「本の雑誌」の書評で、私が編集者の一員として加わっていたシリーズ本を取り上げていただいたことがありました。
その書評は苦労の連続だった編集作業の逐一を、あたかも傍らで見ていたかのようで、編集部員だけでなく編集委員の先生方からも感嘆の声があがりました。そのときの評者の名は「祖師谷仁」でした。
数年後、「本の雑誌」の編集部気付けでシリーズ2冊目をお届けしてからは、ご本名がわかり、ご自宅に献本させていただくようになり、日刊ゲンダイという夕刊紙に〈狐〉というペンネームで書評を連載している方と同一人物だということがわかりました。
取りあげていただいたシリーズ本は完結するのに、あきれるほどの長い時間がかかりましたが、その間に手がけた本の何冊かを日刊ゲンダイで書評していただきました。
シリーズが完結したとき、社内でささやかな記念パーティーを開き、「祖師谷仁」こと〈狐〉こと本名、山村修さんにもおいでいただき、そこで初めて素顔を拝見し、勤務先が私の母校であることを知りました。
シリーズ完結後、残務整理も終わらぬうちに、新雑誌創刊準備のセクションに異動になり、3年後に創刊にこぎつけました。それから1年経たないときに、常日頃、編集作業を円滑に進めるためには、部内でどうしても後回しになる事務的作業をおこなう部署が必要だと提言してきたことが実り、「それならお前がやれ」ということになって新セクションを創ることになりました。
最初に手をつけたのは、後回しにされ続けてきた読者からの投稿原稿でした。編集作業に忙殺されると、つい後回しにしてしまうことが多く、積もり積もってしまったものを各セクションから集めてリスト化し、処理する手順を決め、場所を設定して部員の手を借りながら一気に処理することにしました。投稿作品というのは玉石混交ですが、玉はごくわずかで、箸にも棒にもかからない作品がほとんどで、ひとり鬱々と準備作業していた時に一本の電話がありました。あの山村修さんからでした。当時、広報部に在籍していらして、「卒業生に向けた定期刊行物に、あなたの仕事の紹介をしたいので、インタビューを受けてもらえないか」という依頼でした。二つ返事で引き受けたことは勿論で、久しぶりに足を運んだ母校で記事担当者からインタビューを受けた後、山村さんとふたりで飲みながら遅くまで話し込みました。
その後、新刊をご恵送いただく光栄に浴するようになりましたが、届く新刊には「献呈 著者」という献呈箋がはさんであるだけで、署名が入っていたことはありませんでした。主に〈狐〉というペンネームで匿名書評を書き続けてこられた山村さんらしさが現われている気がします。
突然の訃報はどこからもたらされたものだったか……衝撃でその前後の記憶が飛んでいます。2006年8月14日のことでした。亡くなられたことが信じがたく、お別れに行くことを頑なに拒む自分がいました。
体調を崩されて仕事もお辞めになっていたということは、あとから知りました。
自分が編集した本を取りあげていただいた書評が載っているご著書に、署名をいただいておけば良かった……と悔やんでも悔やみきれません。
亡くなられた後に出版された『もっと、狐の書評』(ちくま文庫 2008年7月10日刊)には、生前に刊行された単行本の中から選りすぐった書評と未収録書評、「本の雑誌」1998年12月号に掲載されたロングインタビューなどが収められています。
私の目にはとまらなかった未収録の書評には、私が編集した本が何点か取りあげられています。
献本した新刊を書評で取りあげたことのお知らせや、書評の掲載誌を送ってもらったことは一度もありませんでした。献本に対する礼状を書いたり、書評に取り上げたことを知らせると、作品そのものに対峙して書かなければならない「書評する」という行為に余計なものが加わってくるのは明らかで、それをなるべく排除しようとしていたことが感じ取れます。
手元にある〈狐〉あるいは「山村修」の著書を古い順に並べます。
読んでみたくなる書評が並んでいるので、以下に書影を紹介した中から、どれか1冊でも手に取ってみてください。
『狐の書評』〈狐〉1992年5月10日発行 本の雑誌社
『野蛮な図書目録』〈狐〉1996年9月20日 洋泉社
『狐の読書快然』〈狐〉1999年8月2日 洋泉社
『気晴らしの発見』〈山村修〉2000年7月31日 大和書房
『水曜日は狐の書評』〈狐〉2004年1月7日 ちくま文庫
『〈狐〉が選んだ入門書』〈山村修〉2006年7月10日 ちくま新書
『書評家〈狐〉の読書遺産』〈山村修〉2007年1月20日 文春新書
書棚には見当たりませんでしたが、ほかに『禁煙の愉しみ』『遅読のすすめ』『花のほかには松ばかり―謡曲を読む楽しみ』などがあります。