(承前 2月24日 その1)
この短い評論文の、もう一つ感心した部分を引いてみたい。
それは加藤克巳についての文章で、これを読むと加藤克巳の歌を読み直そうという気にさせられる。それぐらい示唆的な文章である。
なまぐさいどうにもならない液状となりて歩めば天国という 加藤克巳
「 液体人間。液状となって、どうにもならなくて、それでも人間だから、どうしょうもなく歩くばかりだ、というだけならむしろ平凡であって、一時代前の新短歌ではありふれた境地である。いくらうまくつくっても境地のおもしろさを出ない。同じような材料で皆がつくり出すと忽ち摩滅してしまう。作者の歌が容易に摩滅を許さないのは、境地だけで終っていないからである。
「天国という」の結句はやや安易に偶然に賭けた感がなくもないが、やはりこの一首に奇妙な浮力を与えていると言えよう。
言葉を伝統の重みから解放して短歌空間に浮遊させるというのが作者の方法であって、浮遊させるという点では現代詩のある傾向と共通のものがあるが、この一首はやはり短歌である。四句から五句への移り具合など、詩ではこうは行かない。作者は決して詩の一行などをつくっているのではなくて、もちん短歌をつくっているのである。そういう主張が叫喚となってどろどろと反響しているのが感じられる。加藤克巳の作歌姿勢にはつねに孤独走者の雄々しさがあって、そこが作歌理念に同じない者をも吸引するのである。」
前田透「現代短歌鑑賞」「短歌研究」1978.1 ※読みやすいように改行した。
あらためて加藤克巳の掲出歌に向き合ってみて、四十年以上前のこの歌がぜんぜん古びていないことに驚く。そうして前田透がこの歌を引いて書いている評言に身震いを覚える。こういうものを短歌の批評というのだ。これは、一ページが本の一冊分に相当してしまうような文章と言っていいだろう。
・「作者の歌が容易に摩滅を許さないのは、境地だけで終っていないからである。」
・「四句から五句への移り具合など、詩ではこうは行かない。作者は決して詩の一行などをつくっているのではなくて、もちん短歌をつくっているのである。」
こういう言葉を新しい作者たちは、よくよく噛みしめてみたらいいだろう。そうすれば、何が本当の敵なのか、見分けがつくようになるのではないかと私は思う。
この短い評論文の、もう一つ感心した部分を引いてみたい。
それは加藤克巳についての文章で、これを読むと加藤克巳の歌を読み直そうという気にさせられる。それぐらい示唆的な文章である。
なまぐさいどうにもならない液状となりて歩めば天国という 加藤克巳
「 液体人間。液状となって、どうにもならなくて、それでも人間だから、どうしょうもなく歩くばかりだ、というだけならむしろ平凡であって、一時代前の新短歌ではありふれた境地である。いくらうまくつくっても境地のおもしろさを出ない。同じような材料で皆がつくり出すと忽ち摩滅してしまう。作者の歌が容易に摩滅を許さないのは、境地だけで終っていないからである。
「天国という」の結句はやや安易に偶然に賭けた感がなくもないが、やはりこの一首に奇妙な浮力を与えていると言えよう。
言葉を伝統の重みから解放して短歌空間に浮遊させるというのが作者の方法であって、浮遊させるという点では現代詩のある傾向と共通のものがあるが、この一首はやはり短歌である。四句から五句への移り具合など、詩ではこうは行かない。作者は決して詩の一行などをつくっているのではなくて、もちん短歌をつくっているのである。そういう主張が叫喚となってどろどろと反響しているのが感じられる。加藤克巳の作歌姿勢にはつねに孤独走者の雄々しさがあって、そこが作歌理念に同じない者をも吸引するのである。」
前田透「現代短歌鑑賞」「短歌研究」1978.1 ※読みやすいように改行した。
あらためて加藤克巳の掲出歌に向き合ってみて、四十年以上前のこの歌がぜんぜん古びていないことに驚く。そうして前田透がこの歌を引いて書いている評言に身震いを覚える。こういうものを短歌の批評というのだ。これは、一ページが本の一冊分に相当してしまうような文章と言っていいだろう。
・「作者の歌が容易に摩滅を許さないのは、境地だけで終っていないからである。」
・「四句から五句への移り具合など、詩ではこうは行かない。作者は決して詩の一行などをつくっているのではなくて、もちん短歌をつくっているのである。」
こういう言葉を新しい作者たちは、よくよく噛みしめてみたらいいだろう。そうすれば、何が本当の敵なのか、見分けがつくようになるのではないかと私は思う。