さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 61~67

2017年03月19日 | 桂園一枝講義口訳
61 暮春落花
限あればとまらぬはるの大ぞらにゆくへは見えてちるさくらかな
百十一 限りあればとまらぬ春のおほ空にゆくへは見えてちる櫻かな

□限がくれば(※「限があれば」の起こしまちがいか)、とまらぬ春になりたり。春のとまりを知る人ぞなきなり。しかし花の行方は見えるなり。東風には西へ行き、北風には南へゆくなり。

○限があるので、(古歌にも言う)立ち止まることのない春となっている。春の居場所を知る人はないものだ。しかし花の行方は、見えるのだ。東風には西へ行き、北風には南へゆくのである。

※「題しらず をしめどもとまらぬ春もあるものをいはぬにきたる夏衣かな 素性法師『新古今和歌集』一七六」。季節を擬人化する伝統的な修辞。景樹は花がさくとろころにそれが見えるではないか、という。関係ないが思い出したので一句引く。「てのひらに落花とまらぬ月夜かな」(渡辺水巴)。

62 萎花蝶飛去
この里は花ちりたりととぶ蝶のいそぐかたにも風やふくらん
一一二 このさとは花散(ちり)たりと飛(とぶ)てふのいそぐかたにも風や吹(ふく)らむ

□此今といふは、天保九年戌なり。此歌今を去る事五十年も前なり。横山直右衛門の宅にてよみしなり。山本駿州は「晴天帰雁喜」でありしなり。○元来横山の妻がうたをよむにつきて行きたりしなり。さて直右衛門は芦庵と懇意なり。妻の景樹を喜ぶを芦庵とは如何やと思ふに付きて、此日の当座題の詠を芦庵に持て行きたりしなり。然るに芦庵甚誉めたり。「此やうに揃ひてよきは五六百年もあるまじき」といはれたりとなり。此事を後に直右衛門が云へりし。
「此里は花散りたりと」蝶が飛んで急ぐが、其行方にも風が吹いて散つたであらうかぞや、となり。
芦庵の心は、景樹のが最気に入らぬなり。それゆゑ打返してよみたりしなり。直右衛門は打返して見たるをよきゆゑなりと思へども、それは芦庵にはまらぬ所あるなり。

○〈ここの講義のくだりで今というのは、天保九年戌の年のことである。〉この歌は今を去る事五十年も前のものだ。横山直右衛門の宅で詠んだものである。(同座した)山本駿州(昌敷※山本嘉将による)は、「晴天帰雁喜」であったのだった。○(ママ)もともと横山の妻が歌を詠むのに付いて行ったのだった。さて直右衛門は蘆庵と懇意だった。妻が景樹(の歌)を喜ぶのを「蘆庵とは(蘆庵の見方と比べると)どうだろうか。」と思うことについて(疑問を質すために)、この日の当座の題の詠草を蘆庵(の所)に(横山が)持って行ったのだった。ところが蘆庵はひどく誉めた。「このように揃って良い(歌)は五六百年もなかったことだろう」と言われたということだ。この事を後に直右衛門が語ったのだった。
「此里は花散りたりと」蝶が飛んで急ぐが、そっちの方にも風が吹いて(花は等しく)散っただろうかなあ、というのである。
蘆庵の(本当の)心は、景樹のが最も気に入らなかったのである。それだから繰り返して吟じたのである。直右衛門は繰り返し見たことを(歌が)良いからだと思った(ようだ)けれども、それは蘆庵(の基準に)に当てはまらない所があるからなのだ。

※山本嘉将は、「大体享和初年か寛政末年の頃のことだろう」と述べている。よく歌を知る者同士の心理のあやを見通して言っている景樹の座談は、興味深い。

63 残花少
ひとさかりありての後の世の中にのこるは花も少なかりけり
一一三 ひとさかりありてのゝちの世中に残るは花もすくなかりけり

□此歌、人間有為の世を下に踏みたり。「人有一盛生者必衰」なり。人間すべて盛衰あるなり。一盛ありての後は、その盛なりに居る事は中々少なき事なり。何の上もさうぢやが、花も少なきなり。一盛ありての後は十分なる事はなきものなりとなり。

○この歌は、人間有為の世を下に踏まえている。「人有一盛生者必衰」なり。人間すべて盛衰のあるものだ。一盛りあっての後は、その盛りなりにとどまって居る事は、中々少ない事である。どんな物事でもそうじゃが、花も少なくなるのである。一盛りあって後は、十分な事はないものである、というのである。

※「ひとさかり」という語の使用は、俗語・平語をつかうべしとする景樹の歌論にもかなう。この歌やや教訓的に読まれてしまうところはあるだろう。本人の解もそうなっている。思いついたので、「今夜ここでのひとさかり」(中原中也)。

64 人の賀に花有喜色といふことを
誰もみなうれしき色は見ゆれどもゑみほころべる花ざくらかな
一一四 たれもみなうれしき色は見ゆれどもゑみほころべる花ざくら哉 文化二年

□伊丹の人の賀なりし賀宴でよみたり。「誰もみな」、親子兄弟ともに皆々となり。其中でも、別して喜しく見ゆるは花なり。「ゑむ」は花の開くをいふ。「綻ぶ」も開くことにいへり。「ゑむ」はもと人の笑ふよりして、花におよぼすなり。「ほころべる」は、人にはかぎらぬなり。ほつとふくれ、とける事なり。衣服の類にも云ふなり。しまりしものゝやぶれ、ふくろへるをいふなり。「ゑみほころぶ」と云へば、笑の上にわらふといふことなり。大笑なり。「ゑみほころぶ」とつゞくる時は、ゑむことはつよきになるなり。花はよくよくうれしいそうな、となり。此うた、力を入れたり。飛鳥以上には「花ゑみ」といへり。花が人の如くにさくことをいひたり。藤原以下には、あまりいはぬなり。花櫻は一種の櫻也。こゝに「花さくら」といはずともよけれど、調にきかせていひたり。「山櫻」ではおちつかぬなり。「櫻花かな」でもわろきなり。「花櫻」は、一種べに色を帯びたるをいふなり。

○伊丹の人の賀だった。賀宴で詠んだ。「誰もみな」は、親子兄弟ともに皆々(が)、という意味だ。その中でも特別に喜ばしく見えるのは花だ。「笑む」は花の開くのを言う。「綻(ほころ)ぶ」も開くことに言っている。「ゑむ」はもともと人が笑うのより花に及ぼして言うのである。「ほころべる」のは、人に限らない。ぽっとふくれて解ける事だ。衣服の類にも言うのである。締まったものが破れふくらんでいる様を言うのだ。「ゑみほころぶ」と言えば、笑うのに重ねて笑うということである。大笑いだ。「ゑみほころぶ」と続ける時は、「ゑむ」事が強い状態になるのだ。花はよくよくうれしいそうだよ、というのだ。この歌は力を入れた。飛鳥(時代)以前には「花ゑみ」といった。花が人のように咲くことを言った。藤原(時代)以後には、あまり言わない。「花櫻」は一種の櫻である。ここに「花ざくら」と言わなくても良いけれども、調にき(効・利)かせて言ってある。「山櫻」では落ち着かないのだ。「櫻花かな」でもよくないのだ。「花櫻」は一種べに色を帯びた花のことをいうのである。

65 滋賀山越
逢坂のゆきかひまれになりぬらん滋(ママ)賀山ざくら花さきにけり
一一五 逢坂のゆきかひまれになりぬらむ志賀山ざくら花さきにけり

□此題は、「堀河後度」に初めていでたり。山越は四季ともにおもしろき所なり。「志(ママ)賀山越にて雪を見て」と「古今」にもあるなり。おもしろき所なり。今のごとくさびしきものではなきなり。かゝるおもしろき處ゆゑに「志賀山越」といふ題が出でたるなり。「堀河後度」にては色々によみたり。紅葉もあるなり。多くは花なり。其後に「後京極六百番歌合」には、春の部に出たり。花をよむべき題に限りきたるなり。是第二番なり。「広澤池眺望」は秋の部に出たるが如し。これ月をめづるなり。元来「志賀山越」の題は、貫之、俊頼、基俊などがよまれて盡せり。今またよむゆゑに、かやうにうがてり。元来此歌畫讃なり。江州に村田安足といへりし人のなり。今の安国などの師なり。大堀正輔などの師なり。此の村田の六十の賀の節屏風の畫に、「志賀の山に櫻さきて人多く見にゆく」といふ題なりしなり。
此志賀の花故、山越の多をみれば逢坂はまれになるであらう、となり。然るに去秋、櫻本坊にきけば古歌にあるよしなり。村田は博学なりし人ゆゑ、気が付きさうなるものなり。又其上にほめてくれたり。さて其歌は、自撰「晩花集」にありしとなり。下河辺長流がかゝる所をよくべきにも、あるまじきなり。
「志賀山櫻さきにけり」とよむべき人もなきなり。「志賀山櫻」は無理なる詞なり。例もなきことなり。「志賀山」、「山櫻」又「志賀の山櫻」「志賀山の櫻」とはいふべけれども、「志賀山櫻」といふは無理なり。本安足にやりし時は、下句「志賀の山路の花咲きにけり」としたり。どうもうつろふの句なり。それゆゑ「志賀山櫻」としたりしなり。かくまで骨折しうたが長流と合するも如何ぞや。

○この題は、「堀河後度(百首)」に初めて出た。山越は、四季ともにおもしろい所である。「志賀山越にて雪を見て」、と「古今」にもある。おもしろい所だ。今の(時代の)ようにさびしいものではなかった。このようなおもしろい所だから「志賀山越」という題が出たのである。「堀河後度」では色々に詠んでいる。紅葉もある。多くは花だ。その後に「後京極六百番歌合」には春の部に出ている。花を詠むべき題に限って来たのである。これは第二番である。「広澤池眺望」は、秋の部に出ているようだ。これは月を愛でるのである。元来「志賀山越」の題は、貫之、俊頼、基俊などが詠まれて(この題では)(詠み)尽くしている。今また詠むためにこのように穿ったのである。元来この歌は画賛(として私が村田の絵のために作ったもの)なのだ。江州に村田安足と言った人のものである。今の安国などの師だ。大堀正輔などの師だ。この村田の六十の賀の節屏風の画(絵画)に、「志賀の山に櫻が咲いて人が多く見に行く」という題であったものだ。
この志賀の花のために山越の多い(「多」は、「さは・なる」と読むか。)人出を見れば、逢坂は(人の姿が)まれになるであろうというのである。けれども昨秋、櫻本坊に聞くと古歌に(同想の歌が)あるということだ。村田は博学であった人だから気が付きそうなものだ。又その上にほめてくれた。さてその歌は『自撰晩花集』にあったというのである。下河辺長流の、このような所を避けるべきだといって(も、何しろ)あるはずもないことなのだ。
「志賀山櫻さきにけり」と詠むような人もないのである。「志賀山櫻」は無理な詞だ。先例もないことだ。「志賀山山櫻」又「志賀の山櫻」「志賀山の櫻」とは言うことができるけれども、「志賀山櫻」と言うのは無理だ。もともと安足にやった時は、下句を「志賀の山路の花咲きにけり」としていた。どうも(花が)散る(という本意の)句である。それで「志賀山櫻」としたのであった。こうまで骨を折った歌が長流と一致するのも、どうしてかと思うよ。

※下河辺長流『自撰晩花集』の歌。「逢坂はみちゆく人もたえにけり志賀の山越はなになるより」
※※この歌は読んでみると音が楽しい。この段は、景樹の歌についての意識の持ち方を端的に知ることができるものと言えるだろう。着想は、長流の歌と景樹の歌は酷似しているが、景樹の方は新古今的な肌理の細かさが感じられる。ついでに言うと、私は長流はあまり歌がうまくないと思う。景樹のコメントにもそういう口吻が感じられる。

66 江山春興多
大井川入江のまつにふるゆきはあらしの山のさくらなりけり
一一六 おほゐ河入江の松にふる雪は嵐の山のさくらなりけり

□入江の松の葉ばかりにふる雪は、となり。興をいふなり。さてさて興多と云ふことゆゑに、櫻と霞と、梅と鶯とのやうに古来いへり。「多し」に目を付けたり。然るに景樹が心には「多し」は数々のことにてあるまじきなり。「多し」とは深き意なるべし。数々に思ひ合すとよめるは深くの意なり。かなしきことのかず限りなくといふも深くなるなり。数々目出度と俗文にある、「深く」といふことなり。「多くなりにけり」といふも同意なり。それゆゑに深き興にいひてよみたるなり。是れ景樹の心なり。「入江」、元来「江」は枝川のことなり。二つに分れたることなり。梅が枝の類なり。然るに「江」といへばまた一筋になりて行なり。「入江」といへばすつと入込んである川なり。「堀江」など難波より登る川筋にて堀(ママ)りて「江」としたるゆゑ、大堀江川なり

○入江の松の葉ばかりに降る雪は、というのである。「興」を言うのである。さてさて(題の)「興多シ」と言うことがもとになって、櫻と霞と、梅と鶯というように古来言って来た。(これらはみな)「多し」に目を付けている。けれども景樹の心には「多し」は数々のことではない方がよいのだ。「多し」とは深いの意味であろう。数々に思い合わすと詠んでいるのは、深くの意である。(たとえば)「かなしいことの数限りなく」と言うのも深くなるのだ。「数々目出たし」と一般の文に言う(「数々」も)深くということである。「多くなりにけり」というのも同じ意味である。それだから深き興に言って詠んだのである。これは景樹の心である。「入江」は、元来「江」は、枝川のことである。二つに分れたことだ。「梅が枝」の類である。それなのに「江」と言えばまた一筋になって行くのである。「入江」と言えばすっと入り込んでいる川のことだ。「堀江」など、難波から登る川筋で、掘って江としたので「大堀江川」なのだ。

※平凡な見立ての歌にみえるが、調べがいいので詩的な感興を覚えないではない。二句め四・三調のあとに「ふるゆきは」と来ると、私がただちに思い起こすのは中原中也の詩句であるが、景樹には、その種の調子づいた句がたくさんある。

67 嵐山の花見にまかりける時よめる
亀山はあらしのさくらいくそたび咲てちる世の花を見つらん
一一七 亀山はあらしのさくらいくそたび咲て散世の春を見つらん 文化十二年

※二つのテキストの結句は、「花」と「春」で明らかに異なっている。「国歌大観」は「春」。

□「亀山」、亀山法皇の陵のある処なり。今の天龍寺七(一字アキ)亭のあるところなり。亀のはうたる如き山ゆゑなり。毎々こゝに御座なされたりしゆゑ、亀山法皇なり。亀の名によりて萬年もぬるゆゑに、となり。懐旧を申すなり。勝景にあたりて懐旧するは風雅人の情なり。
「あらしのさくら」、無理なることばなり。まねはあまりせぬがよかるべし。さて三笠にある山を「三笠山」「三笠野」「三笠の櫻」といふべし。春日の山ゆゑ「春日山」「春日野」といふべし。「春日の櫻」といふべし。「比叡の櫻」は苦しからず。嵐といふ処の、山でなきゆゑ「あらしのさくら」とは無理なれども、調の上からは無理でも苦しからぬなり。弁慶の金剛杖を例にもせられぬとも、大事なきところあるなり。
「亀山」と、ど(ママ)つさりとおき、「あらしのさくら」と手かろくして、ちりのごとくあらしに散るやうによみなすなり。

○亀山は、亀山法皇の陵のある処である。今の天龍寺七(一字アキ)亭のあるところだ。亀が這ったようなかたちの山だからである。いつもいつもここに御座なされたために亀山法皇と呼ぶ。亀の名に拠って萬年も寝る故に(そう呼ぶ)ということだ。懐旧を申すのである。勝景にあたって懐旧するのは、風雅の人の情というものだ。
「あらしのさくら」は無理な言葉である。真似はあまりしない方が良いだろう。さて三笠にある山を三笠山、三笠野、三笠の櫻と言うことができる。春日の山だから春日山、春日野と言い、春日の櫻と言うのだろう。「比叡の櫻」(という言い方)は苦しくない。嵐という処の、山でないから「あらしのさくら」と言うのは無理であるけれども、調の上からは、(そうした)無理も変ではないのである。(その無理を通すのは)弁慶の金剛杖を引き合いに出さなくとも、問題ないというところがあるのである。
「亀山」と(初句を)どっさりと置き、「あらしのさくら」と手軽くして、塵のように嵐に散るように詠みなすのである。

太田絢子の短歌 「50首抄」から

2017年03月19日 | 現代短歌
 「短歌往来」2017年4月号は、日本の橋の歌と、太田絢子の特集が興味深い。
足立敏彦のすぐれた「50首抄」の選歌の中から、太田絢子の歌を引きながら書いてみたい。


歪みすら美しと見つつ古き秩序破れゆく日をわれは信ずる

変節のわれにきかせる鎮魂歌あらがひて一夜眼をさましゐる

高圓山遠く来にしが一滴の泪なき眼によく霽れて見ゆ
                    『南北』

※「高圓山」に「たかまどやま」と振り仮名あり。「泪」は、なみだ。「霽れ」は「はれ」と読む。

『南北』は昭和三十九年刊。「歪み」というのは、戦前、戦後の大変動期に政治・社会・文化の各所で起きた混乱や行き過ぎなどを指す言葉だろう。「変節」というのは、思想的なものだけではなく、この歌の場合は、自分の生き方を含む広い意味で解釈した方がいいだろう。たとえば、父母の言うままに就職したり、結婚したりするつもりはなかったが、そうしてしまった、とか、そういう何か生活面の決意にかかわることを具体的なことを伏せて言ったのだ。

三首めの「一滴の泪なき眼」というのは、さんざん泣き尽くしてもう涙が残っていないという意味にもとれるが、その前にある歌をみると、涙ぐましい目で風景をみたりはしない、という強い決然たる意思を示す歌なのではないかと思う。自分の偶然の在りようを逆に必然として引き受ける、戦後の実存主義の感化なども感じさせる歌だ。

土の中より蕗のたうとりてかぎてみる愛執に遠き匂ひ放ちぬ

現代だとやや様式的な歌ということになるのかもしれないが、「蕗のたう」の香りが、日日離れることのできないわが愛執の念から遠い清らかさ、さわやかさを持っていて救われるというのは、わかるではないか。

こういう女人の歌を男性歌人が読んでいいと思って評価するという、それがいやだ、というのは、現代の鋭敏な感受性と自意識を持った女性の歌人の言う所ではあるが、この和服を着た情念のエロス表出の価値を、同性としても感ずるところはあるだろうと思うので、女性同士のそういう感情の持ち方については、作家の有吉佐和子が名作『紀ノ川』に描いた母子の葛藤を、太田家にとついだ太田絢子の人生と多少重ねてみたら、類推的により理解が深まるところがあるのかもしれない。

周囲の家族が全部歌人だから、こういう抑制した様式的なもの言いに託すわけである。そういう歌に痺れた男性読者がゆるせない、というのが、また新時代の女性歌人の思いだから、そこはぐるぐる循環してしまう。かと言って、このようにしか表現し得なかった思いを汲まなければ、作者に気の毒だ。


めぐり幾里もあらぬ小さき島に来て眠る時海は胸元の高さ

あぢさゐの玉の孤立をたしかむる紫ふかき六月の聲

わが前に置きし林檎がうつすらと埃を被るまでの日空虚か充實か 

                       『飛梅千里』

二首めの「あぢさゐの玉の孤立」も、へたに同じ「潮音」の葛原妙子の歌と比較したりするのでなくて、上に私がのべたような固有のこだわり、内面の屈折とかかわらせて読んでみたら、修辞のかたちを吟味するだけではない読みとして、作者の存念も晴れるというものであろう。

飛鳥路の石白くしてあたたかき冬陽の中のわれの夢殿

 この歌の「夢殿」は、現実の夢殿に接していながら作られたものであると同時に、まさにおのれの内世界を信ずる歌なのでもあって、やわらかく美しい調べを通して、幽暗の宗教的思念を明るい陽光のもとに引き出してみせている。太子の信仰が、時をへだてて浪漫的な追想として昇華されたかたち、そのような歌として読むことができるだろう。

彩雲をまきつつ流るる長江の秋の一日われ浮びをり
                      『雲南』
 ※「彩」に「あや」と振り仮名。


 旅の中で美的なイデーを官能的なまでに現前化して感ずる能力は、女性が強く持っているものだと思うが、「秋の一日われ浮びをり」というのは、うらやましい浮遊感だ。この高揚は、古典詩を携える旅でなければ得難いものだろう。ヨーロッパ人にとってのギリシャやイタリアが、日本人にとっては中国の故地である。

蝕甚の闇に聲して月見草一寸ほどの芽を出せる宵

 日食の日に、こんな素敵な歌が作れるのは、心の持ちようが深いからだ。こういうところに短歌にかかわる人たちの感性と思考の修練がある。情念の修行を言葉を介して日々積み重ねている。

享年八拾七と言はるるか米壽の和服匂ふをたたむ
                  『月影』

 下句のゆるやかな言い方にしみじみとした夫への思いがにじむ。
和服を着ていた時代の愛の表現と言ったらいいだろうか。

人生は花むらさきのつゆくさの咲くいちりんにも及ばざるなり
                  『桃夭』

 ここには、自身の加齢をふまえながら、山川草木悉皆成仏のなかに自らもまぎれていきたいとする日本的な感性の持つ深い謙遜があらわれている。草花を介してのべられた人生哲学。戦後のヒューマニズムを発条として開始された太田絢子の感性の旅は、ここに至って人間存在への問いかけを含むところに行きついたのだ。
 

同人誌昨今

2017年03月18日 | 現代短歌 文学 文化
近年の同人誌をめぐる環境は、数十年前をふりかえると、製作費という点では劇的に改善していると言えるだろう。私が二十代の頃、同人誌を積極的に扱ってくださる印刷屋さんがあって、そこは藤沢の友湘堂印刷所という会社だった。兄弟でやっておられて、俳句誌の「波」の発行所の看板もあって、お兄さんは作家の阿部昭の地元の幼馴染として小説のなかにも登場していた。作品に描かれているとおりの温雅な風貌の人で、一九八〇年当時もそれなりの年齢だったから、すでに物故されていることとは思うが、価格が良心的で、零細な詩歌同人誌の作者には心強い味方だった。それでもいまインターネットで発注して作るものの価格にはかなわない。

しかし、これもなかなかむずかしいところがあって、私は地元の小印刷屋を滅ぼさないようなあり方も大事だと考えている。何でも効率優先ではない、対面のやりとりをしながら作る便宜というものもある。その一方で、地元で作ることにこだわったためにデザインや企画の面で首をかしげるようなものができあがってしまっているものも時に目にするから、そこは見極めが大事である。近頃多い固い紙の表紙にタイトルが印刷されただけの冷たい印象の表紙をみると、少しがっかりする。

三、四十年ぐらい前の詩の同人誌や、高価な書肆山田などで作った冊子をみると、仕上がりは雲泥の差という気がする。若い人は手作業のペーパーを別刷りで入れるとか、カラフルな絵や写真を後からはさみこむとか、もう少し手に取った時の楽しみを考えて作ったらいいのではないかと思う。伝説の池袋西武リブロの詩歌専門コーナーに行くと、吉増剛造さんの本には、しばしば本人手作りのコラージュ作品のような断片が扉にくっついていたりして、楽しいレアな感じがあふれていた。

さて、私は「美志」という同人誌を出している。前号は瀬戸夏子の『かわいい海とかわいくない海.end』を読む」という小特集を行った。私の文章だけは、このブログにアップされたほぼそのままであるが、ほかの二人の書いた文章もあるので、そちらを見たい人は詩歌文学館に一冊あるはず。

今度の号は、井上法子の歌集『永遠でないほうの火』を読むという特集で、四人の筆者が執筆している。これまでは、少部数しか作っていなかったので、知人や限られた詩歌人の手に渡ったらそれでおしまい、ということだったのだけれども、「ぜひ売りたい」とおっしゃってくれる所が出てきたので、今度の号は何部かをそこに託す予定である。 ※四月末になるようです。


朔太郎の「老年と人生」

2017年03月17日 | 
萩原朔太郎の『猫町 他十七篇』というのが岩波文庫に入っていて、そのなかに「老年と人生」という随筆が収録されている。詩人は若い頃を回顧して、次のようなことを書いている。

「僕の過去を顧みても、若い時の記憶の中に、真に楽しかったことと思ったことは殆どない。学生時代には不断の試験地獄に苦しめられ、慢性的の神経衰弱にかかっていたし、親父には絶えず怒られて叱責され、親戚の年上者からは監督され、教師には鞭撻され、精神的にも行動的にも、自由というものが全く許されてなかった。何よりも苦しいことは、性慾ばかりが旺盛になって、明けても暮れても、セクスの観念以外に何物も考えられないほど、烈しい情火に反転悶々することだった。(略)その上僕の時代の学生や若者は、疑似恋愛をするような女友達もなく、良家の娘と口を利くようなチャンスは殆どなかった。」

 戦前の若者の置かれていた場所というのは、ここに書かれているようなものだったので、特に男女関係にかかわる場面での彼我の格差は歴然たるものだったわけだから、戦後に生れ育った人間は、口が腐っても戦前が懐かしいなどと言えるようなものではない。特に女性の権利の低さは無慚としか言いようのないものだった。さらに、軍隊のなかに放り込まれた下級兵士が受けた言後に絶する暴力は、教育勅語のなかの「汝臣民」という言葉の意味を痛烈に反問させる性質のものだった。

 話を朔太郎の文章に戻そうと思ったが、例によって結論の早い朔太郎節だから、書く前に話の接ぎ穂をなくしてしまっているのだが、すでに書き出してしまったので続けて引いてみる。

「五十歳なんて年は、昔は考えるだけでも恐ろしく、身の毛がよだつほど厭らしかった。」

 現代の五十歳と戦前の五十歳では、年齢についての感覚が異なる。現代人が老いても若々しく見えるようになったのは、栄養や労働に関する環境がよくなったせいである。昔の農民は日々激しい労働にあけくれたために五十歳ぐらいになると働き疲れて死んでしまったのである。武士や町人階級の者も、下の身分の者はほぼ慢性的に栄養失調だったから、いかに健康によい和食の生活を送っていたとしても蛋白質の摂取量が絶対的に不足していただろうから、長生はむずかしかったのだ。

 話は飛躍するが、思想や哲学、それから美術や「芸術」作品をその背景となっていたものから切り離して、それだけ取り出して読んだり鑑賞したりすることは、けっして無意味ではないし、第一それ以外のことはなかなかできるものではないが、そこのところをまるで考えないで何か言ったりしたりしてみても、あまり意味がないかもしれない。近現代の社会に関することでは、「思想」や「作品」をその発生現場にまで戻して、現在と比較しながら吟味することには、批評的な意味があるし、これが欠落していると、どうしても滑稽に見えることになる。

 そこのところをわかるように提示してみせるのが、ものを読んだり考えたりする者の責務だろう。思想と宗教の違いはそこにある。そうしてその宗教にしても、ただお経をとなえたり有難い言葉を暗誦したりするような単純なものではなくて、深い緻密な思考と両立できるものだということを、高田博厚や森有正のように西欧、特にフランスの芸術・思想にあこがれた昭和の知識人たちは真剣に受けとめていたと思うのだが、へたに先進国意識に染まってしまった現代の日本人には、自分の日常的な思考の範疇から外れるものへの懼(おそ)れが不足している。朔太郎の詩にあるような、「フランスに行きたし」と思っても、あまりにも遠い「フランス」は、理念的な憧憬が託された場所だった。それぐらいに、戦前は自由がない社会だった。

 朔太郎の散文を読むと、すでに滅んだ「芸術家」意識にぶつかってほほえましいのであるが、朔太郎は市民という者がスノッブであることへの恥じらいを取り戻させてくれるところがあるので、そこは今でも十分読める。朔太郎を青臭くて読めないと言った日夏耿之介のような貴族主義の立場もあるが、そういう人は別に読まなければいい。そもそも朔太郎は詩人なのだから、やはり詩の方を先に読むべきだ。

ついでに思い出したので書いておくと、藤沢駅の南口二階舗道に設置されている高田博厚の彫刻の頬のところに黒い汚れがついていて、いつもみるたびに痛ましい思いがしてならない。これは何とかならないものだろうか。

付記。藤沢駅北口にも高田博厚の彫刻があったのだが、改装工事が終わったら、何と撤去されてしまっていた。どこに行ったのだろう? (2020年.4月記)

 

河邑厚徳監督『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ“』のこと

2017年03月14日 | 映画
 私はこのブログには、自分があまりくわしくないことや、どちらかというと苦手なことはなるたけ書かないようにしたいと思っている。
 でも、この映画のことは、語らずにはいられない。これを観ると、料理によって生きものの命をいただいて生きることは、命がともに生きるということなのだということがわかる。
 さらにまた、「最先端」とか「新しい」とか、常々言っている自分の言葉が、ばかばかしくなる。

 世界は常に新しく、そしてまた古い。映画の中には、いのちのスープの伝授をうける人々や、生産者だけではなく、日本全国の土を集めてそれを展示してみせた陶芸家が出て来る。その多様な色合いを持つ土を前にして、辰巳さんはぐーっとそこに顔を近づける。自然のままなのに、何て多様な色を持っていることでしょう。そうして、この土からは、その土の持っている気のようなものが伝わってくるわね。

 しいたけ農家の人が出て来る。愛情をこめて養った土から生え出て来た原木を使って、おいしいシイタケはできるのです。

 「けんちん汁というのは、冬を迎えるために、根菜類の持つ力をいただいて、体の準備をするためのものなのね。…へらによってね、野菜類がまごつかないようなへら使いをしなきゃならない。野菜がいやがるような、へら使いはしないことです。いい?あっちがまざったら、こっちが来るだろうなって、そういう予感をもって混ぜてもらいたいもんだと、野菜は思っているとおもうのね。それはね、私が子供の頃にお風呂で母に体を洗ってもらった、その記憶なのね。…」

 幼年の頃の触覚的な記憶が、自分の現在の指先の感覚とつながっているという、この場面の語りは、人間の愛というものの伝えられてゆくかたちを見事に表現しているように思われる。

 梅干しを漬ける場面があるが、紫蘇の汁にひたったひとつひとつの梅干しが天日と夜風に当てられるために箕の上に並べられてゆく時の、さまざまな「あか」色の発色する際立った美しさは、この映画の映像のもつ贅沢なよろこびである。

 もし自分が今していることに絶望したり、将来を悲観したりしている方がおられたら、ぜひこの映画をみてほしい。きっと、ゆっくりしずかに、生きるちからが自分の中に湧きあがって来るのを感ずるのではないかと思う。観終わってから、というのはうそで、見ている最中から、涙がとまらないのであるが、こう書くとたいてい逆効果なことはわかっているが、まあ本当にそうなのだ。

 私は自分の職場で辰巳さんの「いのちのスープ」の実践についての新聞記事を必ず医療・看護系や、栄養学系を志望する学生には読ませることにしていたが、来年からは自分の担当する全員に読ませることにしたいとあらためて思った。どうしてそれをして来なかったのだろう…。

 いつだったか、國學院大學のある先生が、自分の教えている学生たちが三十代でがんになつたりすることがあまりにも多いので、やっぱり発酵食品が大事だと考えて、その先生の専門は哲学や文学なのであるが、最近は授業で梅干しを漬けるということをやっている、と話しておられた。私はその話を聞いてから自分も糠漬けを漬けることをはじめた。関連して松生恒夫の『老いない腸をつくる』(平凡社新書)という本があるが、ただの健康増進本ではなく大事な知見を得られる。食べ物についての知識は、生き方の技術だと言ってもいいだろう。

 震災関連の番組のせいかしらないが、大波の海辺から避難する夢をみてしまった。その夢の後半は、なぜか逃げてきたあとで、小高い砂浜にすわって子供たちと貝の足輪をつくるしあわせな場面に転換していた。だいたい私は悪夢をみることがおおいのだけれども、これが夢の場の磁力というものであると、今朝のように感じさせられる場合もある。というわけで、昨日書いたつまらない文章をいま書き直し終えた。

 

『桂園一枝講義』口訳 54~60

2017年03月11日 | 桂園一枝講義口訳
54 花交松
のどかなる嵐のやまを見わたせば花こそ松のさかりなりけれ
一〇四 のどかなる嵐の山を見わたせば花こそ松のさかりなりけれ 文化十五年

□松には花もなく、いつを盛、いつをうつろひともいはれず常磐なり。然るに其盛を考へれば、やはり花の時が盛なりとなり。
のどかなる山風がふく嵐山なり。「花こそ松の盛」といふなり。松に花がさきたるやうなものぢやとなり。
○松には花もなく、いつを盛り、いつを移ろうたとも言われない常磐(ときわ)なるものだ。そうであるけれども、その盛りを考えると、やはり花の時が盛りであるというのである。
のどかな山風がふく嵐山だ。「花こそ松の盛り」だと言うのである。松に花が咲いたようなものじゃ、と言うのである。

55 花有開落
訪ふ人もなき山かげのさくら花ひとりさきてやひとりちるらん
一〇五 とふひともなき山かげのさくら花ひとり咲てやひとりちるらむ 文化四年

□此歌はよみそこなひなりと思ふなり。後に思ひ付きたり。花の中に或は開いたもあり、落つるもありといふことなるべし。此うたの「よみたて」では、咲散があるとなり。「古今」に「山高み人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我みはやさん」。此歌「山家花」といふ題にしておきてもよかりしなり。

○この歌は、詠みそこないであると思うのである。後になって(そのように)思ひ付いた。花の中にあるいは開いたものもあり、散り落ちるものもあるということであろう。この歌の「よみたて」では、咲いて散るものがあるというのだ。「古今集」に「山高み人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我みはやさん」(という歌がある。)この歌は「山家花」という題にしておいても良かった。

※「山高み」の歌、「古今集」50、読人不知。

56 落花
見る人のこゝろにあかぬさくら花ちるよりこそはうらみそめつれ
一〇六 みな人のこゝろにあかぬさくらばなちるよりこそはうらみ初つれ 寛政十二年詠草

□賞翫此上もなきなり。其「うら」が来て恨むるは、散るといふ事を恨むるゆゑにぢやとなり。
あたら物に恨みそむる事ができるとなり。それを深くいふ時は、あまり賞する「うら」が来るとなり。

○(花を)賞翫(すること)この上もないのだ。その「うら(逆)」が来て恨むというのは、散るという事を恨みに思う故にじゃ、というのである。
惜しんで物に「恨み初むる(未練を感じる)」事が出来るというのである。それを深く言う時は、ひどく賞する(あまりにその)「逆」(の思い)が来るというのである。
※ 初句「国歌大観」では「みな人」。「みる」は本書の起こし間違いか誤植か。結句は「初めつれ」と、送り仮名の表記が異なっている。読みは「そめつれ」でよい。なお、「恨-むる」は上二段活用で景樹の言葉づかいは文法的に正調。一方で54の講義筆記「考-へれば」など、「考-ふれば」ではなくなっている。「うらが来て」というような言い方、くだけ過ぎていて慣れないと意味がわからない。

57 夕落花
こずゑふく風もゆふべはのどかにてかぞふるばかりちる桜かな
一〇七 梢ふく風もゆふべはのどかにてかぞふるばかりちるさくらかな 

□「かぞふる計り」、ちらちらとのどかなる事をいふなり。北野でよみたる実景の歌なり。江戸よりも難じたり。「る」はいらぬなり。雪ならば「消ゆばかり」といふべきが格なり。「数ふるばかり」とは、ゆかぬ格なり。そこで、景樹は歌はよくよめども「てには」を知らぬ、といふなり。是黒人論なり。されども素人聞てよきが即生きてをるなり。格に拘りてをるではなきなり。「ばかり」で受けたると、「と(傍線)」と受くるとは、「る(傍線)」といふべからず、といふが格なれども、それに拘はる事ではなきなり。省かると隠れるとがまぎらはしきなり。「数ふばかり」といふは、有るのが隠れたるなり。省くではなきなり。「と(傍線)」でいへば、「数ふるとすれど」くると思ひし。「たちつてと」はつつこむ詞なり。「と(傍線)」といふこゑで「る(傍線)」の字がつつこまれて隠れるなり。たとへば鞠をとがりある臺の上にのせたるが如し。つつこむゆゑ隠れるなり。省きたるではなきなり。「ばかり」も同格なり。「は(傍線)」の声では、ぢきこま(困)れるなり。道に「有隠顕無断続」といふが如し。今「かぞふるばかり」というて隠れぬは如何ぞや、隠れぬやうにそろりと載せるなり。そこでのどかなり。「数ふばかりに」といへば詞がいそがはしきに景色が隠れるなり。それゆゑそろりと使ふなり。然らばいつでも「る(傍線)」を出すかといへばさにはあらず。引き込む時はひつこむなり。たとへば三保の松原を神主が切つてしまふ事があるまいものでもなし。
「神もさぞかなしと見るらん。松原をかぞふばかりになしてける哉」、かやうの時には「る」はいらぬなり。

○「かぞふる計り」は、ちらちらとのどかな事を言うのである。北野で詠んだ実景の歌だ。江戸(の歌人達)からも批難の言葉を言ってきた。「る」は要らない、雪ならば「消ゆばかり」と言うべきであるのが歌格だ(と)。「数ふるばかり」とは、通らない格だ。そこで、景樹は歌はよく詠むけれども「てには」を知らないのだ、と言うのである。これは玄人論だ。けれども、素人が聞いていいと思う(言葉の斡旋)が、つまりは生きているということなのだ。格にこだわっている(ばかりがよい)のではないのだ。「ばかり」で受けた時と、「と」と受けた時とは、「る」と言うべきではない、というのが歌格であるけれども、それにこだわる事ではないのである。(こういう例は)省かれる時と隠れる時とが、まぎらわしいのだ。「数ふばかり」と言うのは、有るのが隠れたのである。省いているのではないのだ。(ここを)「と」で言うと(下句は)「数ふるとすれど暮ると思ひし」(という斡旋になる)。「たちつてと」は、突っ込む詞だ。「と」と言う声で「る」の字が突っ込まれて隠れるのだ。たとえば鞠を尖りのある台の上に載せたようなものだ。突っ込むから隠れるのである。省いたのではない。「ばかり」も同(様の)格である。「は」の声では(直)すぐに困るのである。道に「有隠顕無断続」と言うようなものだ。今「かぞふるばかり」と言って隠れないのはどうしてなのか。隠れないようにそろりと載せるのだ。そこでのどかな(感じを出す)のだ。「数ふばかり」にと言えば詞が忙わしいので景色が隠れてしまう。だからそろりと使うのだ。それならばいつでも「る」を出すかと言うと、そうではない。引っ込む時は、引っ込むのだ。たとえば三保の松原を神主が切ってしまう(というような)事がないものでもない。(その時は)
「神もさぞかなしと見るらん松原をかぞふばかりになしてける哉」。こういうような時は、「る」は要らないのだ。

※有隠顕無断続。隠顕有つて断続無し。伊藤仁齋『童子問』巻下・二十九。ここは重要なところで、伊藤仁斎がどのように読まれていたかという事の重要な証言となる。

※この段「格」という事を言い出して、なかなか難物である。当時の歌学と国語学のレベルに私は通暁しているわけではないが、一応以上のように解釈してみた。現代の古典文法の教科書では、活用語の連体形に「ばかり」が付くときは、限定の意味、終止形に付く時は、およその程度をあらわす、と説明されている(第一学習社『完全マスター古典文法』)。旺文社の古語辞典では、上の使い分けについては、「~となることが多い」と言って厳密に使い分けるわけではないという説明をしている。このあたりが一般的な知識であろう。しかし、景樹の説ではそこは違うと言う。

58 落花浮水
つひにかくさそふは水のこゝろとも知でや花のうつりそめけん
一〇八 終にかくさそふは水のこゝろともしらでや花のうつりそめけむ

□此うた、北野紙屋川の花見に行きて一宿してよめりし歌なり。「紙屋川の花を見て」といふもことごとしきゆゑに題詠にしてしまひしなり。
平日ある世態を花によそへてよみしなり。たゝ影をのみ移すつもりであつたであらうのに、どつと持つていつてしまうとは、花は知らずにやありけんと也。

○この歌は、北野紙屋川の花見に行って、一宿して詠んだ歌である。「紙屋川の花を見て」と言うのも事々しいので題詠にしてしまったのである。
ふだん見かける世態を花になぞらえて詠んだのである。(花の方は)ただ影だけを水に映すつもりであったであろうのに、(散りこぼれたものを)どっと持っていって(水に持っていかれて)しまうとは、花は知らないでいたのだろうか、というのである。

59 池上落花
池水のそこにうつろふかげの上にちりてかさなる山ざくらかな
一〇九 池水の底にうつろふ影のうへにちりてかさなる山ざくらかな 文化二年

□是本、赤山に参りし時よみたりしなり。楽などを催してあそびし時の歌なり。題にしてよきは題にしてしまひしなり。

○これはもともと赤山に参詣した時に詠んだのだ。音楽などを演奏して遊んだ時の歌である。題詠の扱いにしてよいものは、題にしてしまったのである。

※赤山は赤山禅院で、比叡山延暦寺の別院だろう。紅葉の名所として知られる。

60 花落客稀
花ちればふたゝび訪はぬ世の人をこゝろありともおもひけるかな
一一〇 花ちればふたゝび訪はぬ世の人をこゝろありともおもひけるかな

□花の頃しばしば訪ひたる人を風雅な情ある人と思ひしが、花がちるいなや再訪はぬなり。
○花の頃しはしば(こちらを)訪ねて来た人を風雅な情のある人と思っていたが、花が散るやいなや再びは訪問しない(という)のである。

※「ちるいなや」は「ちるやいなや」の脱字だろう。この「春歌」あたりの景樹の作品の古歌を踏まえた優雅で上品な味を素直にたのしむ気持があると、仮名文字への感度も増して来る。国文学をやる学生さんは、退屈だといって評判がわるい宣長の歌なども景樹で事前に感性の馴らしをかけておくと、微細に読む下準備ができていいのではないか。「古今」声調を唱える流派の頂点から見おろせる便宜がある。ただし景樹には川田順が戦時中の著書で示唆したように「万葉」-「玉葉」から学んだものが入っているから、注意を要する。それもあって風巻景次郎の言う叙景歌の良さもわかるようになるし、調べの良さもわかるようになる。しかも「万葉」の雄々しい声調も所々にしっかり入っている。景樹について子規と茂吉を参照するとまちがう、ということは拙著でのべた。

『桂園一枝講義』口訳 49~53

2017年03月07日 | 桂園一枝講義口訳
※ 39-48番のカテゴリーが「和歌」になっていたので直した。

49  古郷花
ともに見し人も今はなしふるさとの花のさかりにたれをさそはん

九九 ともに見し人も今はなし故郷の花のさかりに誰(たれ)をさそはむ 文化四年 イザ行テワガ故郷ノ花見ントサソハン人モイマハ無キ哉

□こゝは住みすてたるなり。
此歌たとへば奈良の都より今の京に移りたる人、故郷の事故、春毎に花を見に行くに、人をさそひて行く。又故郷にのこりてゐる人もあるなり。「古今」に「駒なべていざ見にゆかん古都は」云々。

○ここは住み捨てたのである。
この歌はたとえば奈良の都より今の京に移った人が、故郷の事だから春ごとに花を見に行くのに人をさそって行く。又故郷に残っている人もあるのだ。「古今」に「駒なべていざ見にゆかん古都は」云々(とある)。

※「駒なめていざ見にゆかむふるさとは雪とのみこそ花はちるらめ」「古今集」百十一、よみ人知らず。

※平凡な題詠だが、上句には実感的なものも入っている。正宗敦夫注の文化四年の下案は、スケッチというところか。こういう元の歌の作り直しが『桂園一枝』には多くみられる。現代歌人では河野愛子がそうだったと、故稲葉峯子がおっしゃっていた。ものを作るような人は、このことを参考にしたらいいだろう。 

50  故園花自発
いにしへは大みや人にまたれてもさきけんものか志賀の花ぞの

一〇〇 いにしへは大宮人にまたれてもさきけむものか志賀の花園 文化三年 四句目  さきニシモノヲ

□志賀、天智帝の都なり。
「園」は草木を植ゑおく所なり。日本では「その」なり。
たとへば花畑なり。後園などいふ。「故園花自発」も見る人なしに独開くなり。さて句題は詩のもとの前後にはかまはず。たとへば「台頭有酒」といふこと、「朗詠」には花なり。この「一枝」には月によみなせり。いかやうでもよきなり。うてなに酒あることをいへばよきなり。
「待たれても」は置字なり。またれてさてもといふ程の事なり。
よみたては「さきけるものを」とよみたりしが、此「一枝」に入るゝ時「さきけんものか」にしたり。口調も心もかなふなり。

○志賀は、天智の帝の都だ。「園」は、草木を植えおく所だ。日本では「その」のことだ。
たとえば花畑だ。「後園」などと言う。「故園花自発(園の花自ずから発く)」というのは、見る人なしに独りで開くのである。さて句題は、詩のもとの前後にはかまわず、たとえば「台頭有酒」といふことも、「和漢朗詠集」では花だ。この「一枝」には月に詠みなしている。どのようでもよいのである。うてなに酒のあることを言えばよいのである。
「待たれても」は、置字である。「またれて、さても」という程の事である。
詠みたては、「咲きけるものを」と詠んだのだった。この「一枝」に入れる時「咲きけんものか」にしたのだった。口調も心も適っているのだ。

※『和漢朗詠集』「春」66に「台頭に酒有り 鶯客を呼ばふ 水面に塵無くして風池を洗ふ」とある。
 
51  関花
あふさかの関の杉むらしげゝれど木間よりちる山ざくらかな

一〇一 あふ坂の関の杉むらしげゝれど木間(このま)よりちる山ざくらかな 文化三年

□此歌、此前後にてはよき歌なり。
しげき杉間なれども、桜がちらりちらりと散る故に桜がある事が知らるゝなり。

○この歌はこの前後ではよい歌だ。
密生した杉の間だけれども、桜がちらりちらりと散るので桜がある事が知られるのである。

※「木の間」の歌の関連で触れると、近刊の島田修三著『古歌そぞろ歩き』のなかで、永福門院の「いりあひのこゑする山のかげ暮れて花の木(こ)のまに月いでにけり」が取り上げられている(同書21ページ)。景樹には「玉葉」の影響がかなりある。これを近代ではじめて指摘したのは川田順であることも含めて、私はあらためてこのことを取り上げておきたい。 ※拙著『香川景樹と近代歌人』参照。

52 社頭花
散らずともぬさならましを神がきの三室の花にやまかぜぞふく

一〇二 ちらずともぬさならましを神垣のみむろのはなに山かぜぞふく 

□「ぬさ」今ははやらぬなり。古はやりて、今はやらざるなり。古は郡県で天下を治めたり。封建になりしは御当代なり。専郡県で天下を治めしは、日本の古き所なり。都より諸国へ治めに遣はさるゝなり。今は御代官のやうなものなり。其年限の三年、四年にて交代せしなり。貫之土佐に行かれしは、あしかけ五年なり。又重任のことあり。手柄なる事なり。かくのごとく守ては交代するなり。今は大名が一国一城のやうになりたるなり。さて昔の郡県の時は三、四年ぶりに守がかはるなり。その小役人亟(※極の右側の活字)助などは、一年半年にもかはるなり。いよいよ小役人になりては、年中旅住居をするなり。それゆゑ一向治りかげんがちがふなり。畢竟軍がなき計にて道中は甚物そうなり。そこで道の神を専祈る事なり。さいの神なり。それにぬさを奉るなり。かならず山道が大事なり。ゆゑに山には必神があるなり。これを手向の神といふなり。「手向」とは何なりとも神に奉るなり。それゆゑに「峠」は「手向」の事なり。手向の神ある處といふ事を、「手向」となりたるなり。「手向」はいひにくき故「たうげ」といふなり。さて手向山は奈良の手向山、最往来しげきなり。それ故山の名となりたるなり。又端ものなり。て歴々の人は「たゝみぬさ」といふなり。又中分の人はきれを上るなり。下々の人は「きりのぬさ」とてちさくきりて上るなり。それよりして「きりぬさ」がはやる故に「ぬさ」といふものは散らすものゝやうに転じたるなり。此きりぬさが絹布類をやめて又紙にしたり。古は餞別にぬさ袋をおくる事もあるなり。
此歌は山風が心得たがひして、不案内に散らさねばならぬやうに思ふかいとなり。「ましを」、「ましものを」、なり。「神垣の三室」、どこの神垣でもいふべきなれども大和のが名高きゆゑに三室山。
「垣」はかぎりなり。玉垣をかこひて神の三室があるなり。大和の三室山は、大汝の神なり。三室の内では第一なり。それゆゑに三室山といひたり。

○「ぬさ」は今は流行らない。昔流行って、今流行らないのである。昔は郡県で天下を治めていた。封建(の世)になったのは御当代のことである。専ら郡県で天下を治めたのは、日本の古い所だ。都から諸国へ治めに(役人が)遣わされるのである。今だと御代官のやうなものである。その年限の三年、四年で交代したのだ。貫之が土佐に行かれたのは、足かけ五年だ。また、重任ということがある。(これは)手柄な事である。このようにして守っては交代するのだ。今は大名が一国一城のやうになった。さて昔の郡県の時は三、四年ぶりに守が替わるのだ。その小役人の亟(※極の右側の活字)助などは、一年、半年の間にも替わるのである。いよいよ小役人になると、年中旅住居をするのである。それだから一向治まり加減が違うのである。つまるところ軍備がないばかりに道中はたいそう物騒なのだ。そこで道の神を専ら祈る事(となる)のだ。賽の神である。それにぬさを奉るのである。必ず山道が大事だ。だから山には必ず神があるのだ。これを手向の神と言うのだ。「手向」とは、何なりとも神に奉ることである。それだから「峠(たうげ)」は、「手向(たむけ)」の事である。手向の神がある処、という事を「手向」となったのである。「手向」は言いにくいので「たうげ」と言うのだ。さて、手向山は奈良の手向山(のことで)、最も往来が頻繁である。それ故に山の名となったのである。(それからこれは)また、端もの(※布の切れ端の意)(のこと)だ。「て」(※「卿」のくずし字か。)歴々の人は「たゝみ幣(ぬさ)」というのだ。又中ぐらいの身分の人は「きれ」を献上するのだ。下々の者は「切りのぬさ」といって小さく切って献上するのだ。そういうことから「切りぬさ」がはやるために「ぬさ」といふものは、散らすもののように転じたのである。この切りぬさが、絹布類をやめて、又紙にした。古代には餞別にぬさ袋をおくる事もあったのだ。この歌は、山風が心得ちがいして不案内に散らさねばならぬように思うかい、と言うのである。「ましを」は、「ましものを」(という意味)だ。
「神垣の三室」は、どこの神垣でもいうべきであるけれども、大和のが名高いので三室山(とここではいった)。
「垣」は「かぎり」だ。玉垣を囲って神の三室があるのだ。大和の三室山は、大汝の神である。三室の内では第一(の神)である。それゆえに三室山といった。

53 河上花
大井川かへらぬ水にかげ見えて今年もさける山ざくらかな

一〇三 大偃河(おおゐがは)かへらぬ水に影見えてことしもさける山ざくらかな

□此歌は解きにくき歌なり。強ひていはんに、水は行くなりに行くなり。返らぬものなり。時に其水にやはりうつりてあるなり。昔の花がうつるではなきなり。「返らぬ水に影見えて」、返つたやうに見ゆるが風景なり。今も昔に見ゆるなつかしみなり。感情自然にあるなり。

○この歌は解説がむずかしい歌である。強いて言うと、水は行くなりに行くのである。返らないものである。(その)時にその水にそのまま(花影が)映っているのである。昔の花影が映るというのではないのだ。「返らない水に(花)影が見えて」、(つまり)返ったように見えるのが風景というものだ。「今」も「昔」に見えるなつかしみである。感情自然(じねん)に、(つまり、おのずからそのように)あるのである。

※景樹畢生の名歌のひとつ。今日の目で見て一番人の心に伝わりやすそうな歌が、本人に言わせると「解きにく」いというのは、おもしろいことだ。江戸時代の一般読者のレベル(もとめる「解」のイメージ)というものもあるかもしれない。

山本容朗『新宿交遊学』

2017年03月07日 | 暮らし
 私はこの本を例によって、古書店の外気に吹き晒しの棚の中から拾い出して百円で買った。何かゴールデン街の思い出話のようなものが書かれている本かと思ったら、とんでもない。すばらしい文学研究の資料となる内容を持つ本だ。それだけではない。私は編集者やディレクター、それから各種の創作で食べていこうと思う若い人には、ぜひこの本を読んでもらいたいと思う。

特に「菊池寛の人材鑑別法」という文章は秀逸である。菊池寛だったら、大学生にリクルート・ルックで説明会に来いなんてことは決していわないだろう。
早くあれをやめないと、日本の文化の価値が世界に認められない。あれは、この頃はみんなでばかにしているが、北朝鮮の全体主義と何ら変わりがないものだ。オリンピックの時期も大学生はあの格好で街を歩き回るのだろうか。リクルート・ルックは日本文化の同化圧力の強さの象徴的なメッセージである。東京都あたりでぜひ率先してこの習慣を変えてもらいたい。

ついでに今度の東京オリンピックで外国人観光客がゴールデン街にも大量にやって来るのはまちがいない。何かダウンタウンのようなムードを持っている場所だから、大勢人が集うのはいいが、トラブルも増えるだろう。各国語の地図を置いたり、安全な協賛店を選定したり、通訳サービスを何箇所かに常駐させたりして、安全に酒が飲める街を世界にアピールすることができれば、リピーターも増えてオリンピックの後も街が活性化するのではないだろうか。
 



加藤治郎選歌欄の成熟 毎日歌壇賞の2016年最優秀賞

2017年03月05日 | 現代短歌 文学 文化
 毎日歌壇賞の2016年最優秀賞が発表された。「毎日歌壇」の四人の撰者が、それぞれ自分の選歌欄で一首を推薦するものである。

炎上なう。炎上わず炎上うぃる 炎が上がる腫れた指から
  東京 川谷ふじの

「なう」は、英語の「now」の仮名表記だが、旧仮名だと「No」とも読めるし、「のう」は「寒いのはいやじゃのう」の詠嘆的な呼びかけの「のう」のようにもとれる。「わず」は「was」で過去、「うぃる」は「will」で未来。そうして、この歌は岡井隆の「しゅわはらむ」という造語が出てくる歌のことを思い起こさせる。相当に現代短歌に通じていないと作れない技巧を駆使した作品である。

何十年ものあいだ新聞歌壇というと、生活詠や境涯詠が中心を占めるイメージが確立して来たが、加藤選歌欄は当初からそこに言語による詩的な実験作を期待し、それを積極的に支援する姿勢を明確にして来た。あまりいい作品が集まっていなくて、何だこの詩のできそこないみいなものは、と顔をしかめさせる作品も多かったのだが、ここまで来ると、その試みも無駄ではなかったのだという事がわかる。平板な写生による生活詠・境涯詠の牙城に突撃を敢行してその一角を取り壊すことに成功したのである。

2月14日(火)の加藤選歌欄を見てみよう。

県詩人会の新人として生きてきて、バーッと噴火を起こしてしまう
      直方市 大石聡美

そうすると、この作者は詩人なのか。「噴火を起こして」、たぶん頭にきて、毎日歌壇にやってきてしまった。「新人」というのは、ちやほやされつつ下働きも求められる、という役どころだろうか。いつまでも「新人」なんていわれたくはないわ、という所。


ららららと雪ふる朝の国じゅうに苦痛にうめく俺がいるのか
      福島市  岩倉文也

雪は楽しそうに降っているけれど、故郷に帰れない被災者もいる。安い給料で苦しんで生活している、俺みたいなやつが国中にいる、というのだ。「俺」は一人ではない広がりを持つ。

何重も鍵がかかったロッカーよ わたしはわたしがまだわからない
      名古屋市 岩田あを

自分探しなんていう聞いたふうな言葉が流行した時期があった。そんな甘いものではない。「自分」が頑固な謎にしかみえないぐらいに、作者は自分のやらかすことに途方に暮れている。どうして、わたしって、こんなことをしてしまうのだろう。

一日の終りの「。」のように塗る薔薇の香りのハンドクリーム
      平塚市 風花 雫

薔薇の香りがいい。短歌のつぼをわきまえていると思わせる。自愛の時間。

予備校にまた通いだす日々からはスウスウスウスウ雪の匂いする
      横浜市 水野真由美

 発生器の酸素の気配。若者の声だ。いいなあ。若いって。


島田修三『古歌そぞろ歩き』

2017年03月04日 | 和歌
 近代以降ずっと評判がいい『万葉集』や、誰もが名前を知っている「古今」「新古今」は別として、それ以外の和歌集を読もうとすると、和歌にさほど同情のない読者は、始めのうちは類歌の洪水にとまどうのではないかと思う。どの歌も同じようにしか見えなくてつまらないと感じたり、既視感が強すぎてどう楽しんだらいいのかわからなかったりするのである。これは、私自身がそういう経験をして来たから書いている。

そのような古典和歌の広大な渚のほとりで立ちすくんでいる読者にとって、本書は格好の入門書となるのではないだろうか。また、これまで自分なりに古典和歌に親しんで来た人にも、この本は改めて平安時代だけでなく、中・近世の歌のおもしろさを感じさせてくれるものとなるだろう。とにかく文章がいいのである。

 あとがきに著者自身が振り返って述べているが、京極派の歌人への嗜好や言及がうれしく、近世の歌人を積極的に取り上げている点がなかなか目新しい。またその選歌も、おそらく無意識のうちに近現代の歌人たちの批評の波をくぐったものになっていると感じられるところが、おもしろいと思うし、信頼できる。

 装丁も手触りもうれしく、親しみやすい本で、われわれはここに最良の古典和歌鑑賞書を手に入れたのである。