちわたす遠山もとの垣ねまでおりゐる雲はさくらなりけり 文化三年
□「うち渡す」見わたすの代のやうにつかふは、誤なり。「うちわたす」は、こゝからかしこまでの事なり。それも見ねばならぬ故に見ることにするなり。本意は見ることではなきなり。「万葉」に「打渡す竹田の原」などあるなり。目を以て打渡すことになるなり。あたるなり。
○「うち渡す」(これを)「見わたす」の代わりのように使うのは誤りである。「うちわたす」はここから向こうまでの事である。それも見ねばならぬために見ることにするのである。本意は見ることではないのだ。「万葉」に「打渡す竹田の原」などとある。(これは)目を以て打渡すことになるのだ。(視線が)当たるのである。
□此歌「見渡せば」とありてもよき所なれども、下句に「おりゐるくもは」などあるにつかへるなり。かたがた「打わたす」にするなり。
○この歌は「見渡せば」とあってもよい所なのであるけれども、下句に「おりゐるくもは」などとあるのにつっかえるのである。いずれにしても「打わたす」にするのである。 △以前の訳を一箇所訂正した。
□「遠山本」といへば村里の気味があるなり。歌をよむ人の上では、それで通ずるなり。俗人には通ぜぬなり。さて「山本の垣根」と云ふ事が、「本」の所に里といふ事が匂ふなり。 「嶺の垣山」の「垣」というても通ぜぬなり。「山本の垣根」といへば自然と里の事になるなり。
○「遠山本」というと村里の気味がある。歌を詠む人の上ではそれで通ずるのだ。俗人には通じない。さて「山本の垣根」という事が、「本」の所に里だという事が匂ふのである。「嶺の垣山」の「垣」と言っても通じないのだ。「山本の垣根」と言えば自然と里の事になるのだ。
□「おりゐる」、降居なり。雲がおりてゐるなり。「万葉」に「雲居たなびく」などあるなり。雲がゐてそれなりにたなびくなり。又常に「雲居」といへば空の事なり。雲の居る所なり。晴天でも曇りでも雲居なり。今の「雲居たなびく」は、雲が居たなびくなり。雲は垣根までおりゐるものではなきが、おりゐるものは桜ぢや、となり。
○「おりゐる」は、「降居」だ。雲がおりているのだ。「万葉」に「雲居たなびく」などとある。雲がゐて、それなりにたなびくのである。又常に「雲居」といえば空の事だ。雲の居る所だ。晴天でも曇っていても雲居である。今の「雲居たなびく」は、雲が居たなびくのである。雲は垣根まで降り居るものではないが、(それなら)降り居るものは桜じゃ、という歌意である。
※坂上郎女(763)「うちわたすたけたのはらになくたづのまなくときなしあがこふらくは」(「万葉集」巻四)
※これもどうにもならぬぐらい似た歌が多数存在するが、上句に実景風の興味がやや感じられる。景樹に垣根の歌は多く存在し、それはどれも実景の感じを起こさせるところがある。
※以下注 拙著『香川景樹と近代歌人』より。
「たとえば、遠方を俯瞰した時の視線の枠組みのようなものに、景樹という人は敏感だった。(略)
作者は、見ようとして見たのではなく、視線が突き当たるように向こうまで届いて見てしまった。そのように視線が向こうに「当たる」ことが、「うち渡す」なのだ。それは、「見わたす」ということとは、違うことなのだ、と詳説してみせる。
ここには、見ることと、見えること、それが言葉にあらわされるのに際して、どのように言い分けられなければならないかということについて、徹底的にこだわる作者の姿がある。ここのところを曖昧に流さないということが、結局最後には、緻密な凝縮された詩的な表現を産むことにつながっていったのである。景樹(らが)こういった問題関心を持ちながら、歌の言葉を吟味していたということの意味は、小さくない。近代短歌が、「写生」という言葉を獲得したのは、国民国家の成立やジャーナリズムの発達や近代科学の導入といった近代化の流れに沿うものだった。しかし、その前代の歌人たちも、視覚の問題にこのように肉薄しながら、歌のありようを考えていたのだった。このことを確認できたところで、私の景樹についての関心の当初の目的の一つである、近代短歌との方法上の関心の連続性についての疑問は答を得たのだった。視点の場所が明確な例として、旅中吟を一首引いておく。
ましらなく杉のむら立(だち)下に見て幾重(いくへ)のぼりぬすせの大坂
嵩山(すせ)は、三河国の本坂街道の宿場町の名。この歌は、景樹の江戸行の往路における本坂峠越えの実体験を詠んだものである。「はるかにかへりみれば谷深うしてものすごく、巫峡の三声思ひ出らる」と詞書がある。李白の白帝城の詩の一節を思ったわけである。「下に見て」「幾重のぼりぬ」という三、四句めが、言葉を簡略に用いながら大きな景色をみごとに活写している。水墨の山水図のような雰囲気を持ちながら一首の調子は強く、細かいだけでなくてがらんとした大づかみな懐の深さを持つ歌である。これは景樹の歌の特徴のひとつでもある。