「最終回文庫」として活動していたのは一時代前で、ネットなどない頃だったため、今、検索しても何も出てきません。
それではあまりに寂しいので、その歴史を簡単に記録しておくことにします。
1977年の創刊当時、素人が主宰する「古書の交換会」というものがありました。それは、不要になった蔵書を古本屋に売っても、たいていは二束三文にしかならないので、それなら古本屋の売価の5~6割程度の値段で、ほしいと思っている人に直接売ってはどうかということで始まったものでした。
当時の「古書の交換会」にはふたつあって、ひとつは盛岡で七木田麻蓑臣氏が主宰するもの、もうひとつは落語家の柳家金語楼を父に持つ山下武(異母弟はロカビリー歌手として一世を風靡した山下敬二郎)氏が主宰する「蚤の市」でした。
「最終回文庫」のスタートは、私個人の蔵書処分目録で、最初は名前も付いていませんでした。
「最終回文庫」と名付けたのは第3号(1977年10月22日発行)で、そろそろタネ切れで最終回になるということから名付けたものでした。
「古書通信」や「SFマガジン」などの雑誌の探究書欄に載せている人などに勝手に送りつけていましたが、他にも高名な方々にも送っていました。当時は個人情報云々はまったく配慮されておらず、住所は簡単に調べられました。
その中に、評論家、翻訳家、小説家として知られる紀田順一郎氏がいて、ある時、偶然お会いして自己紹介したら、「いいネーミングですね」と褒められたことで気を良くし、定期的に出そうと思い始めました。単純ですね。
1979年からは年会費350円で有料会員制とし、第8号(1978年12月 80部発行)からは、会員からの出品も載せるようになり、「古書交換会」の形になっていったのです。
コピーで会報を作っていたのを、経費節減のために9号からガリ版印刷に変えました。ガリ版と言っても知らない世代が多いかもしれませんし、「経費節減のため」にコピーではない方法を選ぶ方が高くつくのではと思われるかもしれません。当時はコピー代は高かったのです。
12号(1979年10月)は100部発行。1980年から年会費500円とし、会費未納者には送付を中止したため、13号(1980年2月)は、60部と発行部数が減少。
14号(1980年4月 60部発行)からは、出品を有料(1点10円)にし、B4判4枚ほどのボリュームで、年間4、5回は何とか発行していました。
17号(1980年12月)からは手書きオフセット印刷に変更し、1981年会費は800円。その代り出品料を1点5円に値下げ。
19号(1981年5月)はB4判7枚のボリューム。
20号(1981年8月?)はB4判5枚。原稿が手書きのため、この頃から出品の多さに悲鳴を上げるようになりました。
最盛期の発行は約200部。印刷から、折り、封筒詰め、宛名貼り(シール印刷)、切手貼り、発送という一連の作業はかなり大変でした。
その後、出品者からの手書き原稿を縮小してそのまま載せるようにして省力化しましたが、仕事が多忙を極めるようになると、次第に発行間隔が開くようになっていきました。以下は号数と発行年月。
21号(1981年11月)、22号(1982年3月)、23号(1982年5月)、24号(1982年8月)、25号(1983年1月)、26号(1983年4月)、27号(1983年6月)、28号(1983年9月)、29号(1983年12月)、30号(1984年3月)、31号(1984年5月)、32号(1984年8月)、33号(1984年1月)、34号(1985年3月)、35号(1985年7月)、36号(1985年9月)、37号(かろうじて延命号 1986年3月)、38号(1986年10月)、39号(手元に残っていません。この号から全文ワープロ打ちに変更)、40号(なんだかんだで10周年記念号 1987年5月)、41号(1987年10月)、42号(1988年4月)、43号(1988年11月)、44号(1989年5月)、45号(ひとまずお休み号 1990年3月)、46号(廃刊ではないのだぞ号 1993年5月)
46号で「廃刊ではない」とアピールしたものの、そのまま途絶して、現在に至ります。
1号からの現物を見ると(39号だけ抜けている)、よくもまあ続けてきたものだと思います。
16年間で会報発行の他、赤江瀑氏の文庫本『獣林寺妖変』、『ニジンスキーの手『花曝れ首』の改装本、『水谷昇昌 蔵書票集』(限定25部)の刊行、高橋啓介氏の文庫本『珍本古書』(限定12部)の改装本、「深沢幸雄 書票の会」を行なってきました。
深沢幸雄氏の書票は依頼者に取り次ぎは出来たものの、各作品をまとめた書票集としては、残念ながら自蔵の1部(画像は →こちら)しか作ることは出来ず、他に企画した『愛書狂』、『古書の楽しみ』などは頒布に至りませんでした。
これらのうち、『水谷昇昌 蔵書票集』と『珍本古書』の2点は、古書展・古書店の目録に、高値で出たことがあり、『水谷昇昌 蔵書票集』は買い戻すことが出来ましたが、オークション形式の販売だった『珍本古書』は製本を絶賛する説明がついていたこともあって落札できず、手元には戻ってきませんでした。
経年によるシミ、製本材料の劣化など、作った時は思いもよらないことが起きていましたが、今となっては、細かい作業に根を詰めることはとても無理でしょうし、造ろうという気力も湧いてきません。あの忙しさの中で、よくやっていたものだと思います。
今回は「最終回文庫」の歴史を簡単に説明しましたが、また思い出すことがあれば、画像とともに追記していきます。