この長いブログのスタートです--2009アップデイト版は、当初は日本酒雑感--NO10として書き始めたものでしたが、書いているうちにその長さも内容も私が一番最初に書いた「長いブログのスタートです」に近いものになってしまったため、記事の名前を途中で変更したものです。
そのためもともと長い記事が多い、私の書いたものの中でもきわめて長いものになってしまっています。
あえて読んでくださる少数の、私にとって大変ありがたい方々には、大変申し訳ないのですが、「とんでもなく長いこと」をご了承いただきたいとお願い申し上げます。
周囲の人間にも指摘され自分でもそう思うのですが、鶴の友についてシリーズ、日本酒雑感シリーズも一番最初に書いた「長いブログのスタートです(2005年8月)」の延長上にあり、その範囲から出ていないような気がします。
もちろん、「長いブログのスタートです」から4年弱が経っていますので、さらに詳しく書いたりアップデイトされた部分も少なくないのですが---------。
自分でも苦笑してしてしまうのですが、私自身の日本酒に対する”考え方、感じ方”は、30年前も現在もあまり変わっていないのかも知れません。
良くも悪くも私自身も”頑固”なのかも知れませんが、日本酒業界の人間としての”主観的見方”の前半と、エンドユーザーの消費者としての”客観的見方”の後半---------このふたつの立場を経験したための”後遺症”とも言えるのかも知れません。
日本酒業界の人間は(酒造も酒販も問わず)、日本酒を意識して客観的に見ようとしても、それには限界があります。
一方、エンドユーザーの消費者の立場でもやはり知れることには限界があり、日本酒(酒造・酒販)の”現場”を本当に知る機会はあまりないのです。
業界の人間としての私は、酒販の”現場”を十数年に亘って体験してきました。
まだ新潟淡麗辛口が知られていない、生酛にいたっては業界の人間にすら忘られかけていた昭和五十年代前半という”タイミング”と、〆張鶴、八海山、千代の光、國権、伊藤勝次杜氏の生酛という銘柄と、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)、鶴の友・樋木尚一郎社長に代表される人によって”構成された環境”を与えられた私の”酒販の現場”は、今考えてみても、かなり恵まれたものでした。
しかし、かなり恵まれていたということは、”楽だった”ということを意味してはいません。
忙しく動き回ってうちに、ふと気がついたらジェットコースターに乗っていたようなもので、むしろ”楽ではなかった”と言ったほうが当たっているかも知れません。
偶然に次ぐ偶然が造り出した”流れの結果”、(特に最初のうちは)例えて言うと、運転免許取立ての若葉マークの私がいきなり鈴鹿サーキットを走ってみろと言われたようなもので、ストレートでもスピン、コーナーでもスピン、ブレーキを踏んでもスピン、シフトチェンジをしてもスピン------------今思い出すと自分でも冷や汗が出る、まったくとんでもないものだったのです。
「何でこんな破目になってしまったのか」と、おそまつで能天気だった私が後悔したのは一度や二度ではありませんでした。
しかしそれでも”逃げ出さなかった”のは、新潟淡麗辛口そのものの魅力とともに、新潟淡麗辛口に関わる人達の”人の魅力”に強く惹かれたからだと思うのです。
今振り返ると、私にとって本当に大きくありがたいことだったのですが当時の私は、不埒にも、
「何で自分がこんな目に遭うんだ」と不満たらたらの気持もかなりあったのです。
「他のことは当てにも頼りにもならないが、Nよ、お前は日本酒のことだけは首尾一貫してぶれなかったなぁ。 他のことでもそうだともう少しマシな男になれたんだがな-----」
褒められているのか、貶されているのか判断が”微妙な表現”で吟醸会のメンバーや友人に言われ、「日本酒のことの一割でも熱心にやってくれたら-----」と妻にも息子にも、私はよく言われています。
新潟淡麗辛口に出会っての1~2年の間の私は、鈴鹿サーキットをどう走ってもスピンの連続で、その結果少々のスピンでは”驚かなくなった”若葉マークのドライバーのようなものでした。
スピンしても”命に別状が無かった”のは周囲のおかげですが、スピンし続けるのも”物心両面”で本人にとっても楽ではなかったのです。
いくらおそまつで能天気な私でも、できればスピンはしたくないので、スピンしないで走れる方法を諸先輩に聞きそれを実際に走って試し、それでもスピンしたらさらに聞きまた実際に走って試し、それを私は繰り返したのです--------そうしているうちにいつの間にかスピンする回数が少しずつ減ってきたように思えるのです。
聞く相手は、もちろん〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)・宮尾隆吉社長(故人)、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)、千代の光の池田哲郎常務(現社長)が多かったのですが、中でも酒販店の大先輩である早福岩男早福酒食品店社長(現会長)は私にとってきわめて大きな存在でした。
早福岩男さんに私は、”幼稚園レベル”の初歩の初歩から「酒を売ることの意味」を教えていただきました。
早福さんに接したことのある人が等しく感じるように、早福さんはきわめて魅力のある優しく大きな、そしてとても気さくで面白い方です。
以前にも書いたとうり、私は〆張鶴・宮尾隆吉社長(故人)の紹介で早福さんを訪ねたのですが、その〆張鶴や取引を始めていた八海山のことさえ”ろくに知らない”私に、早福さんも”困惑”されたと思われます。
控え目に考えても当時の早福さんは、原子力空母のような大きさと存在感がありました。
それに比べ私は、最大限の拡大解釈をしても、せいぜい”ゴムボート”でした。
現在の私が思う早福さんの最大の”凄さ”は、ゴムボートを”萎縮”させないために、ご自分の原子力空母のような巨大な存在感を、FRPのボートのレベルまで”矮小化”し接してくれたことだと思うのです。
その結果、実際には桁が四つも五つも違う差があるにも関わらず、努力すればいつか私にも手が届きそうな”差”に思え、軽妙洒脱な早福さんの話を聞いているうちに”萎縮”するどころか元気と希望が”湧いてくる”のです。
その状況は物理的にも精神的にも”心地良い空間”で、離れがたいものがあります。
実際には”巨大な差”が存在しているにも関わらず、まるで早福さんのふところに抱かれているような”短刀の間合い”では、その”巨大な差”を意識することなく「親しみを覚える近い関係」と思えてしまうのです。
今の私には、それが早福さんのふつうでは有り得ない”凄いところ”であり、ふつうのレベルでは有り得ない”優しさ”だと感じられてならないのです。
早福さんとの間に存在した”短刀の間合い”は、酒について何も知らず何も分からない私にとって、本当にありがたい”心地良い”ものでしたが、幸か不幸か私はまるで違う”間合い”も同時に見ていたのです。
その”間合い”は、ある意味で”短刀の間合い”と対照的なものでした。
その”間合い”とは、
- 早福さんにお会いする前に、私は〆張鶴、八海山との取引を開始しており、蔵の視点で見た”新潟淡麗辛口像”を聞かせていただく機会があった。
- 早福さんにお会いした直後に、池袋甲州屋酒店・児玉光久さんにお会いし児玉さんがその中心にいた「M会」の酒販店の皆さんの、早福さんとはまったく違う”地酒の売り方”を見せてもらう機会があった。
- 新潟に行き始めた1~2年後に、私に限らないのでのですが”短刀の間合い”の心地良さの中で勘違いしがちな、「原子力空母と自分はそんなには大きな”差”がないのだから、そのうちヘリ空母くらいにはなれるか」--------私のおそまつで能天気な”思い上がり”を、好意的な思いやりの気持から容赦なく徹底的に叩き潰してくれた、鶴の友・樋木尚一郎社長との出会いがあった。
1~3が造ってくれた、”短刀の間合い”より少し後ろに下がったためその背景も含めてやや全体が見やすい、”槍の間合い”と言うべきものだったのかも知れません。
この”槍の間合い”は、原子力空母がゴムボートに近いところまで”矮小化”してくれるなど考えられない、ゴムボートはゴムボート以外の何者でもないことを思い知らされる”間合い”だったのです。
同時に存在した”短刀の間合い”、”槍の間合い”の間で、混乱しながらも「日本酒の”にの字”も知らなかった」私はせめて”にの字”くらいは分かりたいと走り回ったのですが、それはさらなる”混乱と忙しさ”を造り出したのです。
その間の数年は、〆張鶴や八海山、千代の光そして早福さんへは年間4~5回は行き、鶴の友・樋木尚一郎社長のお話も伺い、その他にも「M会」関係の集まりに参加したり甲州屋酒店・児玉光久店主に会いに行ったり、取引をしていない蔵を訪ねたりと忙しい日々を送ったのですが、動けば動くほどその”混乱”は増し、その一方自分の店では「売る本数より投げる本数のほうが多い」状態が続き、動けば動くほど単に忙しいだけではなく”スピン”の回数が増える--------という状況になっていました。
この”混乱”の数年はの経験は、どうやら私にとって「絶対必要な体験」だったようです。
大スピンを繰り返しながら、ラリーに例えてみると、ターマック(舗装路)だけではなくグラベル(未舗装路)でもコーナーを派手な四輪ドリフトで大きくスライドしながら走っていく運転は、能力も無く感性にも恵まれていない私には向いておらず、基本で原則でもあるスローイン・ファーストアウト、アウト・イン・アウトを守り、極力スライドをしない走りのほうがどうやら私には向いていることを、”その数年”で感じるようになったからです。
言い換えればその数年は、”槍の間合い”から早福さんのとられた”売り方”を眺める作業のために「絶対に必要な体験」だったとも思われるのです---------なぜなら、早福さんだけではないいろいろな人の、「こうしたほうが良い」というご好意でアドバイスしてもらったことを素直にやってみる中で、早福さんの”売り方”が自分にとっても「原則を守った自然なもの」であるように感じるようになっていったからです。
しかし、「原則を守った自然な考え方」だと分かることと、それを実行することの間にはきわめて”遠い距離”があり、それが自分にとって自然なものになるにはさらに”もっと遠い距離”があることを、残念ながらこの時期の私は、あまり分かってはいなかったのです。
それでもこの数年で私は早福さんの”売り方”が、その根幹にある考え方をほんの僅かしか理解できなかったにせよ、”方法論”として自分にとっても合ったものだと実感し”迷い”が少なくなっていったのです。
「絶対に必要な体験」の数年を過ごした後は、混乱も収まりつつあったことが店の”営業”にも好影響を与え始めていました。
時間の経過が味方になったこともあり、〆張鶴や八海山は”投げる本数”がほとんどなくなり新潟淡麗辛口の存在は私の店にとって、残念ながら、店を支えるほど大きくはありませんでしたが、”特徴”として周囲のエンドユーザーの消費者に知られ始めていました。
しかし”特徴”はそれ以上でもそれ以下でもなく、直接の売上や利益にはあまり貢献していなかったのですが、たとえ少数のエンドユーザーの消費者であっても”認知”され始めていたいたという事実は、今振り返ると大きなものだったかも知れません。
私自身の”実感”では、最初の1~2年同様”苦戦”し続けているのには変わりはなく、売れる本数の数字の桁がひとつ増え”道楽の範疇”を超えてしまったため、”苦戦の度合い”が拡大していると感じていたのです。
しかしおそまつで能天気な私もほんの少しは”成長”していたのか、このころ早福岩男さんの姿が最初のころとは”違って”見えるようになり始めていたのです。
最初のFRPのボートから、モーターボート、そしてそれがクルーザーになり駆逐艦の大きさに見え次には巡洋艦にと、時間が経てば経つほど自分との大きさの”違い”が見えてきました。
ある意味で大スピンの中でも一番目立つ大スピンと言えた、伊藤勝次杜氏の生酛に関しての”自分の仕事”を終え、嶋悌司先生の”最後の仕事”の久保田に参加していくころには、はっきりと原子力空母の”船体の大きさと舷側の高さだけ”は実感していたと思われます。
久保田の発売は、新潟淡麗辛口の”戦い”を全国に拡大する結果をもたらしました。
その台頭は海戦に例えると、関東という”海域”から日本全国という”大海域”で戦いが始まったことを意味しています。
私は、その大海戦の中心戦域から遠く離れた戦域の半径20~30kmの海域で、ただ一隻で対空・対艦・対潜戦を戦っていました。
このころの私は、最大限の拡大解釈をすると、フリゲートといったほうが正しい護衛用の小型駆逐艦程度の存在だったかも知れません。
小型駆逐艦の割にはシースパロー(短距離艦対空ミサイル)、ASROC(対潜ロケット魚雷)、ハプーンSSM(艦対艦ミサイル)の高性能兵器に例えられる、〆張鶴や八海山を”装備”していても小型駆逐艦のためかなり無理して積み込んでも、その”装備弾数”には悲しいほどの限界がありそのすべてを打ち尽くし、残るは艦載砲のゆえに搭載弾数が比較的多い対空・対艦両用のOTOメララ3インチ砲(久保田)のみ-------という状態で”苦戦”しながらも与えられた海域を守ろうと、ぎりぎりの”戦い”をしていたと思えるのです。
守りきれるか、守りきれないか先の見えない局面でも”何とか”戦い続けられたのには二つの理由がありました。
ひとつは、十年に近い「大小のスピンの連続」の経験のおかげで、「失敗に近い状態」でも私が驚かなくなっていたこと、ふたつめは小型駆逐艦には”分不相応な”リンク11・14というデータリンクの装置を持っていたため、新潟連合艦隊が各海域で各艦隊、各戦隊が勝利を収めつつある情報をリアルタイムで得ていたこと---------それが”戦い”を継続できた大きな理由だったのです。
今振り返るとこの時期の私は、あらゆる面で”苦戦状態”で小型駆逐艦である自分自身の限界を思い知らされていたのですが、それでもきわめて遅いスピードであっても少しずつ”成長”していたのかも知れません。
この時期私は久保田の展開に参加していたため、大変ありがたいことに、嶋悌司先生と直接個人的に接する機会が得れるようになっていました。
(以前にも書きましたが、私は、嶋悌司先生には個人的にも大変お世話になりました)
そのことも手伝い、私は早福さんに会うたびに、そのたびごとに早福さんの姿が”違って”見えました。
言い換えれば、ゴムボートの”積載量”の限度のぎりぎりまで見せてくれていた「早福さんの姿」を小型駆逐艦の”満載排水量”の限度一杯まで見せてくれるようになった---------この”経験”が以前に書いた、「早福さんは、早福さんを訪れる人にとって、自分自身が映る”鏡のような存在”だ」という言葉の私なりの”裏付”なのです。
私は、新潟淡麗辛口の”大攻勢の成功”のデータがリアルタイムで流れてくるリンク11・14以外の、データリンクも維持していました。
その中で最大で最重要なのは、鶴の友・樋木尚一郎社長とのリンクでした。
そのリンクは、新潟淡麗辛口の”成功の兆し”を送ってくるリンク11・14とは、ある意味で”別次元のはるか遠く”を見据えたものでした。新潟淡麗辛口の大攻勢が、成功の兆しが十分にあっても成功したとは言えない時期に、
そのリンクは「大攻勢が成功した後の状況」を的確に”予言”したものだったのです。
その”予言”は否定したいものだったのですが、残念ながら、私自身も否定しきれない”予言”だったのです。
現状でも小型駆逐艦の”能力不足”を痛感していた私は、もし”予言どうりの状況”になるとしたら、それでも今の海域で存在し続けるためには、できるかできないかは別にして私自身を小型駆逐艦から大幅にグレードアップする必要性を痛感したのです。
そのグレードアップとは、艦船に例えると、単独航海能力と戦闘能力を増強するため基準排水量5000トン以上の大きさを持ち、武器の搭載数を飛躍的に増やしながらリアクションタイムを向上させるために垂直発射ランチャー(VLS)を搭載し、その能力を活かすためFCS-3Bクラスのレーダー・射撃管制装置を持ち、SH-60Bクラスの哨戒ヘリコプターを2機搭載し今より広い海域で単独でも戦え、空母機動部隊の随伴護衛艦としても対応できる汎用大型駆逐艦レベルを目指すことでした。
そのグレードアップが以前から必要であることは私なりに分かってはいましたが、”対内的な摩擦”が激化することを恐れたため踏み切れなかったのです-----しかし、たとえ対立が決定的になったとしてもやるしかない状況になっていました。
そのグレードアップはある意味で成功し、別な意味では失敗したと言えました。
だんだん目標に近い線での戦いができるようになり、「やれるかも知れない」と思えるようになったのは成功と言えましたが、”対内的対立”が想像以上に決定的になり私が実家を出て”日本酒業界”を離れることになったのは失敗と言えました。
しかしそれも、私にとっては”必要な失敗”だったのかも知れません------今の私にはそう思えています。
対内的摩擦やしがらみも無く、対外的にも日本酒業界の一員としての”政治的立場”も必要無く、自分の店を守るための”配慮”も必要なく、(あくまで個人の意見にしか過ぎませんが)自分自身の日本酒に対する”本音”を自由に話せるようになるためには、この失敗は私にとって”絶対に必要な失敗”だった--------ほろ苦く思う部分もあるのですが、私はそう感じてきたのです。
もちろん現在の私にも”摩擦やしがらみ”、”配慮や我慢”も当然ながら十分に存在しています。
平成三年以降日本酒についてだけはそれがあまりなくなった------ということだけに過ぎないのですが、当初の1~2年は弱くはない”寂しさ”と同時にある種の”開放感”も感じていたのは事実でした。
「たぶんもう日本酒とは関わりを持たない人生になるだろう-----」と、かなり本気の”悲壮な覚悟”をしていたはずの私が、現在の”位置”まで入り込んでしまったのにはふたつの理由があったのです。(これも以前に書いたことですが-------)
- ひとつめは、〆張鶴の宮尾隆吉前社長の訃報をお聞きし、遅ればせながら新潟に三年ぶりに行き新潟の皆様の変わらぬ暖かいお気持に接しさせていただき、「自分がそれを失ったら自分ではなくなる」と思っていることの多くが”日本酒の世界”によって造られていたことを、改めて実感したこと。
- 現役の酒販店のときより”距離”が縮小して、直接お会いする機会も電話でお話する機会もはるかに多くなった鶴の友・樋木尚一郎社長の、”予言”そのものと”その予言がでてくる源泉”をより深く知りたくなったこと。
- ふたつめは、エンドユーザーの消費者としての私が、日本酒については、きわめて例外的で非常に恵まれていることを、残念ながら改めて強く実感したこと。
ふたつめはある意味で強い衝撃を私に感じさせたのです。
自分が十数年かけて、周囲に薄くはないと思える「日本酒の面白さと楽しさ」を理解してくれている層をある程度は造れた-------そう私は思い込んでいたのですが、エンドユーザーの消費者の”庶民の酒飲み”全体から考えると、その層は紙一枚のような薄さしかなかったのです。
私や私の周囲にいた人達にとって当たり前のことが当たり前ではなく、当然知っていたり実際に体験できていることを、知る機会や体験できる機会がない人達のほうがエンドユーザーの消費者の圧倒的なほどの大多数を占めている-------日本酒業界にいたときには目に入っていなかった”当然の事実”を改めて痛感させられたからです。
しかし同時に、その大多数の中に知る機会や体験する機会さえあれば、”無関心や否定的見解”から180度変って「日本酒のファン」になってくれる人達が存在していろことも知ることになるのです。
「日本酒ですか? あのツーンとくる熱燗の匂いがどうも苦手で-------」
私にとっては、”根本的誤解”としか思えないことが”大多数の常識”だったのですが、
「本来の酒の香りはとても良いもので、皆さんが思われているのとはまったく違うものです」と、私がいくら”力説”しても、言葉の力だけの”説得力”には限界がありました。
そこで、会社員となってからも冬のシーズンには周囲の人に”配って”いた、当初は〆張鶴、後には鶴の友と千代の光の”酒粕”の数量を増やして送っていただき、”誤解している”人達にも”配る”ことにしたのです。
”誤解”を解いてもらうために、〆張鶴や鶴の友そのものを”配る”ことは”貧乏な私”には無理でしたが、〆張鶴や鶴の友、千代の光の香りが強く残っている”酒粕”を50~60kg余計に”配る”くらいは出来る--------と考え始めたことでしたが私自身が”困惑”するほど好評で、
毎年その数量が増えていき現在は300kgを超えるまでになっています。
もちろん”酒粕”によって、「酒の香りの良さ」を分かってもらう当初の目的は十分以上に達成されたのですが、それだけではなくきちんと造られた日本酒を造り出す蔵の”酒粕自体”がエンドユーザーの消費者をこれほど”喜ばせる”ものであることを、私は改めて思い知らされたのです。
そして”誤解”を解いてもらうために”酒粕”を配り始めた私は、皮肉なことに、”酒粕”に対する私自身の”誤解”を、その”酒粕を配る”ことによって”正される”ことになるのです。
私には子供のころから可愛がってくれた母方の叔父夫婦がいます。
酒を飲まない人なので”酒粕”は必要無いと思い、30年前から配っていたのに持っていくことはなかったのですが、10年ほど前にあることから叔父も叔母も三人の従妹も実は”酒粕”から造る甘酒が大好物であることを知り、自分の迂闊さに恥じ入ったことがありました。
現役の酒販店時代の私の店に来店される人のはとんどは、当然ながら”酒飲み”でした。
したがって”酒粕”を配って喜ばれるのも、ほとんどが”酒飲み”で、「アルコールに弱いため酒は飲まないが、”酒粕”は大好きだ」と言う、薄くはないエンドユーザーの消費者の層が存在していることが”目に入って”なかったのです。
つまり私は、日本酒には「日本酒そのもののファン」と同時に「日本酒の酒粕のファン」が存在していることを、まったく分かっていなかったのです。
現役の酒販店時代の私は、「日本酒について自分はある程度は分かっている」と”誤解”していました。
もちろん少しは知っていたのですが、その「知っていた事」が限られた狭い範囲に限定されていたという”事実”を知らなかったのです。
言い換えれば、私が知っていると思っていた日本酒は、「その日本酒を売って飯を食う立場の酒販店の視点」から見た視野に限られたものだということが、まるで分かってなかったのです----------たぶんおそまつで能天気な私は、業界を離れることがなければ、今もその”事実”にまったく気付いていなっただろうと痛感しているのです。
エンドユーザーの消費者として”新米”の私は、”酒粕に対する誤解”のように教えられ分からされる点が多かったのですが、私自身の「日本酒に対する知識とキャリア」が周囲の人達の”役に立つ”ことも同時に感じていました。
「〆張鶴や鶴の友、千代の光の、欲しいだけの本数を私の県の酒販店で買い求めるのは事実上不可能のため、蔵元や早福さんにお願いして送ってもらっている」--------自分で思ってもこれは”嫌味”なくらい恵まれていたことでしたが、新潟の標準小売価格に運賃が加えられた価格であっても、私の県の酒のディスカウント店やスーパーで”プレミアムがついた価格”で求める場合よりかなり下回る”ふつうの価格”で、しかも”品質の保全”にまったく問題のない酒を実際に飲める”状況”は私の周囲では歓迎されていました。
上記のような”酒のボランティア”は、「盆、暮れの年間二回に限られて」いましたが、要望があれば國権について--NO3に書いたように”ミニ試飲会”をやることもありました。
そんな状態が十年ほど続いたとき、また私の周囲には薄からぬ「日本酒のファン」の層が存在していたのです。
私はそんな十年を過ごしながらも、ある時点から、”自分のボランティア活動”の限界を感じ始めていました。
「たぶんエンドユーザーの消費者の中にさらに多くの”潜在的日本酒のファン”が存在しているが、休日利用の自分の活動には物理的限界があるし、〆張鶴や鶴の友を飲んでもらえる本数にも限界があり、自分だけではこれ以上は拡大するのは難しい--------」
と、思い始めていましたが同時にこの十年の”経験”で、
「もしこんな日本酒や蔵が地元に存在し、その酒をふつうに晩酌で飲めたらエンドユーザーの消費者の大多数を占める”庶民の酒飲み”に喜ばれ強く支持されるのでは------」というイメージも具体的に脳裏に浮かび始めていたのです。
その時期の日本酒業界は、平成の初めのころの”逆行”が結果として現われ、焼酎の急上昇とは対照的なはっきりとした”低落傾向”にあり、エンドユーザーの消費者の支持を受けているとは言えない状況にある--------と、私個人は感じていました。
「エンドユーザーの消費者の視点から見てどうあるべきを考えないと、先は大変なことになるかも知れない」--------業界を離れても付き合いのあった酒販店の後輩達に、私の”強い懸念”を伝えても積極的な否定はなかったものの、現状ではそれは無理で先の課題だという”返答”が返ってくるだけでしたが、それは昭和五十年代前半の鶴の友・樋木尚一郎社長のご好意での厳しい指摘に対する私自身の”返答”によく似たものでした。
現在もそうですが、特に業界を離れてのこの十年は、鶴の友・樋木尚一郎社長の「樋木ゼミの出来の悪い学生」として私は過ごしてきたような気がしています。
いくらおそまつで能天気な私でも、長い時間をかけた”質疑応答”のおかげで(エンドユーザーの消費者の視点から見れるようになったことも手伝い)、樋木社長の”予言”の源泉である「酒は面白くて楽しいもの」、そして「酒は庶民の楽しみ」の言葉の意味を少しは理解できるようになっていました。
その「樋木ゼミ」の中で、自分の小さい”許容量”の限度一杯に取り込んだ”考え方”から生じる、「危機感とそれに対する対策」を後輩の酒販店に伝えたかったのですが、残念ながら”切迫した感覚”としては伝わらなかったようです。
私は、その”危機感”に対して自分が何もできない立場であることを”残念に思う気持”が時間が経てば経つほど大きくなり、ついに「チャンスが来たら、自分の立場の限界ぎりぎりまで自分のやれることをやろう」という気持になっていったのです。
そして六年ほど前にそのチャンスがめぐってきました。
普段はあまり見ることのない県内のみの新聞が、県内の蔵の紹介のシリーズを掲載しておりたまたま私が見た日に、販売量が200石(一升瓶換算で2万本)の小さな蔵が紹介されていました。
その蔵の若いI専務は一年前までは銀行員だったが、飲む人達が飲みたいと思う酒を造って蔵を受け継いでいきたい--------そのようなインタビューの内容だったと記憶しています。
実はその蔵には、私は業界を離れる数年前に行ったことがあり、設備も古い小さな蔵でしたたが良い印象の記憶が残っていました。
そして仮に”取材向けの発言”だとしても、若いI専務の発言に「もしかしたら------」という可能性を感じたのです。
私は早速”無謀”にも、蔵の専務に連絡をしてみました。
幸いにも、いきなりの電話にも関わらず、I専務は私と会ってくれることを了解してくれました。
後日、I専務が話してくれたのですが、私が業界を離れた後に僅か三千部しか発売されなかった、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)のことが描かれた「町の酒屋」という本を読んでいて、その本の中の私が現役の酒販店のときに書いた”作文”をも見ていたため、I専務は私の名前は知っていたそうです。
私はI専務に”私の考え”をぶつけてみました。
そして改めてこの蔵を見せてもらったのですが、十数年前とまるで変わらない古い蔵のままでしたが、私自身が年を重ねたせいか、十数年前とは違いその古さが貴重なもののように私は受け止めていました。
この時点でも、I専務の蔵に限らず地方の小さな蔵のほとんどは、続くか続かないかの”綱渡り”をしているようなものでした。
その現状の打破の突破口にしようとして、I専務の強い希望で造られた特別本醸造と(私自身の希望で)一番価格の安い普通酒を飲ませてもらいました。
どちらも南部のベテラン杜氏によって丁寧に造られたもので、「氏素性の良さ」を感じさせる酒でしたが、ある種の微かな”違和感”を私は感じていました------そしてその”違和感”は普通酒よりも特別本醸造のほうにより強く感じられたのです。
その”違和感”は、例えてみると、直接見ることはできないが潮風の存在で海が近いことが感じられるのに、サーフボードやスキューバダイビングの道具ではなく、山登りの道具や装備を一生懸命に揃えている-------そんな感じのものでした。
やや大袈裟に誇張して言うと、相反するものを一本の酒の中に”同居”させようとしているために、酒自体のバランスがやや崩れていて芯が強いとは言いにくい仕上がりになっていたのです。
「もしかしたらI専務が意図した、南部杜氏が得意とする華やかな香りと豊かなふくらみを9号酵母でだそうとした狙いが、I専務の蔵の古い蔵自体が持つ淡麗なタイプになりがちな”傾向”とバッティングしたからではないか? そうだと仮定すれば特別本醸造よりごくふつうに造られた普通酒のほうに”違和感”が小さかったことが説明できる」--------伊藤勝次杜氏の生酛のときにも感じたものと同じような”直感”を、私は感じていたのです。
その”直感”は、私の体験や経験から”帰納法的”に導き出されたもので、けして”根拠”がないものではなかったと”主観的”には思っていますが、私個人の”感覚”であるため私自身にも”絶対的な自信”もなければ”客観的証拠”もなかったのです。
しかしI専務が意図して造った特別本醸造がエンドユーザーの消費者、特に私の周囲に存在するエンドユーザーの消費者に、評価されにくい”酒質の形”であることだけははっきりと私には認識できていたのです。
I専務の率直な姿勢に好感を持った私は、言うか言うまいかかなり”迷った末に”、私も率直に言うことを”選択”しました。
「私自身の感じだけかも知れないですが、この本醸造はI専務の蔵自体が持つ”自然になりがちな酒質の方向”に逆行しているような気がします。
十数年前の酒質は、越後杜氏が造っていたせいもあったかも知れませんが、淡麗なタイプだっとの記憶が私には残っていいます。
そして特に”意図”を持たずに造られた普通酒には、そのときの記憶を感じさせる部分がより強く残っているような感じがします。
私の感じていることが仮に正しいとしたら、I専務の蔵はもともと淡麗辛口になりやすい傾向があるということになり、新潟淡麗辛口の手法を出来る限り取り入れた本醸造、純米を”意図すれば”、(新潟淡麗辛口に比べれば泥臭いが)味に幅やふくらみを残しながら”切れ”が良く後味が残らない淡麗タイプの酒質を実現できるのではないか----------。
もしその本醸造、純米が適正と思える価格で販売されたら”県産酒に懐疑的”な県内のエンドユーザーの消費者に支持を得られるのではないか」
率直で歯に絹を着せぬストレートな言い方をする、鶴の友・樋木尚一郎社長のような”日本酒業界の先達の方々”に救われてきた私も、いつの間にかどうしても相手に理解してもらいたい場合は、相手が”不快な気持”になったとしてもストレートな言い方をするようになっていました。
結果として”意図した酒質”の本醸造、純米は、税込み1995円、2499円の販売価格で一年後に実現したのです。
その一年は、「思いもしなかったスムーズさと、思いもしなかった困難のサンドイッチ」のような一年と言えました。
たぶんそのどちらも、良くも悪くも、I専務と私が「酒の造りにおいては”素人”だったため、エンドユーザーの消費者の視点から判断するという考え方」が生み出したものでした。
I専務と私の”考え方”は、I専務の蔵の杜氏や蔵人、従業員の皆さんに”歓迎”されていたとは、いくらおそまつで能天気な私もとうてい思えないものでしたが、しかし出来上がった酒が(今考えても幸いにも私に運が味方してくれて、実現した酒質としか思えないのですが-----)皆さんを納得させ支持して頂ける方向に変えてくれました。
またその”考え方”は、酒を造る前から、私の想像以上にエンドユーザーの消費者に支持され思いもよらない”評価や応援”を生んでくれもしたのです。
酒のレッテルは、日本酒業界とはまったく縁のない地元の印刷会社に”応援価格”で造ってもらい、まだ造っていない酒の”告知”には、地元のミニコミ誌や大新聞と一緒に週一回無料で配布される地元のミニ新聞にも”考え方”に対する好意的な”評価と応援”をいただき、その結果翌年の四月以降の発売の予定で造りに入った十二月に、「まだ存在していない本醸造と純米の二本セット」を送料込み価格の五千円での予約販売の募集をしたところ、驚いたことに、約百セットという予想を超える申し込みがあったのです。
そして発売の四月を迎えたのですが、香りに僅かな問題を抱えていましたが(次の造りで解決可能なレベル)、9号酵母を使い慣れたベテランの南部杜氏が初めて10号系酵母を使い”切れの良い”淡麗タイプの酒を造るという「造りの素人だから意図できた冒険」は、客観的に見ても”成功”だったとの評価を得ることができたのです。
私にとって一番うれしかったのは、”考え方”に懐疑的だった蔵の30歳前後の従業員のOさんが、
「この酒質なら、自分の同級生にも胸を張って薦められます」と、私に笑顔で言ってくれたことでした。
蔵の従業員のOさんも”蔵の方針の変更”に苦労させられたと思いますが、休日の多くだけではなく仕事の終わった後の深夜に及ぶ場合も少なくなかった、”ボランティア活動”の一年を送った私も物心両面で楽ではなかったのですが、周囲のエンドユーザーの消費者に評価され順調な滑り出しをしていることを見て、「やって良かった」と実感していたのですが
しかし最後に”最大の困難”が待っていることを予想はできなかったのです-------。
最後にして最大の困難は突然やってきました。
酒質的には想定していた以上の水準に達していたため、酒を造る以前から取り扱いが決まっていた3店舗から、慎重にですが、10店舗程度に増す方向に動き始めたとき、私自身にはどうにもならない諸般の事情で、I専務の離脱とこの本醸造・純米の一年限りでの終了が決定してしまったのです。
続くか続かないかの”綱渡り”のような蔵側の状況は、残念ながら、私にも十分理解できることであり、私はその状況にささやかな貢献も出来ないほど”無力”だったのです。
私は、長い間酒を造り続けてきた古くて小さい蔵そのものが、これが最後の造りだということを知っていて、全力で杜氏や蔵人に力を貸して造りだした”最後の輝き”のような本醸造・純米の売り方の方向を、従業員のOさんと相談して変えました。
1200本の純米と6600本の本醸造を大事に一日でも長く売れるように、取引先の拡大は中止し、当初の3店舗のみだけの販売にしたのです。
今でもあの本醸造・純米を造り続けていたらと思うことがあります。
もし造り続けていたら私の県の”庶民の酒飲み”にとって大きな財産になっていたのではないか-------死んだ子の年を数えるというのは、こんな気持のことを言うのかと思ってしまうのです。
純米は一年もたずに無くなり、本醸造も2年経ったときそのすべてが無くなりました。
皮肉なことに、残りの本数が少なくなったときエンドユーザーの消費者の認知度が高まり、
無くなるスピードが加速したのです。
3軒の販売店で約二年で、1200本の純米と6600本の本醸造は売れて無くなっていったのです。
そして、「私の置かれた立場の限界ぎりぎりの自分のやれること」は終了を迎えることになったのです。
私自身は、置かれた立場の限界まで走ったため、”結果”については成功であれ失敗であれ「あれ以上はできなかった」ということは”納得”していて、残念な思いもありますが、”後悔”することはありません。
置かれた立場という”範囲の中”で考えれば、自分自身が思っていた以上の人達からの”応援と手助け”のおかげで、むしろ予想以上にやれたのではないか--------今でも私はそう感じていますが、置かれた立場の”範囲の中”でしか動けなかったことが、最後の最大の困難に対して私がまったく”無力”だったことの”最大の原因”だとも痛感しているのです。
「エンドユーザーの消費者の視点から考える」という”考え方”を持ち込み、間接的にはその流れの中で酒質も売り方も変え中長期的なスパンでは酒質と売り方に”成功”と言える結果を出せていながら、I専務の蔵に対しての直接的な貢献においては”無力”だったことが、最後の最後で”逆転負け”をもたらした---------そう痛感したのです、そしてそのことが”ボランティア活動”の限界”の証明であることを思い知ったのです。
もし私が”考え方”だけでなくその”考え方”を実践している現役の酒販店で、I専務の蔵の本醸造・純米の全体の1/3以上の本数を私自身が販売できていたら---------このレベルの直接的貢献を私が出来ていたら、I専務の蔵は今も酒を造り続けていたのではないか--------むしろ直接的貢献が出来なければ、蔵と一緒に”考え方”を実行に移すことは”無理”なのではないか---------私はこの”成功と失敗”の経験以後、そう思うようになっていったのです。
現役の酒販店に”現役復帰”しない限り、県内酒に関わることはするべきではない--------そう痛感したのです。
I専務の蔵の本醸造・純米が完全に無くなった四年前、この「日本酒エリアN」を私は書き始めました。
以前に何回も書いていますが、人に読んでもらうことはあまり意識することなく、書くことで日本酒の”世界”に接してきた私のこの三十年の”整理や清算”をするため、自分の”本音”を吐き出すように書こうとしたことが、この日本酒エリアNを書いた最大の”動機”かも知れない--------と今は感じています。
そして、I専務の蔵の本醸造・純米に関わったことが、スピンすることが”日常であった”とも言える私にとって、”最後の大スピン”になるだろうとも思っていたのです------------。
書き始めたときは、日本酒の世界から「離れるのが前提の”自分史”」のような気持でいました。
それゆえ、自分自身はよく分かっているが説明が複雑で難しい事や、自分自身が直接関わった蔵や出来事の”公式見解”とは異なる自分自身の”体験”は詳しく書く必要性は無く、
自分のための”記録”という点と”離れるために必要な儀式”という点が前面に出ているため、
”不親切で分かりにくい”しかもきわめて長いものになってしまい、私の周囲では”批判的見解の嵐”になってしまいました。
その中でも古い仲間のS髙研究員の、「お前のはブログではない。短めの”論文”だとしても何が言いたいのかは、”事情”を知らない人間にほとんど分からない」との批判は、さすがに尤もだと感じ、短めの標準的長さのものを書いたうえで”儀式”を終了させようと思ったのです。
その短めで標準的な長さのものが、鶴の友について--NO1~NO6でした。
たぶんこのシリーズを書かなければ、私は予定どうり日本酒の世界から”足を洗って”いたと思われます。
最後に書くものであり、なおかつ短めで焦点を絞る必要がある以上、書くべきものは鶴の友と樋木尚一郎社長の他にはありませんでした。
ある意味で〆張鶴・宮尾行男社長も”誤解にさらされ”、実像があまり知られていない方だと私は感じておりますが、しかし〆張鶴の知名度の高さと〆張鶴の酒質を実際に飲んで知る人の多さが”誤解のレベル”をある水準以下に押さえ込んでいて、おそまつで能天気な私の”出番”などまったく必要ありませんが、鶴の友はその販売数量の少なさのため地元新潟市以外では直接飲んでその酒質を知る人は、〆張鶴に比べるとかなり多く見積もっても桁が二つ違うくらい少なく、さらに鶴の友・樋木尚一郎社長は宮尾行男社長よりはるかに多くの”誤解にさらされ”、その”実像”を垣間見る”機会”を与えられた人はきわめて少数だったのです。
おそまつで能天気でありましたが、その”機会”を与えられた数少ない人間であることを私は自覚していました。
最後にあまり知られることの無い、鶴の友と樋木尚一郎社長の”実像”を、小さな自分の”許容量の中”で理解し納得できた範囲で書き、たとえ一人でも二人でもいいから分かってもらえたら、日本酒の世界と一緒に(常にスピンを伴って)歩んできた”私の三十年の幕引き”に相応しいのかも知れない-------そう感じて書いたものでした。
それゆえ書き終った後、私は自分のブログを半年以上まったく見ることがなかったのです。
その半年を含む一年以上の期間、私は表面的には何の変化もありませんでしたし、〆張鶴、千代の光、鶴の友そして早福岩男さんとの関係もまた変わらなかったのですが、自分自身の中では、「たとえどのような関係が過去にあったにせよ、現在は一人のエンドユーザーの消費者としての”分”をわきまえ”分”を超えずにお付き合いさせて頂くべき」--------という気持で月日を送っていたのです。
この時期の私は再び、ある種の”挫折感に近い寂しさ”と背中合わせでしたが、ほっと息をつけるような”開放感”をも同時に感じていたのです。
鶴の友について--NO6を書き終えて半年以上経ったとき、よく覚えていないのですが何かを調べるつもりだったのと思われるのですが、鶴の友という”言葉”でグーグルで検索をしてみました。
まったく予想外で正直言って”驚いた”のですが、検索結果の1ページ目に私が書いたものが二つ入っていました。
「鶴の友について書かれ
1時間掛けて読ませていただきました。
プリントアウトして、明日、お店が休みなので3回目を
読みたいと思っています。
おやすみなさい。