OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
鶴の友
鶴の友は、「酒は庶民の楽しみ」、「酒は日本人にとって、欠かすことのできない面白さと楽しさにあふれているもの」-----肌の感覚でそのことを私に納得させてくれた蔵です。
私が現役の酒販店時代に取引はありませんでしたが、”商売”以外のご縁から二十数年前におじゃまして以来、現在に至るまで ”人間関係”が続いています。 鶴の友はその根幹はまったく変わることなく、樋木尚一郎社長の眼は原点から逸れることなく 、また遠くをも見通しています。 ”業界”にいたときの私が、古い仲間から ”予言者扱い”されるほど、”予想”を的中させることができたのは、樋木社長のおかげでした。
頑ななまでに原則を変えず、他の四つの蔵がこの三十年で2~8倍にまでその販売量を増やしたにもかかわらず、逆に半分強に減っています。 鶴の友は、新潟市周辺のごく一部でしか販売されておらず、県外はおろか新潟市周辺以外では手に入れることが、きわめて難しい酒です。 それは”庶民の酒飲み”に顔を向けてないからではなく、逆に100%向けているからです。 鶴の友は、本来の ”地酒”に徹しています。 地元の酒飲みに喜んでもらうために犠牲を払って造っているのであって、それゆえ、県外、特に大都市圏に売るつもりがまったくと言っていいほどないのです。
業界を離れてからの13年、私は樋木社長と接する機会が増えました。 1~2年に1回はおじゃまさせていただき、電話でしょちゅうお話を伺っています。 その年月の中で、以前から自分では分かっていたつもりの樋木社長の”原則”をようやく肌の感覚で理解することができ、それを自分の”原則”とすることができたように思えます。
「酒は庶民の楽しみである以上、酒を造る者も売る者も庶民の立場でなければならない」-----飲む人間に対する強い気持ちがその”原則”なのです。 樋木社長ほど”飲む人間”、そして”弱い立場”の人間に愛情を持つ人を、私は知りません。 私が周囲の”恵まれない酒飲み”に対する”ボランティア活動”を始めたのも、数年前地元の小さな蔵に”ボランティア”で関わったことも、樋木社長の”愛情と応援”があって可能になったことです。また、つぼに入った超有名な”幻”扱いされている焼酎も樋木社長がいなければ、存在することはありえなかったのです。
十数年前、その開発者といわれ今は”焼酎の神様”扱いをされている、K酒店のK店主に焼酎をかめで仕込んでつぼに入れて売ることを朝の5時まで樋木社長がアドバイスし続ける現場に、私も立ち会っていました。 K店主には、このとき一度しか私は会ってないのですが、新潟の酒の件でうまくいかなかったのか、前夜にはあまり元気とは思えなかったその朝のK店主のふっ切れた表情を、今でもよく覚えています。 数年前新潟県醸造試験場に講演の講師として招かれたK店主は、あの焼酎の原点は樋木社長にあると聴衆の前で言い切ったそうです。 樋木社長にとって、私やK店主にアドバイスしたり応援することは何のプラスもなく、マイナスでしかありえません。損だ、得だだということはまったく存在せず、純粋に”弱い立場”の人間への愛情と親切心だけでした。 しかもそれは、私達だけにかぎられないのです。
この”普通ではない心の置き所”を反映する鶴の友が、”普通”ではないことはむしろ自然といえます。 ”素晴らしくかつ不思議な酒”といわれる鶴の友は、平均年齢80歳の”超高年齢軍団”によって 3年前まで造られていました。 含んだ瞬間やわらかく、しかししっかりとした”米の旨み”としか言いようのない味が口の中に広がり、それでいて他の淡麗辛口を上回る、喉ごしの良さと切れの良さを持っていました。 鶴の友の場合は、”切れる”というより後味が”消えてなくなる”といったほうが適切かもしれません。 きちんと造った淡麗辛口は、人間の身体にやさしく翌日に残ることはないのですが、鶴の友は適量だった場合、その日のうちに醒めてしまうのです。 さらに不思議なのは、淡白な白身魚の刺身の味もじゃまをせず包みこみ、あんこう鍋のような強い味にも負けない”強さ”を同時に持っていることです。 それは、例えてみると、サーキットでめちゃくちゃ速いレーシングカーが、グラベル(未舗装路)のラリーのSS(スペシャルステージ)でもめちゃくちゃ速い-----普通なら絶対ありえないことなのです。
この”ありえない味”を造り続けて来たこの蔵に、2年前に”危機”が訪れました。 物心両面での負担のきわめて大きい造りを続けるこの蔵が、いつかは無くなる日が来ることを頭では理解していたつもりでしたが実際に直面したとき、私は呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。 幸いこの蔵の造りは、30歳の杜氏を軸にした”若手軍団”に受け継がれ造られています。 わずかな混乱はあるものの”超ベテラン軍団”の味の骨格は受け継がれ、数年後にはそれに”若さ”を加えた酒質を造り出すのではと私は期待しています。 しかし、また”危機”が訪れる可能性は残念ながら残っています。 私が現役の酒販店のころ、蔵元の”思い”を知るがゆえに取引させていただくことはあきらめました。 鶴の友は新潟市民の”宝”であって、他の地域の人間がかすめとるべきではないと思ったからです。しかし、今の私は結果として新潟市民からかすめとることになったとしても、自分にできるあらゆることをしてでも残って欲しいと強く願っています。 自分の息子にもこの酒からしかもらうことのできない”幸せ”をどうしても味あわせてあげたいからです-----。
追記
これを読まれた人の中で、鶴の友を飲んでみたいと思われる人が少なくない場合には、後日、”飲める方法”を書かざるを得ないと感じていますが、それは、”新潟市に行くことが可能な人”か、”新潟市に知り合いがいる人”に限られます。 やみくもに、新潟市を走り回っても、鶴の友は手に入りません。 たとえ、新潟市といえども販売店はきわめて少ないのです。 私自身、安心して(蔵に売れる酒が1本も無い場合以外は買える)名前をあげられるお店は、数店しかありません。 〆張鶴の追記に書いたとうり、ルールが守られなおかつ大前提がクリヤーできた場合にのみ、書きたいと考えています。 (鶴の友の場合は、関係者に迷惑がかかると、完全に道が絶たれますので慎重に考えざるを得ないのです)
日本酒エリアNの仲間達
昭和50年代前半は、たとえ〆張鶴、八海山といえども、関東の小さな市では売れる本数より捨てる本数の多い ”悪戦苦闘”の日々でした。 ”馬鹿じゃないの”と周囲に言われながらも、一人、また一人と試飲をしてもらい、自分の目で見続けている蔵の ”姿”を熱心に話し、淡麗辛口のファンになってもらう努力をしぶとくしていました。 自分は ”失敗”に強い-----今、思い出しても苦笑してしまうほどの ”敗戦続き”の日々でした。
私は ”希少な名酒”を売っているとの意識は、あまりありませんでした。 ひょんなことから、その姿を身近に見せていただくことになった、〆張鶴、八海山、千代の光を自分自身がうまいと思う自信を持てる酒として、売ろうとしていただけです。 自分の店に来店され、試飲されても 「月桂冠が一番うまい」と言う人にはそれ以上すすめることなく、月桂冠を買っていただきました。 私の店には、月桂冠をはじめナショナルブランドの酒も ”豊富”においてありました。 そんな日々の中で、〆張鶴の純米や八海山、千代の光の本醸造を晩酌で飲み、12月にはその時だけにしかない〆張鶴や千代の光のしぼりたて生原酒(ふなぐち)を飲み、正月には奮発して〆張鶴大吟醸や、千代の光の吟醸、八海山の特級(当時は八海山の吟醸は非売品の500mlがあったのみ)-----そういう”庶民の酒飲み”が私の周囲に、いつの間にか少しずつですが増えてきました。 その中核は、25年前に第1回が開かれ第79回の今まで続く、「吟醸会」の仲間達でした。
この仲間達の出会いも、ひょんなことから始まりました。 25年以上も続くとは絶対に想像できないことから、鮨屋のTさんと知り合ったことがその始まりでした。 Tさんとのきっかけには、私が淡麗辛口と同時平行で見てきた、新潟淡麗とはその対極にあった ”生酛”が絡んでいました。(生酛については、後日書きたいと考えています)
当時吟醸は基本的には非売品、そのごく一部が販売され始めたころでした。 このころの吟醸は、関信局、全国鑑評会へ出品されたものがメインで、現在の ”ワンカップの吟醸”まである状況とはまるで違う環境にありました。 その中で、前述した八海山の非売品吟醸や、その当時でも超貴重品の”鶴の友の非売品”、〆張鶴、千代の光の吟醸などを私は ”勉強”のため味を確認していたのですが、一人で見るのももったいないと思い、Tさんに声をかけ、Tさんの鮨店の若手の常連の、”酒飲み”としては”才能”のあるS,Oの二人の特殊法人の研究員を含めた四人で、その四本を同時に味わったことから、「吟醸会」となったのです。 その、「吟醸会」が元々あった鮨店の常連の”友の会”の親分のGさんに知れ、「お前らだけで楽しんでいるんじゃねぇ」との鶴の一声で、”友の会”のメンバーも合流し現在の形になったのです。
鮨店のTさんが常連のために(常連以外の参加者も少なくありませんが)定休日の一日を使い、どう考えても赤字の会費で(ご本人も会費を払って)、美味い料理と吟醸にこだわらない美味い酒を出してくれるのが、現在の「吟醸会」です。 毎回20~30人の参加で年間3~4回、来るもの拒まず去るもの追わずの、難しい規則や理屈の無い自由な会です。 年齢も職業もバラバラ、地元の町工場の親父さんから商店主、会社員、特殊法人の研究員-----どこか ”馬鹿”なところがある皆が勝手に楽しく飲み食いする、日本酒しか出さないというのが唯一のルールの会です。 千代の光の池田社長にはお叱りを受けるのですが、生原酒にとって理想的な温度と言える0度の魚屋さんの解凍用の冷蔵庫に、生原酒を5~6年ほおっておき新酒と比べて楽しんだり、(今はもう絶対に無理なことですが)宮尾専務(現社長)お願いして〆張鶴の純の一斗樽を送っていただき、計算どうり樽詰め後四日目に開け25人でそのすべてを飲んでしまったこと(今でもそのとき出席したメンバーは、酒の香りを壊さない絶妙のバランスで木香がついた、あのときの純を今でも忘れられづにいます)-----など私が現役の酒販店だったころは、特に楽しい思い出があります。
その中でも一番の思い出は、Tさん、S、Oの四人で、〆張鶴、八海山に行ったことでしょうか。 私自身はそのときすでに何回も行っていたのですが、四人で行ったのはこれが最初で最後でした。 今思うとこれは”貴重な体験”でした-----なぜなら、全国の”地酒専門店”の皆さんの中でも、この時代の〆張鶴や八海山の造られている様子を、直接目にしたことがある人がきわめて少ないからです。
また、何十年も一緒に ”飲み歩いていた”友達同士が、実は酒の好みについてはまったく正反対であることに初めて気が付き、「吟醸会」の席上で、お互いに好みの酒を抱え込み、子供の喧嘩のように「こっちの酒のほうが美味い」と周囲を巻き込んで言い合ったり、吟醸会会長のGさんに、「俺は子供のころから、刺身はごはんで食べるものだと思っていた。 ところがN、お前と知り合ってからいつの間にか気が付いたら、刺身で酒を飲むようになっていたし、飲む酒の量も増えていた。 Nよ、お前は悪い奴だ」と、笑いながら言われたことも忘れられない思い出です-----それは、すぐそばに漁港があり子供のころから新鮮な魚を食べ続けて人が、微妙で繊細な刺身の味を壊さず包み込んで、無理なく自然に自分も生きる淡麗辛口が、刺身に合っているだけではなく人にもやさしいことを、自分の身体で豪快に ”実証”してくれたからです。
今でもTさんのお店に行くと、G会長のような愉快で楽しい常連の誰かに会えます。 能書きも理屈もまったく言わない人達ですが、25年前と同様に、目の前のグラスに入っている酒が〆張鶴 純 だったり、八海山の吟醸(市販品)、千代の光の吟醸造りだったりします。 しかも、鶴の友の別撰や特撰の貴重な味とその価値を十分わかっていたりします。 そして、たとえ一人ワンショットグラス一杯分だけだとしても、非常に貴重な”鶴の友の非買品”の味も知っています。(私の地元は、新潟市以外で鶴の友を飲んだことがある人の割合がけっこう高いと思われます) 彼らは、大吟醸のレッテルや ”幻の”とかの ”形容詞”で酒は判断しません。 自分で飲んでみて美味いか不味いか-----判断はその一点のみです。 当然ながら、Tさんの ”肌の感覚”で身につけてきた ”酒の知識”は高いレベルにありますが、問われなければそれを語ることはありません。 もし、Tさんの口を開くことのできた ”庶民の酒飲み”のあなたは、楽しい気分で一杯になるでしょう。 酒も料理も、そして鮨も ”庶民の酒飲み”の払える金額です。 美味い酒を飲みたい ”庶民の酒飲み”にとって、Tさんの鮨店は、ちよっとした ”楽園”なのです。
追記
私の地元に住んでいる ”庶民の酒飲み”の中でも、Tさんの鮨店を知っている人はごく少数でしょう。 地元に住んでいながら、”庶民の酒飲みの楽園”を知らないことは、ある意味で ”不幸な”ことかもしれません。 Tさんも、「吟醸会」もけして閉鎖的なわけではありませんが、このブログで実名をあげるわけにもいきません。 もし、Tさんのお店に行きたい人が多くいる場合にのみ、後日”宝探し”ではありませんが、地元の人間にだけには分かる ”ヒント”を書きたいと思っています。