さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

千家元麿の詩「象」の教材化案・発問と解答例

2017年03月25日 | 詩の授業
一太郎ファイルの復刻。思い出したので検索をかけたみたら、あった。だいぶ前のものだが、愛着がある文章である。

千家元麿の詩の良さを知ったのは、鶴見俊輔の文集によってだった。近い所では埴谷雄高の特集で文芸誌に書いた文章や、筑摩から出た一冊本の『竹内好』がおもしろかった。自分の生涯の同志とでも言えるような人たちについて、墓誌のような本を作っておられた。それは自身が歩んできた戦後史への哀悼であるとともに、次代に自身の志を受け継ごうとする営みでもあったのだろう。鶴見は、近代日本における自生のヒューマニズムの水脈を、独自の思想史家としての嗅覚から掘り出してみせた。それは「アナキズム」と呼ばれたり、「社会主義」と呼ばれたり、「人道主義」と呼ばれたりしたものであるが、鶴見の中では、人間の善性への確信に貫かれた信の実践という点で、等しい存在だったのではないかと思う。

鶴見俊輔は、今にも戦車が走って来るかもしれない往来に、あらかじめ敗者として寝そべってしまうようなタイプの人間に対して、愛情を感じすぎるのかもしれない。が、政治的な人間が自身の冷厳なリアリズムゆえに、かえって短命で早々に滅びてしまうのに対し、近代日本の自生のヒューマニストたちは、たいてい天寿をまっとうしたのである。人が生き延びることはひとつの知恵であり、どうやったら生き延びられるのか、どのような思想を持ったら人間はよく生き得るのかを幼い人々に教えることは、年長者の責務である。千家元麿も、鶴見のそういう問題関心の中で、生き生きとした表情を与えられていた。私が今回「象」にこだわってみた動機の一番最初のところに以上のべたような読書体験が存在する。

 現代という時代は、あらゆるものが卑俗化し、崇高なるものへの願いが失われた時代である。とりわけ性器的接触への性の関心の極限化は、文化の貧困化であるとともに民族的な不幸と言ってもいいような状況となっている。崇高なものへの思いを養ううえで、千家元麿の詩にまさるものは、なかなかないのではないか。「畏敬の念を持つ」という心のはたらきが、政治的な方向にねじ曲げられようとしているこのような時代にこそ、本物を感じさせたい。理想主義的な精神が持つ心のはたらきの美しさを感じ取らせたい。

 口語自由詩の「象」は、親しみやすい動物の姿の描写を通して、人生の寂しさと孤独の意味を感じ取ったり、作者の心のやさしさに触れることができる詩である。全体に象徴的な内容を持ちながらも、表現は平易で、形象性が高く、イメージもつかみやすい。漢語の使い方に味わいがあり、漢字の使い分けによる文のニュアンスの違いを理解する上でも有効な教材である。

 以下に本文を現代仮名遣いに書きあらため、なじみにくい表記を学生用に補訂したテキストを示す。そのあとは、行番号ごとに予想される発問もしくは作業のための設問を提案し、簡単な解説と解釈案も付記した。皆様のご批正をたまわりたい。

    象 千家元麿

一  動物園で象の吼えるのを聞いた
二  象は鼻を牙に巻きつけて巨きな頭をのし上げて
三  薄赤いゴムで造ったような口を開いて長く吼えた。
四  全身の力が高く擡げた頭にばかり集まってしまったように
五  異様な巨きな頭が真黒になり隠れていた口が赤い焔を吐いた。
六  その声は深く、寂しく、恐ろしかった。
七  象は一息吼え終ると鼻を垂れてもとの姿勢に戻りじっとしていた。
八  実に凝っとしていた。二本の巨きな前足が直立して動かなかった。
九  細い眼を真正面に据えて動かなかった。
一〇 その眼の静かさは人を慄え上らせた。
一一 二分三分、四分位経つと再び象は鼻を口の中へ巻き込んでくわえた。
一二 そうして異常な丈となり、不思議な痛ましい曲譜を吹き鳴らした。
一三 ブルブル震えて何処までも登ってゆくようなリズムであった。
一四 荒々しい、しかし無限な悲哀を含んだ此世の声とは思えなかった。
一五 遠い原野をさまようものの声であった。
一六 争うような祈るような、何者か慕うような幼い声であった。
一七 象は長く吼えて力が盡きると又もとの姿勢にかえって凝っと静まり返って前を見詰めていた。
一八 その古びた灰色の背骨の露われた姿は静かさに満ちていた。
一九 限り無く寂しいものに見えた。
二〇 自分は黙って彼の姿を見ていた。自分の眼には涙が浮かんだ。
二一 彼は何か待ちのぞんでいるようであった。
二二 此世の寂寞に耳を澄ましているようであった。
二三 何か催すのを待っているようであった
二四 やがて彼は又何ものにか促されて凄まじい姿となり、巨頭を天の一方に捧げて三ベン目を吼えた。
二五 四ヘン目を吼え終った時、彼はその鼻で巨きな禿げた頭の頂きをピシャリと音の発する程嬉しそうにたたいた。
二六 何か吉兆に触れたように。
二七 五ヘン目に彼は又空に向かって何ものか吸い上げるように吼えた。
二八 轟く雷か波のように音は捲きかえして消え去った。
二九 それからもとの姿勢に戻って習慣的に体を前後にゆさぶりはじめた。
三〇 足も鼻も尻尾も動き出した。
三一 彼はもう吼えなかった。

注解と指導のポイント
一 「吼える」と「吠える」とではどうちがうか?調べてみよう。(句点は、この行と二三行目にだけはじめからない。これは作者の持っている読み、朗読のリズムと、文や句点についての考え方と関係があるのかもしれないが、明確な根拠をもって一般に納得の行く解説を与えることがむずかしいので、ここでは深入りしない。)

二 「巨きな頭をのし上げて」の「のし上げて」を「上げて」「持ち上げて」とくらべると、どんな違いがあるか?

三 象の口はどんなふうに見えたのか? 「薄赤いゴムで造ったような」は直喩。以下に直喩は頻出する。

四 「もたげる」はどんな動作か?「全身の力が高く擡げた頭にばかり集まってしまったように」は直喩。

五 ① 頭が「真黒にな」ったのは、なぜか? おそらく、象の頭が影を作ったためである。作者は心持ち象を見上げる視点をとっている。これは実際に作者が象を間に置いて日光の影が見える側にいたということも考えられるが、それだけではなく心理的な位置もそうなのであろう。
② 「赤い焔を吐いた」というのは、象のどんな姿をとらえた描写か? 象が口をあけて赤い口の中が見えている様子。またここから象がどんな様子で吼えていることがわかるか? 激しく口が見えるぐらいに天を向いて伸び上がっている様子。
➂「炎」と「焔」ではどう違うか?

六 象の声はどんな声だったのか? 「深く、寂しく、恐ろし」い声。

七 「一息吼え終ると」から、象が胸いっぱいに吸った息を全部吐ききるまで長々と吼えていることがわかる。象の肺活量は大きいので、大変な声量であることが想像できる。「鼻を垂れて」は二行目の鼻の描写と対照してみたい。

八 「実に凝っとしていた」は繰り返し(リフレイン)。ここにはそれまでの動と静との対比がある。

九 「細い眼を真正面に据えて動かなかった。」からは、象がじっと自分の思いのようなものに集中していることが読みとれる。

一〇 「その眼の静かさは人を慄え上らせた。」ふつう「静かな眼」はどんな眼のことをさしているだろうか? それに比べてここでの象の「静かな眼」はどんな眼だろうか? 単に眼の表情がこわかったのではなくて、内側に恐ろしい凶暴な要素を秘めた眼のことである。

一一 ① 作者は「二分三分、四分位」待っていたことになる。どうして待っていたのだろうか? 象の普通でない吼え方に心をひかれ、激しい好奇心を抱いたから。
② この一文からこのあと象が何かをすることが予想できる。象は何をするのか? それは、この文のどこから読みとれるか? 「再び」ということばから。

一二 ① 「異常な丈となり」とは象のどんな様子をいったものか? 大きく上に頭を持ち上げて伸び上がった姿。② 「不思議な痛ましい曲譜」とは、何のことか? 象の鳴き声。

一三 作者は象の声を音楽のように表現している。象の吼え声は低い音程から高い音程へとわたるものであることがわかる。

一四、一五 象の声はどんな声か?荒々しい声、無限な悲哀を含んだ此世の声とは思えない声、遠い原野をさまようものの声。
ここから、作者が象の声と「悲哀」のわけをどんな文脈で解釈しようとしていることがわかるか? また、現実には象はどこにいるのか?
現実には動物園の中にいる象が、作者のくみとった象の気持の中では、遠い原野をさまよいながら声をあげている。それは原野へのあこがれの声のようでもある。また、想像の中で象はすでに原野をさまよっているのかもしれない。ここには象の声が持つ「痛まし」さと「悲哀」感への作者の理解があらわれている。(この詩行は、「荒々しい~含んだ」という修飾句がかかる「声は」という主語が立てられていないので、以下の「此世の声とは思えなかった」とそれまでの句が並列されるかたちになっていて、やや文法的に破格な印象を与える。語勢に着目すると、句点を置きながらも気持は次の行にかかっているようにみえる。)

一六 「荒々しい声」で吼えている象の声の中に「何者か慕うような幼い声」を作者は聞き取っている。
①このさまざまな要素が混在した象の声から、読者は象のどんな気持を読みとるだろうか?
②あわせて、「何者か慕うような幼い声」の象は何を慕っていると思われるか? たぶん、仲間や母親の象など。

一七 象が静かになったのは何度目か?二度目。「長く吼えて力が盡きると」から、象のどんな吼え方が読みとれるか? 力が尽きるまで、渾身の力をこめて吼えているさま。

一八 「その古びた灰色の背骨の露われた姿」は、象の蒼古とした風貌を伝えている。「露われ」る、の漢字の使い方に注意する。表れ、現れ、とどう違うか。

一九 作者は象の吼えている姿からどんなことを見てとったのか?そして象はどんな気持だと思っているのか? 寂しさ、寂しい気持。

二〇 ①「自分」とは誰か?作者。ここまでは描写文であり、この詩行も作者が自分を客観的に描写した文であることに注意する。 ②どうして「自分」は涙を浮かべたのか?象の悲哀感に心を動かされたから。そのさびしい気持に共鳴し、胸にせまるものがあったから。ここで気をつけなくてはならないのは、作者は象がかわいそうだから同情して涙を浮かべたのではないということだ。作者は吼える象の荒々しさと雄々しさに心を奪われているのである。その荒削りな情動の厚みに心を動かされたからこそ、作者はこの詩を作ったのである。

二一、二二、二三 ここまで読んでくると、象が吼えたあと静かになるわけがわかる。象はただ疲れたから静かにしているのではない。象は吼えたあと、何かを「待っている」のだ。何かに向かって吼え、何かからの返答を待っているのである。

二四 吼える姿の繰り返しだが、微妙に表現が変化している点に注意したい。「何ものにか促されて」という部分には作者の解釈(象の気持の理解)がすでに入っている。

二五、二六 ①二一~二三行目で象が抱いていた思いは、かなえられたのだろうか?かなえられた。
②このように機嫌良くふるまう前の象の姿はどんなものだったか? 対比してみよう。一八行目~二三行目、とりわけ一九行目の「限り無く寂しい」象の姿との対比は際だっている。

二七 「五ヘン目」の吼え方と、四ヘン目までの吼えかたに違いはあるだろうか? 象は今度は満足して吼えている。

二八 ここの描写は、存在の悲哀に満ちた象の姿の描写にふさわしい余韻を残すものである。「轟く雷か波のように」は直喩。「音は捲きかえして消え去った」という描写は、あたかも大きな交響曲の終焉のような荘重な結びとなっている。

二九~三〇 それまで、象は吼えた直後どんなようすだったのか? じっとしていた。ここでの象は「体を前後にゆさぶ」って動いている。この日常的な普通の象の姿は、先ほどの緊張し張りつめた象とは明らかに異なっている。象は緊張と弛緩の鮮やかな対照の相のもとに活写されている。

三一 象はどうして吼えないのか? 満足した、自分なりに納得したから。
 象が待ちのぞんでいるものは何だろうか? それは最後まで明らかにはされない。しかし、暗示されている。象がもとめているのは、「何ものか」からの返答だろう。それは仲間の声かもしれないし、あるいは遠くにいる母親の声かもしれない。それは聞こえたのか? 聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。確かにはわからない。でも、読者として君はどう思うか? と問われた時に、それを考えてみることはできるはずだ。

主題 
誰も返答をしてくれる相手がいなくても象はなにものかに呼びかけるように勇壮に吼える。そこには生き物の持つ寂しさと誇らしさが同時に表現されている。本編は、象への深い愛情と共感のもとに孤独の意味を問いかけた作品だと言えるだろう。また、発語や歌、咆吼への衝迫の意味を問いかける詩でもある。高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」の文明批評とはちがった角度で動物園の生き物をとらえ、詩境も深いものがあるというべきだろう。

出典 『虹』大正八年九月、新潮社刊。第二詩集。武者小路実篤に捧げられた。

改訂 本文の旧活字は新活字とし、仮名遣いも現代仮名遣いにあらためた。また「ゝ」などの繰り返し記号の部分は文字に直した。ただし「吼える」をはじめとして作者の語彙の選択そのものが重要な意味を持っていることに留意して、多くは原文のままとした。
改めたのは、四行目「仕舞つた」→「しまった」、「様に」→「ように」、五行目以下「居た」→「いた」、八行目「凝つと」→「じっと」、十一行目「食はへた」→「くわえた」、十二行目「然うして」→「そうして」、十四行目「然し」、十六行目「幼ない」→「幼い」、十七行目「盡きる」→「尽きる」、二十行目「浮んだ」→「浮かんだ」、二十四行目「軈て」→「やがて」、二十五行目「嬉し相」→「うれしそう」、二十七行目「向つて」→「向かって」、二十九行目「體」→「体」、二十九行目「初めた」→「はじめた」等である。また初学者のことを考慮して振り仮名も新たに付け加えた。

三枝浩樹『時禱集』 ※「禱」の略字は「祷」

2017年03月25日 | 現代短歌
 自分がどうしてその本を持っているのかわからないのだけれども、本棚に彫刻家の山本正道の展覧会のカタログ(1999年)があった。その写真集のうしろの方に1975年に描かれたポートレートが収録されている。大きな目をみひらいた印象的な若者の横顔が、彫刻家らしい陰翳の濃いタッチで定着されているデッサンなのだけれども、そこに表現されている純一な精神が私には好もしく、そのページを切り取ってとうとう壁に貼ってしまった。でも毎日見るには自分のしていることがあまりにも蕪雑なので、絵の精神性に自分が向き合えない気がするので、結局しばらくしてから裏返しにしてしまって、その反対側のページの山のデッサンの方を出して飾ってある。その青年像が、なぜか三枝浩樹を連想させるのだ。

 三枝には、八木重吉のことを書いた本があった。厚すぎない本で、誇大なことは言わず、自分がこころを惹かれたもののことを、こんなふうに書けたらいいだろうなと思えるような、幸せな書物だった。三枝の身のめぐりにあるものは、みんなそのようにあらしめられるというか、あるべきところにあるものがあるようになる、とでも言おうか、著者と面識はないが、たぶんそういう生き方を貫いて来られた方なのではないかと思って、書かれたものを見て来た。この信頼感は作品から受けた印象の積み重ねのなかでかたちづくられたものだ。読んでいるうちに、作品の底に流れている純一なものに打たれ、彫刻家の山本正道のポートレートのように、作品を支えている精神の高さを前にして低俗なわが身を隠したくなる。一首引く。

人が人を心に思いいだくこと妻子も父母もようやくかなし

人間というものは、ある年齢になると、こういう感慨を端的にいだくようになるものらしい。私自身もそうだから、ああ、そうだなと、本当にこのようにしか言い表しようのないことが言われているなと、思うのである。同様な家族の歌を引いてみる。

サン・テグジュペリは四十四で亡くなったらしいとふいに娘が語りだす
 ※「娘」に「こ」と振り仮名

語る言葉はあるようでなし きみのなかにやがてめざむる村の灯のあれ

この二首は並べられている。「村の灯」は、飛行士が夜間飛行の上空から見つける人家のあかりのことなのだろうが、人が生きるうえでの拠りどころとするものの比喩でもあるだろう。

きみのなかにもコラールの銀 忘れつつ遠ざかりつつたまゆらともる

雪雲の大きな翳が占める森ひえびえとひとつひとつの木あり

こわれゆく肉とたましい たましいの様みえざれば黙しゆくのみ

教員としての仕事や、かかわっているらしい教会の関係で、作者の周辺には傷みをかかえている人が多いようだ。上の同じ一連の三首は、旧知の人のおそらくは認知症の症状が進んでいってしまう様子に心をいためているのだろう。リルケのように、存在に耳を澄ませて生きようとする作者らしい歌だ。

 ※翌日の晩になって、NHKの認知症についての番組を見ていて気がつき、一箇所表現を訂正した。先にごらんになった方には、失礼いたしました。