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のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
私は自分自身のこの”ギャップと違和感”を、自分の”主観”に過ぎないが”自己規制”することなく思いつき感じるままに書いてみようと試みました---------それゆえこのシリーズのタイトルを「日本酒雑感」としたのです。
”自己規制”をしないという意味は、現実は厳しいので結果はどうなるか分かりませんが、現実の「困難の羅列」を正面から見据えながらも、”流れ”に逆らわず現役の酒販店に”復帰”する方向を本気で目指そうとする気持になった私の”主観”を、できるだけ客観性を保ちながらも今まで以上に書いてみる------ということでした。
そして私自身の”ギャップと違和感”を、自己規制することなく”主観”を書くとなれば、
今まで詳しく書くことを避けてきた、伊藤勝次杜氏の生酛について書く”必要性”が浮上してきたのですが、ある意味でそれも”自然な流れ”でした。
私本人は、この「日本酒エリアN」の中では、特定の個人や蔵に対する”直接的批判”は慎重と言えるほど避けてきたと思っています。
伊藤勝次杜氏のいた蔵に対しても、批判をするつもりは私にはありません。
しかし伊藤勝次杜氏の”生酛単体”での本醸造・純米の発売の”経緯”についての、平成三年以降まったく縁の無くなったこの蔵の”公式見解”を私は直接には知りませんが、
たぶん私の”主観”と「整合性」が欠ける部分があることは、私にも想像できていました。
しかしこの蔵にも生酛自体にも、私が直接的に関わることは無いと思っていたため、”経緯”についても詳しい説明をする必要性を私自身は感じていなかったのです。
しかし伊藤勝次杜氏のいた蔵の現在の”情報や伝わり方”やネット上で知りうる現在の生酛の”情報や感想”は、私自身が直接体験する中で感じてきたものとは大きくその”姿”を変えている-------そう私は受け止めざるを得なかったのです。
私は、現在の生酛の直接的な情報は、まったくと言って良いほど持っていません。
私は生酛で造られていることが”プラス”でなく、むしろ”マイナス要因”として受け止められていた昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛に出会った”後遺症”のせいか、
「生酛で造られていること”自体”だけで価値がある」--------という”考え方”には、少し抵抗がありました。
私が知る”時代”とまったく違う「生酛の隆盛」が、もしその”考え方”に立脚し支えられたものであるなら、伊藤勝次杜氏の生酛の中でしてきた”私の仕事”はその多くが”無駄だった”ということになるからです。
そして、ある意味で現在真摯に生酛に取り組んでおられる杜氏や蔵人の皆さんには大変失礼な”私の誤解”なのですが、伊藤勝次杜氏をしても多大なご苦労と時間を要した「完成形の素晴らしい伊藤勝次杜氏の生酛」を超える生酛に、たぶん出会うことはもうないだろうと思ってもいたからでした。
日本酒雑感シリーズの中で伊藤勝次杜氏の生酛について書こう、と漠然とそう思っていましたが、違う内容を書いたつもりのNO1、NO2の続きが、”必然的”に伊藤勝次杜氏の生酛にならざるを得ない”流れ”に自然になってしまっていることに、一番驚いたのは私自身でした。
「結果的にはどうなるか分からないが、エンドユーザーの消費者の視点にも”対応”できる酒販店への”現役復帰”を目指すことを自分の中では決めた」私でも、気持の”完全な方向転換”は難しかったのですが、書いている記事のほうがその”方向転換”を促していたのです。
日本酒雑感NO3~NO8は、少なくても”私の主観”では、このようにして「書かされた」ものでした。
たぶん伊藤勝次杜氏のいた蔵の”正史”とは、かなり「整合性に欠けた」ものになっていると思われるのですが、たとえ私個人の”主観”であってもそれは私が「実際に体験した」ものである以上、極力客観性の保持に努めましたが、そう書くしかないものだったのです。
現在の”生酛の隆盛”の原点のひとつであると私には思える、伊藤勝次杜氏の生酛本醸造、生酛純米の「生酛単体での発売の”関係者”」は、蔵の内部の方々以外では、おそまつで能天気な外部の人間である私一人しか居なかったことは、たとえ蔵であっても否定できない”事実”でした。
誤解をして欲しくはないのですが、この蔵を批判するつもりは私にはありませんし、現在をも含めて”生酛そのもの”に否定的見解を持っているわけでもありません。
ただいろいろな”複雑な事情”で、その功績、貢献の大きさの割りに生前も亡くなられた後も
「正当な評価」を受けていないと私が痛感してきた伊藤勝次杜氏の、私にはごくふつうのおじいさんとしか思えなかった人の肌の温もりや息遣い、そして真摯な生酛への取り組みにいつも付随していた「自然の摂理に対する謙虚さ」---------それが一杯に詰まった伊藤勝次杜氏の
”仕事”を私に分かる範囲で書いておきたいという気持だけだったのです。
そして、もし”現役復帰”したら「このような杜氏が造る酒を売りたい」------そういう気持で書いただけなのです。
日本酒雑感NO3~NO8は記事の中にも書きましたが、伊藤勝次杜氏に対する私の”長い長い弔辞”のようなものだったかも知れません。
しかもその時期、短い期間でしたが伊藤勝次杜氏と一緒に”仕事”をした、私自身にしか書けないものでした。
蔵の方々はもっと”長いスパン”で伊藤勝次杜氏と一緒に”仕事”をしてきたため、蔵の”公式見解”が私の書いたものと違っていても、それはそれで”自然な”ことです。
しかし私の書いている「日本酒雑感」も、蔵の”公式見解”も「自分の立場から見た主観」であって「客観」ではありません。
私個人は、エンドユーザーの消費者にとっての「客観」は、いくつもの立場の「主観」を”比較検討し対照”することでしか確保されないと感じています。
それゆえ私は、自分が実際に見たり味わったり体験した範囲に限定されますが、自己規制をせずに「主観」をより今まで以上に書いていこうと思っているだけなのです。
自分自身でも呆れるだけではなく、疲れ果てるほど長々書いてきたこの記事もようやく終わりが見えてきました。
私は「日本酒雑感」のシリーズを書いていく中で、疑問というか、それを知りたいという欲求のようなものが(私自身にも具体的にはそれが何であるかよく分かっていなかったのですが)、常にあったように感じていました。
たぶんそれは通常に比べて、「主観」を知る機会の多かった酒販店としては”特殊な育ち方”と私自身の”立場の変化”の多さが造りだしてくれた「客観」と、”現役復帰”を目指す気持の「変化」が”化学反応を起こさない限り”発生”しない、疑問であり欲求であったかも知れないのです。
私が初めて早福岩男さんのお会いしたとき、あまりにも何も知らない私に”困惑”されたことは何回も書いています。
今まであまりに当たり前の私自身の体験した”事実”だったので、疑問が起きる余地はまるでなかったのですが、その時の(昭和五十年代初め)早福さんは越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱っていただけではなく、「すでに町の酒屋であり、早福さん」だったのです。
その時から懇切丁寧に私に教えようとしてくれた”早福哲学”は、私自身がおそまつで能天気だったため理解するのに長い時間を必要としましたが、今の自分自身にとって”早福哲学”は自然なものであるだけでなく、日本酒を主力に売っていこうとする酒販店にとって実践できるか実践できないかは別にしても、「当たり前の常識」となっています。
しかしその時から十年も遡らない昭和四十年代前半には、新潟県でも大手ナショナルブランド(NB)が圧倒的強さを誇り、新潟清酒は片隅に置かれ、新潟市の一流料亭で開かれた新潟県酒造組合の宴会にさえ新潟の酒が出てこなかった、という笑えない話があった--------と
嶋悌司先生が「酒を語る」の中に書いておられるような”状況”だったのです。
私は、嶋悌次司先生の「酒を語る」のこのページを読んだとき、「私が知りたかったことが何であったか」のを、ようやく”知る”ことができたのです。
海軍の話に例えて見ると、私が早福さんとお会いしたときの僅か7~8年前までは、新潟県も
「大艦巨砲主義」の真っ只中にあり、有力な戦艦を持つ灘、伏見の戦艦群を中心とするNB連合艦隊に”圧倒”され、”新潟県の海域”のある部分だけしか守れない”戦力”しか新潟清酒には無い”状況”だったのです。
しかし私が新潟に最初に行ったときには、新潟清酒はごく一部の蔵だけであったとしても、
後に「大艦巨砲主義」を淘汰することになる、現代の常識である「航空優先主義」に切り替わっており、搭載した16インチや18インチの巨砲をその”戦闘力”とするのではなく空母に搭載した航空機をその最大の”戦闘力”とする空母機動部隊を、まだ規模が小さかったが実際に運用し”新潟県の海域”だけではなく巨大な主戦場である”首都圏の海域”で、「戦果」を挙げ始めていたのです。
そしてそのときすでに早福さんは、新潟県に存在する五つの航空基地(酒蔵)から送られてくる高性能の艦載機(新潟淡麗辛口)を運用する巨大なプラットフォームを持つ原子力空母のような存在だったのです。
なぜこのような”転換”を新潟清酒は短期間で果たすことができたのか?
もちろん嶋悌司先生と当時の新潟県醸造試験場の淡麗辛口への「強力な働きかけ」と、淡麗辛口において”先行”していた「故石本省吾二代目蔵元の越乃寒梅」の存在抜きには、
新潟淡麗辛口の”成功”は語れません。
しかし私自身は、さらに、”酒販店の立場”で見ても一人の”エンドユーザーの消費者の立場”で見ても、早福岩男さんと早福酒食品店の”存在”がなかったら、新潟淡麗辛口の”これほどの成功”は難しかったのではないかと思われます。
それほど早福さんの存在は大きかったため、私だけに限らないと思われますが、私は「盲点、もしくは錯覚の中」に入り込んでしまったのです。
私が早福さんに初めて会ったときの僅か7~8年前まで、新潟清酒は嶋悌司先生が書かれたような”惨状の中”にありました。
その7~8年前の早福さん(私が会う以前の早福さん----以後IZ早福さんと書きます)も当然ながら、私の知る早福さんではなく灘、伏見のNBの攻勢に苦しむIZ早福だったはずです。
上記の”環境、あるいは情勢”に恵まれたとしても、7~8年でIZ早福さんが早福さんになるのは、限りなく”奇跡”に近い「普通ではないこと」なのに、私は見逃してしまったのです。
その7~8年間にIZ早福さんが”何をしたのか”は、当然ながら、私も知識としては知っていました。
「当時の新潟県に107あった酒蔵全部に行ったのか、それはすげーなぁ。新潟県醸造試験場に通って嶋悌司先生と知り合ったのか、それも凄いことだなぁ」--------と思っただけで”終って”しまい、その”凄さ”の本当の意味も分からず、ましてや肌の感覚でその”凄さ”を実感するなど当時の私にはまったく”不可能”だったのです。
私自身も、新潟県の(たぶんですが)20前後の蔵を直接訪ねています。
昭和五十年前半には、新潟県の一部の蔵では、他県の酒販店が訪ねてくるのは一般的ではないにしろ、さほど”珍しい”ことではなくなっていました。
私自身も、取引を求めての場合のほうが多かったのですが、八海山から千代の光への移動の途中に”勉強”のため数回寄らせてもらった雪中梅のようなケースも少なくなかったのです。
まだのんびりした”時代”だったせいか、突然訪ねていっても無理に取引をお願いしないかぎりは、雪中梅の丸山蔵元も(今考えると大変申し訳なかったのですが)親切な対応をしてくださったのです。
けして”卑下”でも”謙遜”でもないのですが、おそまつで能天気な私は「自分が何も分からない」を自覚していたため、その結果としてどの蔵に行っても「教えを請う謙虚な姿勢」にならざるを得なかったため、一度も”嫌な思い”をしたことがありませんでした。
しかしもし私が違う”態度”だったら、この時期の新潟でも、数年後私が伊藤勝次杜氏の生酛単体の発売を強く要望したときのような、「蔵の厳しい反応」を受けたと思われるのです。
早福さんの百分の一のスケールで、(時代の風潮も含め)百倍やり易い状況で、一万分の一以下の結果しか出せなかった(伊藤勝次杜氏の生酛やI専務の蔵に取り組んだ)私は、107のすべての蔵を訪ねたIZ早福さんの行動の凄さも、少なくても私の一万倍の成果を発揮することになるIZ早福さんの「蔵への働きかけ」の凄さも、ようやく今になって実感できるようになり、気の遠くなるような心境なのです。
たぶんIZ早福さんの「蔵への働きかけ」は、蔵から「厳しい反応や反発、慇懃無礼や慇懃無しの無礼、無視」------初期ほど厳しいリアクションをよんだと思われるのですが、蔵の反応の”根底”には、「酒造りの素人の酒販店に、酒造りの何が分かる」という気持があったと思われます。
そのことがあったため、(もちろんIZ早福さんに好意的で協力的な蔵も少なくなかったと私にも想像できますが)、IZ早福さんを”酒の勉強”へ向かわせた気持は尋常なものではなかったと思われるのです。
話として早福さんから聞くと、”酒の勉強”のため新潟県醸造試験場に通っているうちに嶋悌司先生と親しくなったということはごくふつうのように思えてしまいますが、実際にはとうていふつうでは有りえない”話”です。
そもそも、酒販店が酒の勉強のため醸造試験場に通うということ自体がふつうではないし、
後に新潟清酒を一変させる”原動力”になる、気鋭の研究者であり技術者であった嶋悌司先生と知り合い親しくなることは絶対にふつうでは有りえないことです。
嶋悌司先生の”厳しい目”で見ても、IZ早福さんの酒に対する”打ち込み方”は、竹刀ではなく真剣を振るっている---------そのように見えていなければ不可能なことだったと、そのおそまつさ加減と能天気振りを”極楽とんぼ”とかつて嶋悌司先生に評された私は、今はそう痛感せざるを得ないのです。
嶋悌司先生の「酒を語る」のあるページを見たことが、「盲点、あるいは錯覚の中」から抜け出るきっかけになったことを、艦船に例えて言うと、
日本酒業界にいたときの私に見えていた”早福さんの凄さ”は、船団護衛用の小型駆逐艦の艦橋からの視界と装備するレーダーの捜索範囲に限定されたものだったのです。
しかし平成三年に日本酒業界を離れ、良くも悪くも色々な「日本酒業界外」での経験を積み上げる”長い時間の中”で、かつての自分の”体験”を客観的に見れるようになっていく中で”現役復帰”を目指す気持になっていくことは、自分が知らないうちに小型駆逐艦にSH-60Bクラスの哨戒ヘリが搭載され、自分が分からないうちにその発艦準備をしていたような”作業”だったのかも知れません。
そしてその哨戒ヘリが発艦して上空に舞い上がったとき(嶋悌司先生の「酒を語る」を見たとき)、突然私の視界とレーダーの捜索範囲が大幅に拡大し、海上から見える原子力空母とは違う”本当の姿”を垣間見ることできた-------ということだったように思えるのです。
私は、”現役復帰”を目指す気持の中で、漠然とですが「今後日本酒を主力として売っていく酒販店はどうすべきか、どうあるべきか。自分はどうすべきか、どうあるべきか-------」を考え続けてきたことが、たぶん、この「日本酒エリアN」を書くことそのものだったような気がしています。
おそらく”そんな気持”が無ければ、ここまで書き続けることはできなかった------そう思えるのです。
そしてようやく「その解答」が、私が初めて会った、五枚の看板を掲げ成功した早福酒食品店店主の早福さんではなく、私が会うことができなかった昭和四十年代半ばのIZ早福さんの中にあることに気づいたのです。
私だけではなく大勢の人達が知識として知ってはいるが、肌の感覚としてはほとんど実感できていない、早福酒食品店を早福酒食品店たらしめたIZ早福さんの”動機”は何だったのか?
私には想像も出来ない「数々の困難や挫折の危機」に遭遇しながら、潰れること無く乗り越えられたのは何故なのか?
そしてそれを支えたのは何であったのか?
私は、原子力空母の早福さんではなく、自分の存在する”海域”で苦戦しながらも将来を見据えた”戦い”をしていた大型駆逐艦のIZ早福さんの中に、私の求める”答え”があることを確信したのです。
そしてIZ早福さんの成功につながる部分を勉強し、IZ早福さんの成功への道の過程の裏側にあった「忍耐や失敗、不本意な結果」はさらによく勉強し、小さい自分の器量の限度一杯までそれを学び自分なりに実際の行動に移す--------その中にしか私の求める「解答」はないのと思えるのです。
亡くなられた伊藤勝次杜氏には、残念ながら、聞きたいこと知りたいことが私の中にまだ残っていても、直接尋ねることはできません。
しかしIZ早福さんのことは、直接早福さんご自身に尋ねることができるし〆張鶴の宮尾行男社長にも鶴の友の樋木尚一郎社長にも伺うことができます。
それゆえ私は、今年はどうしても新潟に行きたいのです。
そしてお忙しい早福さんや、宮尾社長、樋木社長には大変申し訳ないのですが、久しぶりにじっくりとお話を伺いたいと強く希望しているのです。
私は今、早福さんにお聞きしたいことが、本当に数多くあります。
そして、日本酒にとって昭和五十年代よりはるかに厳しい環境の現在であっても、「日本酒は面白くて楽しい」ものであることには変わりはない、とも思っています。
その気持を持ち続けながら”酒販店に現役復帰”しようと考えたとき、IZ早福さんに学ぶべきことで私がまだ学んでいないことが数多く残っている-------今の私はそう痛感しているのです。
この長いブログのスタートです--2009アップデイト版は、ようやく書き終えてみると、私自身が知りえた範囲内に限定されているという意味での、(早福さんやその周囲の方にお叱りを受けそうですが)、「私的 早福岩男論」とも言えるようなものになっているような気もします。
酒販店として「特殊な育ち方」をし、自分自身の選択で日本酒業界を離れる「選択」をした私が今”現役復帰”を目指している-------その皮肉さに私自身も”苦笑”を禁じ得ないのですが、
そうゆう「経歴」を経なければ実感できることのなかった、IZ早福さんが何も無い原野を切り開きIZ早福さんしか造れなかった「町の酒屋」への道を、何も分からず何も知らない状態でも歩かせてもらえたことに、本当に感謝の気持を感じています。
その道があったからこそ、長い間道草を眺めて立ち止まっていても道から離れることが出来ずにいた私にも、「もう少し先へ歩いてみるか」-------そう思えば実際に再び歩き始めることができる可能性が、まだかなり多く残されているのですから--------------。