日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

長いブログのスタートです-分割再掲版1

2014-10-22 15:31:03 | 長いブログのスタートです

OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。




「それなら、お父さんが書20057_007いたらいいじゃないか」-----中一の息子のこの言葉がこのブログを書くきっかけになりました。  
                  

この言葉は、私がインターネットで日本酒関係のHPを見ながら「ぴんとこないなぁ」、「なかなか無いなぁ」と”独り言”を言っているときに息子から出たのです。私の息子は赤ん坊のころから、日本酒には縁がありました。毎年7月にはアパートのドアの前に、”普通の家庭”としては考えられないほどの多くの酒が置かれ、12月には甘い香りが強く漂う大量の酒粕まで追加される生活を生まれたときから送っています。彼にとって、今は自分が飲むことはできなくても、日本酒は常に身近な存在なのです。

かつて一度だけ、息子と一緒に新潟へ行きました。自分がいつも目にしている酒の銘柄が造られている現場を直接見られ、話をよく聞かされている、父親の敬愛する大先輩の店にも行き、どちらでも大変可愛がっていただいたので、新潟は息子にとっても非常に良いところだそうです。

淡麗辛口をその”原動力”として、”日本酒ルネッサンス”と言うべき動きに、成功の兆しが見え始めた昭和50年代前半に、思わぬことから私は新潟淡麗辛口の蔵に縁を持ちました。 私のアパートに集金その他で来られる”酒飲み”が、「何でこの酒がこんな所にこんなにあるんだ」と驚かれる、有名な蔵もその当時はまだ”マイナー”な時代で、マイナーなだけに”商売”のからんでくるウエイトは少なく、”家業を嫌っていた酒販店の三代目”の私でも強く惹かれる”人間関係”がそこにはあったのです。 売れるとか売れないはまったく考えず、扱ってみたいと強く思ったのは、酒そのものの魅力ももちろんありますが、それ以上に”酒を造る人”に強く惹かれたからです。 私はどちらかと言うと”酒に酔う”のではなく、”酒に関わる人”に酔って年月を重ねてきたような気がします。 私にとって”酒”とは”人”なのです-----いつも”人”を通して”酒”を感じてきました。 しかし、それゆえ平成の初めまで続く”悪戦苦闘”の日々を送ることになります。

酒は恐ろしいほど、酒を造る人の”心の置き所”を反映します。 そして、その”反映する心”は、技術者である杜氏ももちろんですが、それ以上に”蔵元の心”が反映します。  誤解を恐れずに言うと、酒を造ること自体は酒蔵にとって、それほど難しいことではありませんが、酒造りのすべてにおいて手を抜かずに酒を造ることは、きわめて困難な作業と言わざるを得ません。 当時は嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)と早福岩男さん(早福酒食品店会長)を中心に、五つの蔵がお互いに切磋琢磨しながら、困難な作業を実行していました。 まったく同じ”哲学”を共有し、自分達の進む道に何の疑問も持たず、ただ前に進むだけ------今思うと、”黄金の日々”だったのかもしれません。 そうゆう”哲学”とそれを”体現”している人々に、私は強く惹きつけられ続けさらに”深み”にはまっていくことになります。

五つの蔵のうち、三つの蔵と私は取引させていただき、一つの蔵とは取引は無かったものの”人間関係”がありました。 私が意図的に関係を持たなかった五つの最後の蔵が越乃寒梅です。 なぜなら、越乃寒梅は、蔵元の意思とは関係なく当時すでに”メジャー”だったので、”マイナー”な私が入り込むのは失礼だと感じていましたし、”マイナー”な私の”居場所”もあると思えなかったからです。  そのころは、”新潟の酒の神様” 嶋悌司先生と直接お会いする機会はまったくありませんでしたが、お付き合いをさせていただいた蔵を通して、嶋悌司先生の存在の大きさは十分に感じとることができました。 その後、久保田の展開に最初から参加するなかで、嶋悌司先生にも個人的にも大変お世話なることになるのですが、そのころには五つの蔵の”黄金の日々”は終わりを告げ始めていました。

その数年後、思わぬことで私は”業界”を離れることになります。 それから、もう13年がたっているのですが、相変わらず私は酒から離れることができていません。 酒とはまったく関係の無い業界の会社員として13年を過ごしてきたのですが、なぜか私の周囲には”庶民の酒飲みの日本酒ファン”が増えてしまいます。 仕事上の付き合いの方でも、何気なく酒の話になると、私にとってごく”普通”の話をしているだけなのですが、相手が”庶民の酒飲み”の場合は興味が尽きないようで、そして必ずと言ってよいほど、「Nさんと話してると酒が飲みたくなりますね」と言われます。 そして、それ以上に”本人の自覚”無しに拡大させてしまったのが、”酒粕のファン”かもしれません。

私にとって”酒粕”とは、果物のような甘い香りのする、やわらかくて厚みがあり、切るのに苦労するもので、水にもすぐ溶けるものですが、現実に”酒粕好き”が手にしていたものは、まったく違っていたようです。 軽い気持ちで、今も人間関係が続いている三つの蔵の”酒粕”を周囲の方に差し上げ始めたのですが、その反響は予想を超えるもので、13年前は40㎏だったものが現在は300㎏を超えています。  ”酒粕”といえども300㎏を超えてしまう量になると、”サラリーマンのボランティア活動”としてはけして荷が軽くはなく、ここのところ暮れが近ずくたびに、今年は止めようかと思うのですが、差し上げた酒粕の”お裾分け”、”お裾分けのお裾分け”で本人が思っている以上にその範囲と人数が拡大しており、毎年その人達が楽しみに待っている------そう聞かされると、その人達の”幸せ”を奪うことはできかねます。  また、酒粕は、酒そのもの以上に酒質のレベルの違いを分かり易く語って、”庶民の楽しみ”である日本酒の素晴らしさを示していると実感している以上、私には止めることができないのです。

私が、”庶民の酒飲み”や”庶民の酒粕好き”に貢献できるのは、今も続く三つの蔵との”人間関係”のおかげです。 二つの蔵は、”黄金の日々”が思い出ではなく、そのときの気持ちを持ち続けており、一つの蔵は、十分な成功を収め酒飲みの間で有名でありながら、”黄金の日々”の面影を色濃く残しています。

20057_011 〆張鶴

事業として成功することは、けして悪いことではありません。 しかし、成功したことで、失うものもあるのも事実です。 私が”業界”を離れるころ、〆張鶴は成功したと言える状況でした。 私がご挨拶に伺ったとき、お亡くなりになった宮尾隆吉前社長は別れを惜しんでくださり、お忙しい中,半日を私に費やしてくださいましたが、その中で 「昔は、蔵に来られる酒販店の人との間には、人間対人間の気持ちの交流があった。 今はそのころに比べると、ビジネスライクと言うか寂しい関係になった」 と言われたことを、今でも良く覚えています。 宮尾行男社長は大変お忙しい方ですが、何年かに一回お会いする機会があります。  また、折に触れ手紙やFAXを出させていたただいております。 30年近くお付き合いさせていただいた者として、また一人の消費者として、率直に話したり書かせていただいておりますが、歯に衣を着せない耳ざわりの良い言葉でないにもかかわらず、好意的に接していただいております。

敬愛する大先輩の早福岩男さんが、かつてこの蔵を評して ”真面目が背広を着ている” と言われたことがあります。 宮尾酒造の皆様には ”迷惑”な言葉だったと思われますが、私もそれに近い印象を今でも感じています。 いつも酒が足りなくて迷惑をかけている-----それを何とかしなければと、真面目にとりくんだ結果が ”成功”になってしまったのです。

〆張鶴は、残念ながら ”庶民の酒飲み”にとって、現在最も手に入れ難い酒のひとつです。  長い間〆張鶴を、月桂冠を売るように ”普通”に売っていた経験を持つ私は、 「〆張鶴の名前は知っているが、もちろん飲んだこともないし見たことすらない」-----多くの ”庶民の酒飲み”にとって、〆張鶴がそのような ”存在”になっていることは、きわめて残念なだけではなく強い危機感を感じています。 〆張鶴は、私や私の周囲の人間にとって、日本酒に対するを考え一変させてくれた酒であり、25年以上親しみ続けてきた蔵です。 しかし、私達の ”日本酒エリアN”以外の ”庶民の酒飲み”にとって、「見たことも飲んだこともない」のですから彼らの中で、〆張鶴は ”現実には存在しない空想の酒”、あるいは ”宮内庁御用達の酒”のように ”存在はするが事実上存在しない酒”も同然の存在になっているとしたら、”庶民の酒飲み”にとってだけではなく 〆張鶴の将来にとっても不幸で危険な状況です。 しかし、私が知るかぎり、宮尾行男社長をはじめ蔵の人達は”庶民の酒飲み”を無視しているわけではありません。 宮尾酒造自体はけして、エンドユーザーの消費者に背中を見せているわけではありません。 なぜなら、 ”成功”によって失った ”何か”を一番感じているのが宮尾社長、そして蔵の人達だからです。

30年以上前にその源流がある、”黄金の日々”の面影を色濃く残しているからこそ、〆張鶴は ”単純な量の拡大”だけを選択せず、”節度のある成功”を選んだ-----私にはそう思えてなりません。

追記

 〆張鶴が”庶民の酒飲み”を無視していないと思っている以上、いづれその事実を提示しなければと考えています。  置かれている状況が状況ですので、多少の困難があり努力も必要ですが、一番量が逼迫している 〆張鶴 純 であっても ”一合1500円”で居酒屋で飲む以外にも、飲む方法はあります。 一回限りか、あるいはたまにでしかなくても”普通の価格”(送料込みで居酒屋の三合分でおつりがきます)で1.8Lを飲むことができます。 もちろん守ってもらうべきルール(私が知る関係者に迷惑がかかると二度とできなくなります)もありますが、大前提としてこのブログを見てくれる人がそれなりにいて、そのなかで〆張鶴を飲んでみたい人がそれなりにいることが条件になりますが-----。  

千代の光

20057_014 千代の光は、池田哲郎社長と私の年齢が近く、最初にお会いしたとき私が 20代半ばで社長が20代後半で、私にとって一番思ったことが言いやすい蔵元でした。  五つの蔵の中で一番若かっただけに、歯に衣をきせずはっきり明快にものを言う人でした。 その池田社長が、二十年近く前に私に言ったことがあります。  短期的で直接の酒質の向上策ではなく、”業界”の人にとっては常識破りでもあり、また人にとっては悠長なと皮肉を言われかねないことでした。 大変困難なことですが、それができたら確実に酒質は向上し続けるだろうと私は思ったのですが、十年後それは実現していました。  

私が二十数年前(それは蔵元に正直に話したことですが)、私が取り扱っても絶対に売れない、売る本数よりも捨てる本数の方が多いと思いつつもその魅力を失うことが惜しくてお願いをした酒ですが、その当時は、どちらかというと杜氏個人の名人芸に支えられているウェイトが高く、素晴らしい魅力と同時にきちんと売る側が管理をしないと魅力が発揮し続けにくいある種の ”ひ弱さ”も抱えていました。 しかし、発言の十年後のこの酒は”30階建てのビルが建つ基礎の上に5階建てが建っているような、表面には出てこないが確実に存在する”強さ”に支えられており、さらに誰もが見ない内装の裏にまで、丁寧な仕事がしてある素晴らしい酒になっていました。  5年前、池田社長はまた私に、「十年後を楽しみに見ていてくれ」と、言われました。 たぶん、今回も言ったことを実現させてくれるだろうと私は確信しています。  

千代の光は、越乃寒梅、八海山、久保田に比べその名前がよく知られているとはいえない酒です。  また、売る側の酒販店がそれなりに酒が分かってないと、エンドユーサーの消費者がその魅力の本質が分かりにくい酒です。 酒がきちんと分かっている店主から買って千代の光を飲むことができた”庶民の酒飲み”のあなたは、私が書いた千代の光の素晴らしさを、自分の舌で、喉で味わうことができ、千代の光と池田社長が”庶民の酒飲み”にとっていかにありがたい存在かが実感できるはずです。

追記

千代の光のホームページで全国の取扱店を調べることができます------http://www2.ocn.ne.jp/~sa-chiyo/------

私が直接、その”人柄”と”思い”の深さを知る千代の光の取扱店の店主は、数人しかいません。 ”地酒”を扱う酒販店には、大きく分けると、二つのタイプになると思われます。  たとえば年間一万本を売ろうとしたとき、 1---100種類の銘柄を100本売って一万本にするタイプの酒販店、  2---自分が”ほれ込み”、自信を持ってすすめられる蔵の酒を、上から下まですべて取り揃え ”主力銘柄”として、月桂冠を売るように売るタイプの酒販店-----。  1は、”地酒専門店”に多いタイプ、2は、私のような ”少数派”です。  2のタイプは、毎年のように蔵を訪れそれなりに酒を ”勉強”させていただくだけではなく、〆張鶴の故宮尾隆吉前社長のお言葉のように、「人間対人間の気持ちの交流」を深めていきます。 それゆえ、あまり多くの銘柄を扱うことなく(3~5の蔵で手一杯)、一つの銘柄あたり2000~5000本を売って、一万本を越えていきます。 この ”少数派”は ”少数派がゆえにお互いに強い ”結びつき”をもっています。 その ”結びつき”を支えているのは、お互いのお互いへの”信頼”です。  そして、その”信頼の輪”の中心には蔵元がいます。

私は、できればこの ”少数派”の千代の光の取扱店の店主から買って飲んでいただきたいと思っています。  なぜなら、千代の光には、エンドユ-ザ-の消費者のために前に進もうという ”強い思い”が酒に込められており、その思いを一番良く知っているのが ”少数派”の千代の光の取扱店の店主だからです。 

 


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