61 暮春落花
限あればとまらぬはるの大ぞらにゆくへは見えてちるさくらかな
百十一 限りあればとまらぬ春のおほ空にゆくへは見えてちる櫻かな
□限がくれば(※「限があれば」の起こしまちがいか)、とまらぬ春になりたり。春のとまりを知る人ぞなきなり。しかし花の行方は見えるなり。東風には西へ行き、北風には南へゆくなり。
○限があるので、(古歌にも言う)立ち止まることのない春となっている。春の居場所を知る人はないものだ。しかし花の行方は、見えるのだ。東風には西へ行き、北風には南へゆくのである。
※「題しらず をしめどもとまらぬ春もあるものをいはぬにきたる夏衣かな 素性法師『新古今和歌集』一七六」。季節を擬人化する伝統的な修辞。景樹は花がさくとろころにそれが見えるではないか、という。関係ないが思い出したので一句引く。「てのひらに落花とまらぬ月夜かな」(渡辺水巴)。
62 萎花蝶飛去
この里は花ちりたりととぶ蝶のいそぐかたにも風やふくらん
一一二 このさとは花散(ちり)たりと飛(とぶ)てふのいそぐかたにも風や吹(ふく)らむ
□此今といふは、天保九年戌なり。此歌今を去る事五十年も前なり。横山直右衛門の宅にてよみしなり。山本駿州は「晴天帰雁喜」でありしなり。○元来横山の妻がうたをよむにつきて行きたりしなり。さて直右衛門は芦庵と懇意なり。妻の景樹を喜ぶを芦庵とは如何やと思ふに付きて、此日の当座題の詠を芦庵に持て行きたりしなり。然るに芦庵甚誉めたり。「此やうに揃ひてよきは五六百年もあるまじき」といはれたりとなり。此事を後に直右衛門が云へりし。
「此里は花散りたりと」蝶が飛んで急ぐが、其行方にも風が吹いて散つたであらうかぞや、となり。
芦庵の心は、景樹のが最気に入らぬなり。それゆゑ打返してよみたりしなり。直右衛門は打返して見たるをよきゆゑなりと思へども、それは芦庵にはまらぬ所あるなり。
○〈ここの講義のくだりで今というのは、天保九年戌の年のことである。〉この歌は今を去る事五十年も前のものだ。横山直右衛門の宅で詠んだものである。(同座した)山本駿州(昌敷※山本嘉将による)は、「晴天帰雁喜」であったのだった。○(ママ)もともと横山の妻が歌を詠むのに付いて行ったのだった。さて直右衛門は蘆庵と懇意だった。妻が景樹(の歌)を喜ぶのを「蘆庵とは(蘆庵の見方と比べると)どうだろうか。」と思うことについて(疑問を質すために)、この日の当座の題の詠草を蘆庵(の所)に(横山が)持って行ったのだった。ところが蘆庵はひどく誉めた。「このように揃って良い(歌)は五六百年もなかったことだろう」と言われたということだ。この事を後に直右衛門が語ったのだった。
「此里は花散りたりと」蝶が飛んで急ぐが、そっちの方にも風が吹いて(花は等しく)散っただろうかなあ、というのである。
蘆庵の(本当の)心は、景樹のが最も気に入らなかったのである。それだから繰り返して吟じたのである。直右衛門は繰り返し見たことを(歌が)良いからだと思った(ようだ)けれども、それは蘆庵(の基準に)に当てはまらない所があるからなのだ。
※山本嘉将は、「大体享和初年か寛政末年の頃のことだろう」と述べている。よく歌を知る者同士の心理のあやを見通して言っている景樹の座談は、興味深い。
63 残花少
ひとさかりありての後の世の中にのこるは花も少なかりけり
一一三 ひとさかりありてのゝちの世中に残るは花もすくなかりけり
□此歌、人間有為の世を下に踏みたり。「人有一盛生者必衰」なり。人間すべて盛衰あるなり。一盛ありての後は、その盛なりに居る事は中々少なき事なり。何の上もさうぢやが、花も少なきなり。一盛ありての後は十分なる事はなきものなりとなり。
○この歌は、人間有為の世を下に踏まえている。「人有一盛生者必衰」なり。人間すべて盛衰のあるものだ。一盛りあっての後は、その盛りなりにとどまって居る事は、中々少ない事である。どんな物事でもそうじゃが、花も少なくなるのである。一盛りあって後は、十分な事はないものである、というのである。
※「ひとさかり」という語の使用は、俗語・平語をつかうべしとする景樹の歌論にもかなう。この歌やや教訓的に読まれてしまうところはあるだろう。本人の解もそうなっている。思いついたので、「今夜ここでのひとさかり」(中原中也)。
64 人の賀に花有喜色といふことを
誰もみなうれしき色は見ゆれどもゑみほころべる花ざくらかな
一一四 たれもみなうれしき色は見ゆれどもゑみほころべる花ざくら哉 文化二年
□伊丹の人の賀なりし賀宴でよみたり。「誰もみな」、親子兄弟ともに皆々となり。其中でも、別して喜しく見ゆるは花なり。「ゑむ」は花の開くをいふ。「綻ぶ」も開くことにいへり。「ゑむ」はもと人の笑ふよりして、花におよぼすなり。「ほころべる」は、人にはかぎらぬなり。ほつとふくれ、とける事なり。衣服の類にも云ふなり。しまりしものゝやぶれ、ふくろへるをいふなり。「ゑみほころぶ」と云へば、笑の上にわらふといふことなり。大笑なり。「ゑみほころぶ」とつゞくる時は、ゑむことはつよきになるなり。花はよくよくうれしいそうな、となり。此うた、力を入れたり。飛鳥以上には「花ゑみ」といへり。花が人の如くにさくことをいひたり。藤原以下には、あまりいはぬなり。花櫻は一種の櫻也。こゝに「花さくら」といはずともよけれど、調にきかせていひたり。「山櫻」ではおちつかぬなり。「櫻花かな」でもわろきなり。「花櫻」は、一種べに色を帯びたるをいふなり。
○伊丹の人の賀だった。賀宴で詠んだ。「誰もみな」は、親子兄弟ともに皆々(が)、という意味だ。その中でも特別に喜ばしく見えるのは花だ。「笑む」は花の開くのを言う。「綻(ほころ)ぶ」も開くことに言っている。「ゑむ」はもともと人が笑うのより花に及ぼして言うのである。「ほころべる」のは、人に限らない。ぽっとふくれて解ける事だ。衣服の類にも言うのである。締まったものが破れふくらんでいる様を言うのだ。「ゑみほころぶ」と言えば、笑うのに重ねて笑うということである。大笑いだ。「ゑみほころぶ」と続ける時は、「ゑむ」事が強い状態になるのだ。花はよくよくうれしいそうだよ、というのだ。この歌は力を入れた。飛鳥(時代)以前には「花ゑみ」といった。花が人のように咲くことを言った。藤原(時代)以後には、あまり言わない。「花櫻」は一種の櫻である。ここに「花ざくら」と言わなくても良いけれども、調にき(効・利)かせて言ってある。「山櫻」では落ち着かないのだ。「櫻花かな」でもよくないのだ。「花櫻」は一種べに色を帯びた花のことをいうのである。
65 滋賀山越
逢坂のゆきかひまれになりぬらん滋(ママ)賀山ざくら花さきにけり
一一五 逢坂のゆきかひまれになりぬらむ志賀山ざくら花さきにけり
□此題は、「堀河後度」に初めていでたり。山越は四季ともにおもしろき所なり。「志(ママ)賀山越にて雪を見て」と「古今」にもあるなり。おもしろき所なり。今のごとくさびしきものではなきなり。かゝるおもしろき處ゆゑに「志賀山越」といふ題が出でたるなり。「堀河後度」にては色々によみたり。紅葉もあるなり。多くは花なり。其後に「後京極六百番歌合」には、春の部に出たり。花をよむべき題に限りきたるなり。是第二番なり。「広澤池眺望」は秋の部に出たるが如し。これ月をめづるなり。元来「志賀山越」の題は、貫之、俊頼、基俊などがよまれて盡せり。今またよむゆゑに、かやうにうがてり。元来此歌畫讃なり。江州に村田安足といへりし人のなり。今の安国などの師なり。大堀正輔などの師なり。此の村田の六十の賀の節屏風の畫に、「志賀の山に櫻さきて人多く見にゆく」といふ題なりしなり。
此志賀の花故、山越の多をみれば逢坂はまれになるであらう、となり。然るに去秋、櫻本坊にきけば古歌にあるよしなり。村田は博学なりし人ゆゑ、気が付きさうなるものなり。又其上にほめてくれたり。さて其歌は、自撰「晩花集」にありしとなり。下河辺長流がかゝる所をよくべきにも、あるまじきなり。
「志賀山櫻さきにけり」とよむべき人もなきなり。「志賀山櫻」は無理なる詞なり。例もなきことなり。「志賀山」、「山櫻」又「志賀の山櫻」「志賀山の櫻」とはいふべけれども、「志賀山櫻」といふは無理なり。本安足にやりし時は、下句「志賀の山路の花咲きにけり」としたり。どうもうつろふの句なり。それゆゑ「志賀山櫻」としたりしなり。かくまで骨折しうたが長流と合するも如何ぞや。
○この題は、「堀河後度(百首)」に初めて出た。山越は、四季ともにおもしろい所である。「志賀山越にて雪を見て」、と「古今」にもある。おもしろい所だ。今の(時代の)ようにさびしいものではなかった。このようなおもしろい所だから「志賀山越」という題が出たのである。「堀河後度」では色々に詠んでいる。紅葉もある。多くは花だ。その後に「後京極六百番歌合」には春の部に出ている。花を詠むべき題に限って来たのである。これは第二番である。「広澤池眺望」は、秋の部に出ているようだ。これは月を愛でるのである。元来「志賀山越」の題は、貫之、俊頼、基俊などが詠まれて(この題では)(詠み)尽くしている。今また詠むためにこのように穿ったのである。元来この歌は画賛(として私が村田の絵のために作ったもの)なのだ。江州に村田安足と言った人のものである。今の安国などの師だ。大堀正輔などの師だ。この村田の六十の賀の節屏風の画(絵画)に、「志賀の山に櫻が咲いて人が多く見に行く」という題であったものだ。
この志賀の花のために山越の多い(「多」は、「さは・なる」と読むか。)人出を見れば、逢坂は(人の姿が)まれになるであろうというのである。けれども昨秋、櫻本坊に聞くと古歌に(同想の歌が)あるということだ。村田は博学であった人だから気が付きそうなものだ。又その上にほめてくれた。さてその歌は『自撰晩花集』にあったというのである。下河辺長流の、このような所を避けるべきだといって(も、何しろ)あるはずもないことなのだ。
「志賀山櫻さきにけり」と詠むような人もないのである。「志賀山櫻」は無理な詞だ。先例もないことだ。「志賀山山櫻」又「志賀の山櫻」「志賀山の櫻」とは言うことができるけれども、「志賀山櫻」と言うのは無理だ。もともと安足にやった時は、下句を「志賀の山路の花咲きにけり」としていた。どうも(花が)散る(という本意の)句である。それで「志賀山櫻」としたのであった。こうまで骨を折った歌が長流と一致するのも、どうしてかと思うよ。
※下河辺長流『自撰晩花集』の歌。「逢坂はみちゆく人もたえにけり志賀の山越はなになるより」
※※この歌は読んでみると音が楽しい。この段は、景樹の歌についての意識の持ち方を端的に知ることができるものと言えるだろう。着想は、長流の歌と景樹の歌は酷似しているが、景樹の方は新古今的な肌理の細かさが感じられる。ついでに言うと、私は長流はあまり歌がうまくないと思う。景樹のコメントにもそういう口吻が感じられる。
66 江山春興多
大井川入江のまつにふるゆきはあらしの山のさくらなりけり
一一六 おほゐ河入江の松にふる雪は嵐の山のさくらなりけり
□入江の松の葉ばかりにふる雪は、となり。興をいふなり。さてさて興多と云ふことゆゑに、櫻と霞と、梅と鶯とのやうに古来いへり。「多し」に目を付けたり。然るに景樹が心には「多し」は数々のことにてあるまじきなり。「多し」とは深き意なるべし。数々に思ひ合すとよめるは深くの意なり。かなしきことのかず限りなくといふも深くなるなり。数々目出度と俗文にある、「深く」といふことなり。「多くなりにけり」といふも同意なり。それゆゑに深き興にいひてよみたるなり。是れ景樹の心なり。「入江」、元来「江」は枝川のことなり。二つに分れたることなり。梅が枝の類なり。然るに「江」といへばまた一筋になりて行なり。「入江」といへばすつと入込んである川なり。「堀江」など難波より登る川筋にて堀(ママ)りて「江」としたるゆゑ、大堀江川なり
○入江の松の葉ばかりに降る雪は、というのである。「興」を言うのである。さてさて(題の)「興多シ」と言うことがもとになって、櫻と霞と、梅と鶯というように古来言って来た。(これらはみな)「多し」に目を付けている。けれども景樹の心には「多し」は数々のことではない方がよいのだ。「多し」とは深いの意味であろう。数々に思い合わすと詠んでいるのは、深くの意である。(たとえば)「かなしいことの数限りなく」と言うのも深くなるのだ。「数々目出たし」と一般の文に言う(「数々」も)深くということである。「多くなりにけり」というのも同じ意味である。それだから深き興に言って詠んだのである。これは景樹の心である。「入江」は、元来「江」は、枝川のことである。二つに分れたことだ。「梅が枝」の類である。それなのに「江」と言えばまた一筋になって行くのである。「入江」と言えばすっと入り込んでいる川のことだ。「堀江」など、難波から登る川筋で、掘って江としたので「大堀江川」なのだ。
※平凡な見立ての歌にみえるが、調べがいいので詩的な感興を覚えないではない。二句め四・三調のあとに「ふるゆきは」と来ると、私がただちに思い起こすのは中原中也の詩句であるが、景樹には、その種の調子づいた句がたくさんある。
67 嵐山の花見にまかりける時よめる
亀山はあらしのさくらいくそたび咲てちる世の花を見つらん
一一七 亀山はあらしのさくらいくそたび咲て散世の春を見つらん 文化十二年
※二つのテキストの結句は、「花」と「春」で明らかに異なっている。「国歌大観」は「春」。
□「亀山」、亀山法皇の陵のある処なり。今の天龍寺七(一字アキ)亭のあるところなり。亀のはうたる如き山ゆゑなり。毎々こゝに御座なされたりしゆゑ、亀山法皇なり。亀の名によりて萬年もぬるゆゑに、となり。懐旧を申すなり。勝景にあたりて懐旧するは風雅人の情なり。
「あらしのさくら」、無理なることばなり。まねはあまりせぬがよかるべし。さて三笠にある山を「三笠山」「三笠野」「三笠の櫻」といふべし。春日の山ゆゑ「春日山」「春日野」といふべし。「春日の櫻」といふべし。「比叡の櫻」は苦しからず。嵐といふ処の、山でなきゆゑ「あらしのさくら」とは無理なれども、調の上からは無理でも苦しからぬなり。弁慶の金剛杖を例にもせられぬとも、大事なきところあるなり。
「亀山」と、ど(ママ)つさりとおき、「あらしのさくら」と手かろくして、ちりのごとくあらしに散るやうによみなすなり。
○亀山は、亀山法皇の陵のある処である。今の天龍寺七(一字アキ)亭のあるところだ。亀が這ったようなかたちの山だからである。いつもいつもここに御座なされたために亀山法皇と呼ぶ。亀の名に拠って萬年も寝る故に(そう呼ぶ)ということだ。懐旧を申すのである。勝景にあたって懐旧するのは、風雅の人の情というものだ。
「あらしのさくら」は無理な言葉である。真似はあまりしない方が良いだろう。さて三笠にある山を三笠山、三笠野、三笠の櫻と言うことができる。春日の山だから春日山、春日野と言い、春日の櫻と言うのだろう。「比叡の櫻」(という言い方)は苦しくない。嵐という処の、山でないから「あらしのさくら」と言うのは無理であるけれども、調の上からは、(そうした)無理も変ではないのである。(その無理を通すのは)弁慶の金剛杖を引き合いに出さなくとも、問題ないというところがあるのである。
「亀山」と(初句を)どっさりと置き、「あらしのさくら」と手軽くして、塵のように嵐に散るように詠みなすのである。
限あればとまらぬはるの大ぞらにゆくへは見えてちるさくらかな
百十一 限りあればとまらぬ春のおほ空にゆくへは見えてちる櫻かな
□限がくれば(※「限があれば」の起こしまちがいか)、とまらぬ春になりたり。春のとまりを知る人ぞなきなり。しかし花の行方は見えるなり。東風には西へ行き、北風には南へゆくなり。
○限があるので、(古歌にも言う)立ち止まることのない春となっている。春の居場所を知る人はないものだ。しかし花の行方は、見えるのだ。東風には西へ行き、北風には南へゆくのである。
※「題しらず をしめどもとまらぬ春もあるものをいはぬにきたる夏衣かな 素性法師『新古今和歌集』一七六」。季節を擬人化する伝統的な修辞。景樹は花がさくとろころにそれが見えるではないか、という。関係ないが思い出したので一句引く。「てのひらに落花とまらぬ月夜かな」(渡辺水巴)。
62 萎花蝶飛去
この里は花ちりたりととぶ蝶のいそぐかたにも風やふくらん
一一二 このさとは花散(ちり)たりと飛(とぶ)てふのいそぐかたにも風や吹(ふく)らむ
□此今といふは、天保九年戌なり。此歌今を去る事五十年も前なり。横山直右衛門の宅にてよみしなり。山本駿州は「晴天帰雁喜」でありしなり。○元来横山の妻がうたをよむにつきて行きたりしなり。さて直右衛門は芦庵と懇意なり。妻の景樹を喜ぶを芦庵とは如何やと思ふに付きて、此日の当座題の詠を芦庵に持て行きたりしなり。然るに芦庵甚誉めたり。「此やうに揃ひてよきは五六百年もあるまじき」といはれたりとなり。此事を後に直右衛門が云へりし。
「此里は花散りたりと」蝶が飛んで急ぐが、其行方にも風が吹いて散つたであらうかぞや、となり。
芦庵の心は、景樹のが最気に入らぬなり。それゆゑ打返してよみたりしなり。直右衛門は打返して見たるをよきゆゑなりと思へども、それは芦庵にはまらぬ所あるなり。
○〈ここの講義のくだりで今というのは、天保九年戌の年のことである。〉この歌は今を去る事五十年も前のものだ。横山直右衛門の宅で詠んだものである。(同座した)山本駿州(昌敷※山本嘉将による)は、「晴天帰雁喜」であったのだった。○(ママ)もともと横山の妻が歌を詠むのに付いて行ったのだった。さて直右衛門は蘆庵と懇意だった。妻が景樹(の歌)を喜ぶのを「蘆庵とは(蘆庵の見方と比べると)どうだろうか。」と思うことについて(疑問を質すために)、この日の当座の題の詠草を蘆庵(の所)に(横山が)持って行ったのだった。ところが蘆庵はひどく誉めた。「このように揃って良い(歌)は五六百年もなかったことだろう」と言われたということだ。この事を後に直右衛門が語ったのだった。
「此里は花散りたりと」蝶が飛んで急ぐが、そっちの方にも風が吹いて(花は等しく)散っただろうかなあ、というのである。
蘆庵の(本当の)心は、景樹のが最も気に入らなかったのである。それだから繰り返して吟じたのである。直右衛門は繰り返し見たことを(歌が)良いからだと思った(ようだ)けれども、それは蘆庵(の基準に)に当てはまらない所があるからなのだ。
※山本嘉将は、「大体享和初年か寛政末年の頃のことだろう」と述べている。よく歌を知る者同士の心理のあやを見通して言っている景樹の座談は、興味深い。
63 残花少
ひとさかりありての後の世の中にのこるは花も少なかりけり
一一三 ひとさかりありてのゝちの世中に残るは花もすくなかりけり
□此歌、人間有為の世を下に踏みたり。「人有一盛生者必衰」なり。人間すべて盛衰あるなり。一盛ありての後は、その盛なりに居る事は中々少なき事なり。何の上もさうぢやが、花も少なきなり。一盛ありての後は十分なる事はなきものなりとなり。
○この歌は、人間有為の世を下に踏まえている。「人有一盛生者必衰」なり。人間すべて盛衰のあるものだ。一盛りあっての後は、その盛りなりにとどまって居る事は、中々少ない事である。どんな物事でもそうじゃが、花も少なくなるのである。一盛りあって後は、十分な事はないものである、というのである。
※「ひとさかり」という語の使用は、俗語・平語をつかうべしとする景樹の歌論にもかなう。この歌やや教訓的に読まれてしまうところはあるだろう。本人の解もそうなっている。思いついたので、「今夜ここでのひとさかり」(中原中也)。
64 人の賀に花有喜色といふことを
誰もみなうれしき色は見ゆれどもゑみほころべる花ざくらかな
一一四 たれもみなうれしき色は見ゆれどもゑみほころべる花ざくら哉 文化二年
□伊丹の人の賀なりし賀宴でよみたり。「誰もみな」、親子兄弟ともに皆々となり。其中でも、別して喜しく見ゆるは花なり。「ゑむ」は花の開くをいふ。「綻ぶ」も開くことにいへり。「ゑむ」はもと人の笑ふよりして、花におよぼすなり。「ほころべる」は、人にはかぎらぬなり。ほつとふくれ、とける事なり。衣服の類にも云ふなり。しまりしものゝやぶれ、ふくろへるをいふなり。「ゑみほころぶ」と云へば、笑の上にわらふといふことなり。大笑なり。「ゑみほころぶ」とつゞくる時は、ゑむことはつよきになるなり。花はよくよくうれしいそうな、となり。此うた、力を入れたり。飛鳥以上には「花ゑみ」といへり。花が人の如くにさくことをいひたり。藤原以下には、あまりいはぬなり。花櫻は一種の櫻也。こゝに「花さくら」といはずともよけれど、調にきかせていひたり。「山櫻」ではおちつかぬなり。「櫻花かな」でもわろきなり。「花櫻」は、一種べに色を帯びたるをいふなり。
○伊丹の人の賀だった。賀宴で詠んだ。「誰もみな」は、親子兄弟ともに皆々(が)、という意味だ。その中でも特別に喜ばしく見えるのは花だ。「笑む」は花の開くのを言う。「綻(ほころ)ぶ」も開くことに言っている。「ゑむ」はもともと人が笑うのより花に及ぼして言うのである。「ほころべる」のは、人に限らない。ぽっとふくれて解ける事だ。衣服の類にも言うのである。締まったものが破れふくらんでいる様を言うのだ。「ゑみほころぶ」と言えば、笑うのに重ねて笑うということである。大笑いだ。「ゑみほころぶ」と続ける時は、「ゑむ」事が強い状態になるのだ。花はよくよくうれしいそうだよ、というのだ。この歌は力を入れた。飛鳥(時代)以前には「花ゑみ」といった。花が人のように咲くことを言った。藤原(時代)以後には、あまり言わない。「花櫻」は一種の櫻である。ここに「花ざくら」と言わなくても良いけれども、調にき(効・利)かせて言ってある。「山櫻」では落ち着かないのだ。「櫻花かな」でもよくないのだ。「花櫻」は一種べに色を帯びた花のことをいうのである。
65 滋賀山越
逢坂のゆきかひまれになりぬらん滋(ママ)賀山ざくら花さきにけり
一一五 逢坂のゆきかひまれになりぬらむ志賀山ざくら花さきにけり
□此題は、「堀河後度」に初めていでたり。山越は四季ともにおもしろき所なり。「志(ママ)賀山越にて雪を見て」と「古今」にもあるなり。おもしろき所なり。今のごとくさびしきものではなきなり。かゝるおもしろき處ゆゑに「志賀山越」といふ題が出でたるなり。「堀河後度」にては色々によみたり。紅葉もあるなり。多くは花なり。其後に「後京極六百番歌合」には、春の部に出たり。花をよむべき題に限りきたるなり。是第二番なり。「広澤池眺望」は秋の部に出たるが如し。これ月をめづるなり。元来「志賀山越」の題は、貫之、俊頼、基俊などがよまれて盡せり。今またよむゆゑに、かやうにうがてり。元来此歌畫讃なり。江州に村田安足といへりし人のなり。今の安国などの師なり。大堀正輔などの師なり。此の村田の六十の賀の節屏風の畫に、「志賀の山に櫻さきて人多く見にゆく」といふ題なりしなり。
此志賀の花故、山越の多をみれば逢坂はまれになるであらう、となり。然るに去秋、櫻本坊にきけば古歌にあるよしなり。村田は博学なりし人ゆゑ、気が付きさうなるものなり。又其上にほめてくれたり。さて其歌は、自撰「晩花集」にありしとなり。下河辺長流がかゝる所をよくべきにも、あるまじきなり。
「志賀山櫻さきにけり」とよむべき人もなきなり。「志賀山櫻」は無理なる詞なり。例もなきことなり。「志賀山」、「山櫻」又「志賀の山櫻」「志賀山の櫻」とはいふべけれども、「志賀山櫻」といふは無理なり。本安足にやりし時は、下句「志賀の山路の花咲きにけり」としたり。どうもうつろふの句なり。それゆゑ「志賀山櫻」としたりしなり。かくまで骨折しうたが長流と合するも如何ぞや。
○この題は、「堀河後度(百首)」に初めて出た。山越は、四季ともにおもしろい所である。「志賀山越にて雪を見て」、と「古今」にもある。おもしろい所だ。今の(時代の)ようにさびしいものではなかった。このようなおもしろい所だから「志賀山越」という題が出たのである。「堀河後度」では色々に詠んでいる。紅葉もある。多くは花だ。その後に「後京極六百番歌合」には春の部に出ている。花を詠むべき題に限って来たのである。これは第二番である。「広澤池眺望」は、秋の部に出ているようだ。これは月を愛でるのである。元来「志賀山越」の題は、貫之、俊頼、基俊などが詠まれて(この題では)(詠み)尽くしている。今また詠むためにこのように穿ったのである。元来この歌は画賛(として私が村田の絵のために作ったもの)なのだ。江州に村田安足と言った人のものである。今の安国などの師だ。大堀正輔などの師だ。この村田の六十の賀の節屏風の画(絵画)に、「志賀の山に櫻が咲いて人が多く見に行く」という題であったものだ。
この志賀の花のために山越の多い(「多」は、「さは・なる」と読むか。)人出を見れば、逢坂は(人の姿が)まれになるであろうというのである。けれども昨秋、櫻本坊に聞くと古歌に(同想の歌が)あるということだ。村田は博学であった人だから気が付きそうなものだ。又その上にほめてくれた。さてその歌は『自撰晩花集』にあったというのである。下河辺長流の、このような所を避けるべきだといって(も、何しろ)あるはずもないことなのだ。
「志賀山櫻さきにけり」と詠むような人もないのである。「志賀山櫻」は無理な詞だ。先例もないことだ。「志賀山山櫻」又「志賀の山櫻」「志賀山の櫻」とは言うことができるけれども、「志賀山櫻」と言うのは無理だ。もともと安足にやった時は、下句を「志賀の山路の花咲きにけり」としていた。どうも(花が)散る(という本意の)句である。それで「志賀山櫻」としたのであった。こうまで骨を折った歌が長流と一致するのも、どうしてかと思うよ。
※下河辺長流『自撰晩花集』の歌。「逢坂はみちゆく人もたえにけり志賀の山越はなになるより」
※※この歌は読んでみると音が楽しい。この段は、景樹の歌についての意識の持ち方を端的に知ることができるものと言えるだろう。着想は、長流の歌と景樹の歌は酷似しているが、景樹の方は新古今的な肌理の細かさが感じられる。ついでに言うと、私は長流はあまり歌がうまくないと思う。景樹のコメントにもそういう口吻が感じられる。
66 江山春興多
大井川入江のまつにふるゆきはあらしの山のさくらなりけり
一一六 おほゐ河入江の松にふる雪は嵐の山のさくらなりけり
□入江の松の葉ばかりにふる雪は、となり。興をいふなり。さてさて興多と云ふことゆゑに、櫻と霞と、梅と鶯とのやうに古来いへり。「多し」に目を付けたり。然るに景樹が心には「多し」は数々のことにてあるまじきなり。「多し」とは深き意なるべし。数々に思ひ合すとよめるは深くの意なり。かなしきことのかず限りなくといふも深くなるなり。数々目出度と俗文にある、「深く」といふことなり。「多くなりにけり」といふも同意なり。それゆゑに深き興にいひてよみたるなり。是れ景樹の心なり。「入江」、元来「江」は枝川のことなり。二つに分れたることなり。梅が枝の類なり。然るに「江」といへばまた一筋になりて行なり。「入江」といへばすつと入込んである川なり。「堀江」など難波より登る川筋にて堀(ママ)りて「江」としたるゆゑ、大堀江川なり
○入江の松の葉ばかりに降る雪は、というのである。「興」を言うのである。さてさて(題の)「興多シ」と言うことがもとになって、櫻と霞と、梅と鶯というように古来言って来た。(これらはみな)「多し」に目を付けている。けれども景樹の心には「多し」は数々のことではない方がよいのだ。「多し」とは深いの意味であろう。数々に思い合わすと詠んでいるのは、深くの意である。(たとえば)「かなしいことの数限りなく」と言うのも深くなるのだ。「数々目出たし」と一般の文に言う(「数々」も)深くということである。「多くなりにけり」というのも同じ意味である。それだから深き興に言って詠んだのである。これは景樹の心である。「入江」は、元来「江」は、枝川のことである。二つに分れたことだ。「梅が枝」の類である。それなのに「江」と言えばまた一筋になって行くのである。「入江」と言えばすっと入り込んでいる川のことだ。「堀江」など、難波から登る川筋で、掘って江としたので「大堀江川」なのだ。
※平凡な見立ての歌にみえるが、調べがいいので詩的な感興を覚えないではない。二句め四・三調のあとに「ふるゆきは」と来ると、私がただちに思い起こすのは中原中也の詩句であるが、景樹には、その種の調子づいた句がたくさんある。
67 嵐山の花見にまかりける時よめる
亀山はあらしのさくらいくそたび咲てちる世の花を見つらん
一一七 亀山はあらしのさくらいくそたび咲て散世の春を見つらん 文化十二年
※二つのテキストの結句は、「花」と「春」で明らかに異なっている。「国歌大観」は「春」。
□「亀山」、亀山法皇の陵のある処なり。今の天龍寺七(一字アキ)亭のあるところなり。亀のはうたる如き山ゆゑなり。毎々こゝに御座なされたりしゆゑ、亀山法皇なり。亀の名によりて萬年もぬるゆゑに、となり。懐旧を申すなり。勝景にあたりて懐旧するは風雅人の情なり。
「あらしのさくら」、無理なることばなり。まねはあまりせぬがよかるべし。さて三笠にある山を「三笠山」「三笠野」「三笠の櫻」といふべし。春日の山ゆゑ「春日山」「春日野」といふべし。「春日の櫻」といふべし。「比叡の櫻」は苦しからず。嵐といふ処の、山でなきゆゑ「あらしのさくら」とは無理なれども、調の上からは無理でも苦しからぬなり。弁慶の金剛杖を例にもせられぬとも、大事なきところあるなり。
「亀山」と、ど(ママ)つさりとおき、「あらしのさくら」と手かろくして、ちりのごとくあらしに散るやうによみなすなり。
○亀山は、亀山法皇の陵のある処である。今の天龍寺七(一字アキ)亭のあるところだ。亀が這ったようなかたちの山だからである。いつもいつもここに御座なされたために亀山法皇と呼ぶ。亀の名に拠って萬年も寝る故に(そう呼ぶ)ということだ。懐旧を申すのである。勝景にあたって懐旧するのは、風雅の人の情というものだ。
「あらしのさくら」は無理な言葉である。真似はあまりしない方が良いだろう。さて三笠にある山を三笠山、三笠野、三笠の櫻と言うことができる。春日の山だから春日山、春日野と言い、春日の櫻と言うのだろう。「比叡の櫻」(という言い方)は苦しくない。嵐という処の、山でないから「あらしのさくら」と言うのは無理であるけれども、調の上からは、(そうした)無理も変ではないのである。(その無理を通すのは)弁慶の金剛杖を引き合いに出さなくとも、問題ないというところがあるのである。
「亀山」と(初句を)どっさりと置き、「あらしのさくら」と手軽くして、塵のように嵐に散るように詠みなすのである。