「それなら、お父さんが書いたらいいじゃないか」-----中一の息子のこの言葉がこのブログを書くきっかけになりました。
この言葉は、私がインターネットで日本酒関係のHPを見ながら「ぴんとこないなぁ」、「なかなか無いなぁ」と”独り言”を言っているときに息子から出たのです。私の息子は赤ん坊のころから、日本酒には縁がありました。毎年7月にはアパートのドアの前に、”普通の家庭”としては考えられないほどの多くの酒が置かれ、12月には甘い香りが強く漂う大量の酒粕まで追加される生活を生まれたときから送っています。彼にとって、今は自分が飲むことはできなくても、日本酒は常に身近な存在なのです。
かつて一度だけ、息子と一緒に新潟へ行きました。自分がいつも目にしている酒の銘柄が造られている現場を直接見られ、話をよく聞かされている、父親の敬愛する大先輩の店にも行き、どちらでも大変可愛がっていただいたので、新潟は息子にとっても非常に良いところだそうです。
淡麗辛口をその”原動力”として、”日本酒ルネッサンス”と言うべき動きに、成功の兆しが見え始めた昭和50年代前半に、思わぬことから私は新潟淡麗辛口の蔵に縁を持ちました。 私のアパートに集金その他で来られる”酒飲み”が、「何でこの酒がこんな所にこんなにあるんだ」と驚かれる、有名な蔵もその当時はまだ”マイナー”な時代で、マイナーなだけに”商売”のからんでくるウエイトは少なく、”家業を嫌っていた酒販店の三代目”の私でも強く惹かれる”人間関係”がそこにはあったのです。 売れるとか売れないはまったく考えず、扱ってみたいと強く思ったのは、酒そのものの魅力ももちろんありますが、それ以上に”酒を造る人”に強く惹かれたからです。 私はどちらかと言うと”酒に酔う”のではなく、”酒に関わる人”に酔って年月を重ねてきたような気がします。 私にとって”酒”とは”人”なのです-----いつも”人”を通して”酒”を感じてきました。 しかし、それゆえ平成の初めまで続く”悪戦苦闘”の日々を送ることになります。
酒は恐ろしいほど、酒を造る人の”心の置き所”を反映します。 そして、その”反映する心”は、技術者である杜氏ももちろんですが、それ以上に”蔵元の心”が反映します。 誤解を恐れずに言うと、酒を造ること自体は酒蔵にとって、それほど難しいことではありませんが、酒造りのすべてにおいて手を抜かずに酒を造ることは、きわめて困難な作業と言わざるを得ません。 当時は嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)と早福岩男さん(早福酒食品店会長)を中心に、五つの蔵がお互いに切磋琢磨しながら、困難な作業を実行していました。 まったく同じ”哲学”を共有し、自分達の進む道に何の疑問も持たず、ただ前に進むだけ------今思うと、”黄金の日々”だったのかもしれません。 そうゆう”哲学”とそれを”体現”している人々に、私は強く惹きつけられ続けさらに”深み”にはまっていくことになります。
五つの蔵のうち、三つの蔵と私は取引させていただき、一つの蔵とは取引は無かったものの”人間関係”がありました。 私が意図的に関係を持たなかった五つの最後の蔵が越乃寒梅です。 なぜなら、越乃寒梅は、蔵元の意思とは関係なく当時すでに”メジャー”だったので、”マイナー”な私が入り込むのは失礼だと感じていましたし、”マイナー”な私の”居場所”もあると思えなかったからです。 そのころは、”新潟の酒の神様” 嶋悌司先生と直接お会いする機会はまったくありませんでしたが、お付き合いをさせていただいた蔵を通して、嶋悌司先生の存在の大きさは十分に感じとることができました。 その後、久保田の展開に最初から参加するなかで、嶋悌司先生にも個人的にも大変お世話なることになるのですが、そのころには五つの蔵の”黄金の日々”は終わりを告げ始めていました。
その数年後、思わぬことで私は”業界”を離れることになります。 それから、もう13年がたっているのですが、相変わらず私は酒から離れることができていません。 酒とはまったく関係の無い業界の会社員として13年を過ごしてきたのですが、なぜか私の周囲には”庶民の酒飲みの日本酒ファン”が増えてしまいます。 仕事上の付き合いの方でも、何気なく酒の話になると、私にとってごく”普通”の話をしているだけなのですが、相手が”庶民の酒飲み”の場合は興味が尽きないようで、そして必ずと言ってよいほど、「Nさんと話してると酒が飲みたくなりますね」と言われます。 そして、それ以上に”本人の自覚”無しに拡大させてしまったのが、”酒粕のファン”かもしれません。
私にとって”酒粕”とは、果物のような甘い香りのする、やわらかくて厚みがあり、切るのに苦労するもので、水にもすぐ溶けるものですが、現実に”酒粕好き”が手にしていたものは、まったく違っていたようです。 軽い気持ちで、今も人間関係が続いている三つの蔵の”酒粕”を周囲の方に差し上げ始めたのですが、その反響は予想を超えるもので、13年前は40㎏だったものが現在は300㎏を超えています。 ”酒粕”といえども300㎏を超えてしまう量になると、”サラリーマンのボランティア活動”としてはけして荷が軽くはなく、ここのところ暮れが近ずくたびに、今年は止めようかと思うのですが、差し上げた酒粕の”お裾分け”、”お裾分けのお裾分け”で本人が思っている以上にその範囲と人数が拡大しており、毎年その人達が楽しみに待っている------そう聞かされると、その人達の”幸せ”を奪うことはできかねます。 また、酒粕は、酒そのもの以上に酒質のレベルの違いを分かり易く語って、”庶民の楽しみ”である日本酒の素晴らしさを示していると実感している以上、私には止めることができないのです。
私が、”庶民の酒飲み”や”庶民の酒粕好き”に貢献できるのは、今も続く三つの蔵との”人間関係”のおかげです。 二つの蔵は、”黄金の日々”が思い出ではなく、そのときの気持ちを持ち続けており、一つの蔵は、十分な成功を収め酒飲みの間で有名でありながら、”黄金の日々”の面影を色濃く残しています。
事業として成功することは、けして悪いことではありません。 しかし、成功したことで、失うものもあるのも事実です。 私が”業界”を離れるころ、〆張鶴は成功したと言える状況でした。 私がご挨拶に伺ったとき、お亡くなりになった宮尾隆吉前社長は別れを惜しんでくださり、お忙しい中,半日を私に費やしてくださいましたが、その中で 「昔は、蔵に来られる酒販店の人との間には、人間対人間の気持ちの交流があった。 今はそのころに比べると、ビジネスライクと言うか寂しい関係になった」 と言われたことを、今でも良く覚えています。 宮尾行男社長は大変お忙しい方ですが、何年かに一回お会いする機会があります。 また、折に触れ手紙やFAXを出させていたただいております。 30年近くお付き合いさせていただいた者として、また一人の消費者として、率直に話したり書かせていただいておりますが、歯に衣を着せない耳ざわりの良い言葉でないにもかかわらず、好意的に接していただいております。
敬愛する大先輩の早福岩男さんが、かつてこの蔵を評して ”真面目が背広を着ている” と言われたことがあります。 宮尾酒造の皆様には ”迷惑”な言葉だったと思われますが、私もそれに近い印象を今でも感じています。 いつも酒が足りなくて迷惑をかけている-----それを何とかしなければと、真面目にとりくんだ結果が ”成功”になってしまったのです。
〆張鶴は、残念ながら ”庶民の酒飲み”にとって、現在最も手に入れ難い酒のひとつです。 長い間〆張鶴を、月桂冠を売るように ”普通”に売っていた経験を持つ私は、 「〆張鶴の名前は知っているが、もちろん飲んだこともないし見たことすらない」-----多くの ”庶民の酒飲み”にとって、〆張鶴がそのような ”存在”になっていることは、きわめて残念なだけではなく強い危機感を感じています。 〆張鶴は、私や私の周囲の人間にとって、日本酒に対するを考え一変させてくれた酒であり、25年以上親しみ続けてきた蔵です。 しかし、私達の ”日本酒エリアN”以外の ”庶民の酒飲み”にとって、「見たことも飲んだこともない」のですから彼らの中で、〆張鶴は ”現実には存在しない空想の酒”、あるいは ”宮内庁御用達の酒”のように ”存在はするが事実上存在しない酒”も同然の存在になっているとしたら、”庶民の酒飲み”にとってだけではなく 〆張鶴の将来にとっても不幸で危険な状況です。 しかし、私が知るかぎり、宮尾行男社長をはじめ蔵の人達は”庶民の酒飲み”を無視しているわけではありません。 宮尾酒造自体はけして、エンドユーザーの消費者に背中を見せているわけではありません。 なぜなら、 ”成功”によって失った ”何か”を一番感じているのが宮尾社長、そして蔵の人達だからです。
30年以上前にその源流がある、”黄金の日々”の面影を色濃く残しているからこそ、〆張鶴は ”単純な量の拡大”だけを選択せず、”節度のある成功”を選んだ-----私にはそう思えてなりません。
追記
〆張鶴が”庶民の酒飲み”を無視していないと思っている以上、いづれその事実を提示しなければと考えています。 置かれている状況が状況ですので、多少の困難があり努力も必要ですが、一番量が逼迫している 〆張鶴 純 であっても ”一合1500円”で居酒屋で飲む以外にも、飲む方法はあります。 一回限りか、あるいはたまにでしかなくても”普通の価格”(送料込みで居酒屋の三合分でおつりがきます)で1.8Lを飲むことができます。 もちろん守ってもらうべきルール(私が知る関係者に迷惑がかかると二度とできなくなります)もありますが、大前提としてこのブログを見てくれる人がそれなりにいて、そのなかで〆張鶴を飲んでみたい人がそれなりにいることが条件になりますが-----。
千代の光
千代の光は、池田哲郎社長と私の年齢が近く、最初にお会いしたとき私が 20代半ばで社長が20代後半で、私にとって一番思ったことが言いやすい蔵元でした。 五つの蔵の中で一番若かっただけに、歯に衣をきせずはっきり明快にものを言う人でした。 その池田社長が、二十年近く前に私に言ったことがあります。 短期的で直接の酒質の向上策ではなく、”業界”の人にとっては常識破りでもあり、また人にとっては悠長なと皮肉を言われかねないことでした。 大変困難なことですが、それができたら確実に酒質は向上し続けるだろうと私は思ったのですが、十年後それは実現していました。
私が二十数年前(それは蔵元に正直に話したことですが)、私が取り扱っても絶対に売れない、売る本数よりも捨てる本数の方が多いと思いつつもその魅力を失うことが惜しくてお願いをした酒ですが、その当時は、どちらかというと杜氏個人の名人芸に支えられているウェイトが高く、素晴らしい魅力と同時にきちんと売る側が管理をしないと魅力が発揮し続けにくいある種の ”ひ弱さ”も抱えていました。 しかし、発言の十年後のこの酒は”30階建てのビルが建つ基礎の上に5階建てが建っているような、表面には出てこないが確実に存在する”強さ”に支えられており、さらに誰もが見ない内装の裏にまで、丁寧な仕事がしてある素晴らしい酒になっていました。 5年前、池田社長はまた私に、「十年後を楽しみに見ていてくれ」と、言われました。 たぶん、今回も言ったことを実現させてくれるだろうと私は確信しています。
千代の光は、越乃寒梅、八海山、久保田に比べその名前がよく知られているとはいえない酒です。 また、売る側の酒販店がそれなりに酒が分かってないと、エンドユーサーの消費者がその魅力の本質が分かりにくい酒です。 酒がきちんと分かっている店主から買って千代の光を飲むことができた”庶民の酒飲み”のあなたは、私が書いた千代の光の素晴らしさを、自分の舌で、喉で味わうことができ、千代の光と池田社長が”庶民の酒飲み”にとっていかにありがたい存在かが実感できるはずです。
追記
千代の光のホームページで全国の取扱店を調べることができます------http://www2.ocn.ne.jp/~sa-chiyo/------
私が直接、その”人柄”と”思い”の深さを知る千代の光の取扱店の店主は、数人しかいません。 ”地酒”を扱う酒販店には、大きく分けると、二つのタイプになると思われます。 たとえば年間一万本を売ろうとしたとき、 1---100種類の銘柄を100本売って一万本にするタイプの酒販店、 2---自分が”ほれ込み”、自信を持ってすすめられる蔵の酒を、上から下まですべて取り揃え ”主力銘柄”として、月桂冠を売るように売るタイプの酒販店-----。 1は、”地酒専門店”に多いタイプ、2は、私のような ”少数派”です。 2のタイプは、毎年のように蔵を訪れそれなりに酒を ”勉強”させていただくだけではなく、〆張鶴の故宮尾隆吉前社長のお言葉のように、「人間対人間の気持ちの交流」を深めていきます。 それゆえ、あまり多くの銘柄を扱うことなく(3~5の蔵で手一杯)、一つの銘柄あたり2000~5000本を売って、一万本を越えていきます。 この ”少数派”は ”少数派がゆえにお互いに強い ”結びつき”をもっています。 その ”結びつき”を支えているのは、お互いのお互いへの”信頼”です。 そして、その”信頼の輪”の中心には蔵元がいます。
私は、できればこの ”少数派”の千代の光の取扱店の店主から買って飲んでいただきたいと思っています。 なぜなら、千代の光には、エンドユ-ザ-の消費者のために前に進もうという ”強い思い”が酒に込められており、その思いを一番良く知っているのが ”少数派”の千代の光の取扱店の店主だからです。
鶴の友
鶴の友は、「酒は庶民の楽しみ」、「酒は日本人にとって、欠かすことのできない面白さと楽しさにあふれているもの」-----肌の感覚でそのことを私に納得させてくれた蔵です。
私が現役の酒販店時代に取引はありませんでしたが、”商売”以外のご縁から二十数年前におじゃまして以来、現在に至るまで ”人間関係”が続いています。 鶴の友はその根幹はまったく変わることなく、樋木尚一郎社長の眼は原点から逸れることなく 、また遠くをも見通しています。 ”業界”にいたときの私が、古い仲間から ”予言者扱い”されるほど、”予想”を的中させることができたのは、樋木社長のおかげでした。
頑ななまでに原則を変えず、他の四つの蔵がこの三十年で2~8倍にまでその販売量を増やしたにもかかわらず、逆に半分強に減っています。 鶴の友は、新潟市周辺のごく一部でしか販売されておらず、県外はおろか新潟市周辺以外では手に入れることが、きわめて難しい酒です。 それは”庶民の酒飲み”に顔を向けてないからではなく、逆に100%向けているからです。 鶴の友は、本来の ”地酒”に徹しています。 地元の酒飲みに喜んでもらうために犠牲を払って造っているのであって、それゆえ、県外、特に大都市圏に売るつもりがまったくと言っていいほどないのです。
業界を離れてからの13年、私は樋木社長と接する機会が増えました。 1~2年に1回はおじゃまさせていただき、電話でしょちゅうお話を伺っています。 その年月の中で、以前から自分では分かっていたつもりの樋木社長の”原則”をようやく肌の感覚で理解することができ、それを自分の”原則”とすることができたように思えます。
「酒は庶民の楽しみである以上、酒を造る者も売る者も庶民の立場でなければならない」-----飲む人間に対する強い気持ちがその”原則”なのです。 樋木社長ほど”飲む人間”、そして”弱い立場”の人間に愛情を持つ人を、私は知りません。 私が周囲の”恵まれない酒飲み”に対する”ボランティア活動”を始めたのも、数年前地元の小さな蔵に”ボランティア”で関わったことも、樋木社長の”愛情と応援”があって可能になったことです。また、つぼに入った超有名な”幻”扱いされている焼酎も樋木社長がいなければ、存在することはありえなかったのです。
十数年前、その開発者といわれ今は”焼酎の神様”扱いをされている、K酒店のK店主に焼酎をかめで仕込んでつぼに入れて売ることを朝の5時まで樋木社長がアドバイスし続ける現場に、私も立ち会っていました。 K店主には、このとき一度しか私は会ってないのですが、新潟の酒の件でうまくいかなかったのか、前夜にはあまり元気とは思えなかったその朝のK店主のふっ切れた表情を、今でもよく覚えています。 数年前新潟県醸造試験場に講演の講師として招かれたK店主は、あの焼酎の原点は樋木社長にあると聴衆の前で言い切ったそうです。 樋木社長にとって、私やK店主にアドバイスしたり応援することは何のプラスもなく、マイナスでしかありえません。損だ、得だだということはまったく存在せず、純粋に”弱い立場”の人間への愛情と親切心だけでした。 しかもそれは、私達だけにかぎられないのです。
この”普通ではない心の置き所”を反映する鶴の友が、”普通”ではないことはむしろ自然といえます。 ”素晴らしくかつ不思議な酒”といわれる鶴の友は、平均年齢80歳の”超高年齢軍団”によって 3年前まで造られていました。 含んだ瞬間やわらかく、しかししっかりとした”米の旨み”としか言いようのない味が口の中に広がり、それでいて他の淡麗辛口を上回る、喉ごしの良さと切れの良さを持っていました。 鶴の友の場合は、”切れる”というより後味が”消えてなくなる”といったほうが適切かもしれません。 きちんと造った淡麗辛口は、人間の身体にやさしく翌日に残ることはないのですが、鶴の友は適量だった場合、その日のうちに醒めてしまうのです。 さらに不思議なのは、淡白な白身魚の刺身の味もじゃまをせず包みこみ、あんこう鍋のような強い味にも負けない”強さ”を同時に持っていることです。 それは、例えてみると、サーキットでめちゃくちゃ速いレーシングカーが、グラベル(未舗装路)のラリーのSS(スペシャルステージ)でもめちゃくちゃ速い-----普通なら絶対ありえないことなのです。
この”ありえない味”を造り続けて来たこの蔵に、2年前に”危機”が訪れました。 物心両面での負担のきわめて大きい造りを続けるこの蔵が、いつかは無くなる日が来ることを頭では理解していたつもりでしたが実際に直面したとき、私は呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。 幸いこの蔵の造りは、30歳の杜氏を軸にした”若手軍団”に受け継がれ造られています。 わずかな混乱はあるものの”超ベテラン軍団”の味の骨格は受け継がれ、数年後にはそれに”若さ”を加えた酒質を造り出すのではと私は期待しています。 しかし、また”危機”が訪れる可能性は残念ながら残っています。 私が現役の酒販店のころ、蔵元の”思い”を知るがゆえに取引させていただくことはあきらめました。 鶴の友は新潟市民の”宝”であって、他の地域の人間がかすめとるべきではないと思ったからです。しかし、今の私は結果として新潟市民からかすめとることになったとしても、自分にできるあらゆることをしてでも残って欲しいと強く願っています。 自分の息子にもこの酒からしかもらうことのできない”幸せ”をどうしても味あわせてあげたいからです-----。
追記
これを読まれた人の中で、鶴の友を飲んでみたいと思われる人が少なくない場合には、後日、”飲める方法”を書かざるを得ないと感じていますが、それは、”新潟市に行くことが可能な人”か、”新潟市に知り合いがいる人”に限られます。 やみくもに、新潟市を走り回っても、鶴の友は手に入りません。 たとえ、新潟市といえども販売店はきわめて少ないのです。 私自身、安心して(蔵に売れる酒が1本も無い場合以外は買える)名前をあげられるお店は、数店しかありません。 〆張鶴の追記に書いたとうり、ルールが守られなおかつ大前提がクリヤーできた場合にのみ、書きたいと考えています。 (鶴の友の場合は、関係者に迷惑がかかると、完全に道が絶たれますので慎重に考えざるを得ないのです)
日本酒エリアNの仲間達
昭和50年代前半は、たとえ〆張鶴、八海山といえども、関東の小さな市では売れる本数より捨てる本数の多い ”悪戦苦闘”の日々でした。 ”馬鹿じゃないの”と周囲に言われながらも、一人、また一人と試飲をしてもらい、自分の目で見続けている蔵の ”姿”を熱心に話し、淡麗辛口のファンになってもらう努力をしぶとくしていました。 自分は ”失敗”に強い-----今、思い出しても苦笑してしまうほどの ”敗戦続き”の日々でした。
私は ”希少な名酒”を売っているとの意識は、あまりありませんでした。 ひょんなことから、その姿を身近に見せていただくことになった、〆張鶴、八海山、千代の光を自分自身がうまいと思う自信を持てる酒として、売ろうとしていただけです。 自分の店に来店され、試飲されても 「月桂冠が一番うまい」と言う人にはそれ以上すすめることなく、月桂冠を買っていただきました。 私の店には、月桂冠をはじめナショナルブランドの酒も ”豊富”においてありました。 そんな日々の中で、〆張鶴の純米や八海山、千代の光の本醸造を晩酌で飲み、12月にはその時だけにしかない〆張鶴や千代の光のしぼりたて生原酒(ふなぐち)を飲み、正月には奮発して〆張鶴大吟醸や、千代の光の吟醸、八海山の特級(当時は八海山の吟醸は非売品の500mlがあったのみ)-----そういう”庶民の酒飲み”が私の周囲に、いつの間にか少しずつですが増えてきました。 その中核は、25年前に第1回が開かれ第79回の今まで続く、「吟醸会」の仲間達でした。
この仲間達の出会いも、ひょんなことから始まりました。 25年以上も続くとは絶対に想像できないことから、鮨屋のTさんと知り合ったことがその始まりでした。 Tさんとのきっかけには、私が淡麗辛口と同時平行で見てきた、新潟淡麗とはその対極にあった ”生酛”が絡んでいました。(生酛については、後日書きたいと考えています)
当時吟醸は基本的には非売品、そのごく一部が販売され始めたころでした。 このころの吟醸は、関信局、全国鑑評会へ出品されたものがメインで、現在の ”ワンカップの吟醸”まである状況とはまるで違う環境にありました。 その中で、前述した八海山の非売品吟醸や、その当時でも超貴重品の”鶴の友の非売品”、〆張鶴、千代の光の吟醸などを私は ”勉強”のため味を確認していたのですが、一人で見るのももったいないと思い、Tさんに声をかけ、Tさんの鮨店の若手の常連の、”酒飲み”としては”才能”のあるS,Oの二人の特殊法人の研究員を含めた四人で、その四本を同時に味わったことから、「吟醸会」となったのです。 その、「吟醸会」が元々あった鮨店の常連の”友の会”の親分のGさんに知れ、「お前らだけで楽しんでいるんじゃねぇ」との鶴の一声で、”友の会”のメンバーも合流し現在の形になったのです。
鮨店のTさんが常連のために(常連以外の参加者も少なくありませんが)定休日の一日を使い、どう考えても赤字の会費で(ご本人も会費を払って)、美味い料理と吟醸にこだわらない美味い酒を出してくれるのが、現在の「吟醸会」です。 毎回20~30人の参加で年間3~4回、来るもの拒まず去るもの追わずの、難しい規則や理屈の無い自由な会です。 年齢も職業もバラバラ、地元の町工場の親父さんから商店主、会社員、特殊法人の研究員-----どこか ”馬鹿”なところがある皆が勝手に楽しく飲み食いする、日本酒しか出さないというのが唯一のルールの会です。 千代の光の池田社長にはお叱りを受けるのですが、生原酒にとって理想的な温度と言える0度の魚屋さんの解凍用の冷蔵庫に、生原酒を5~6年ほおっておき新酒と比べて楽しんだり、(今はもう絶対に無理なことですが)宮尾専務(現社長)お願いして〆張鶴の純の一斗樽を送っていただき、計算どうり樽詰め後四日目に開け25人でそのすべてを飲んでしまったこと(今でもそのとき出席したメンバーは、酒の香りを壊さない絶妙のバランスで木香がついた、あのときの純を今でも忘れられづにいます)-----など私が現役の酒販店だったころは、特に楽しい思い出があります。
その中でも一番の思い出は、Tさん、S、Oの四人で、〆張鶴、八海山に行ったことでしょうか。 私自身はそのときすでに何回も行っていたのですが、四人で行ったのはこれが最初で最後でした。 今思うとこれは”貴重な体験”でした-----なぜなら、全国の”地酒専門店”の皆さんの中でも、この時代の〆張鶴や八海山の造られている様子を、直接目にしたことがある人がきわめて少ないからです。
また、何十年も一緒に ”飲み歩いていた”友達同士が、実は酒の好みについてはまったく正反対であることに初めて気が付き、「吟醸会」の席上で、お互いに好みの酒を抱え込み、子供の喧嘩のように「こっちの酒のほうが美味い」と周囲を巻き込んで言い合ったり、吟醸会会長のGさんに、「俺は子供のころから、刺身はごはんで食べるものだと思っていた。 ところがN、お前と知り合ってからいつの間にか気が付いたら、刺身で酒を飲むようになっていたし、飲む酒の量も増えていた。 Nよ、お前は悪い奴だ」と、笑いながら言われたことも忘れられない思い出です-----それは、すぐそばに漁港があり子供のころから新鮮な魚を食べ続けて人が、微妙で繊細な刺身の味を壊さず包み込んで、無理なく自然に自分も生きる淡麗辛口が、刺身に合っているだけではなく人にもやさしいことを、自分の身体で豪快に ”実証”してくれたからです。
今でもTさんのお店に行くと、G会長のような愉快で楽しい常連の誰かに会えます。 能書きも理屈もまったく言わない人達ですが、25年前と同様に、目の前のグラスに入っている酒が〆張鶴 純 だったり、八海山の吟醸(市販品)、千代の光の吟醸造りだったりします。 しかも、鶴の友の別撰や特撰の貴重な味とその価値を十分わかっていたりします。 そして、たとえ一人ワンショットグラス一杯分だけだとしても、非常に貴重な”鶴の友の非買品”の味も知っています。(私の地元は、新潟市以外で鶴の友を飲んだことがある人の割合がけっこう高いと思われます) 彼らは、大吟醸のレッテルや ”幻の”とかの ”形容詞”で酒は判断しません。 自分で飲んでみて美味いか不味いか-----判断はその一点のみです。 当然ながら、Tさんの ”肌の感覚”で身につけてきた ”酒の知識”は高いレベルにありますが、問われなければそれを語ることはありません。 もし、Tさんの口を開くことのできた ”庶民の酒飲み”のあなたは、楽しい気分で一杯になるでしょう。 酒も料理も、そして鮨も ”庶民の酒飲み”の払える金額です。 美味い酒を飲みたい ”庶民の酒飲み”にとって、Tさんの鮨店は、ちよっとした ”楽園”なのです。
追記
私の地元に住んでいる ”庶民の酒飲み”の中でも、Tさんの鮨店を知っている人はごく少数でしょう。 地元に住んでいながら、”庶民の酒飲みの楽園”を知らないことは、ある意味で ”不幸な”ことかもしれません。 Tさんも、「吟醸会」もけして閉鎖的なわけではありませんが、このブログで実名をあげるわけにもいきません。 もし、Tさんのお店に行きたい人が多くいる場合にのみ、後日”宝探し”ではありませんが、地元の人間にだけには分かる ”ヒント”を書きたいと思っています。
早福さん、そして池袋K酒店K店主のこと