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のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
早福さん、そして池袋K酒店K店主のこと
あらめて、この28年を振り返って見ると不思議な思いにとらわれるときがあります。 ”日本酒の世界”の入り口のドアを開いて以来、自分のあずかり知らぬところで、ナビゲーションシステムが立ち上がりその見えない ”ディスプレー”と 聞こえない ”声”に導かれて進んで来たような気がしてなりません。 自分で選択してやってきた-----私自身はそう思っているのですが、実は ”誰か”が書いた”脚本”どうり線路の上を走って来ただけなのかもしれないと-----そう感じざるを得ないほど、節目、節目で迷わないように親切な案内板付きの ”道しるべ”が絶妙なタイミングで現れるのです。 多くの場合、その ”道しるべ”は ”人”でした。
その最初から私は、”対極”を同時並行で見る流れに乗っていました。 たとえば、淡麗辛口と生酛を同時並行で見てきたように-----。 私が酒蔵に縁を持ったきっかけは、学生時代の友人が新潟県の塩沢町におり、その友人が隣りの町の六日町にある八海山の関係者を知っていたことにあります。 その彼のおかげで、当時蔵におられたNHさんと知り合うことができたのです。 NHさんは、私にとって”日本酒の世界”へのドアを開けてくれた方ですが、その時点ですでに ”対極”の流れは始まっていました。( NHさんは私にとて、”八海山そのもの”でした。 平成になる前にNHさんは蔵を離れることになり、それにともない私と八海山の ”心理的距離”は大きく離れ、私が ”業界”を離れた以後は蔵との ”人間関係”は存在していません)
NHさんは、酒販店としてはあまりに”おそまつ”な私を気の毒に思ってくださり、二人の友人を紹介していただきました。 翌日、早速紹介していただいた二人のうちの一人に会っていただくために、村上へと六日町から車を走らせました。 それが、〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)との出会いでした。 NHさんからの紹介もあり、宮尾専務は親切にかつ丁寧に対応して下さったのですが、蔵を訪れる酒販店の人間としての ”素養”がなかった私に ”困惑”もされていたと思われます。 そのとき同席されていた、故宮尾隆吉前社長が ”助け舟”を出してくだされ、 「新潟市に早福さんという面白い酒販店の店主がいる。Nさん、よかったら私が紹介するから行ってみたらどうですか」と、励ますように親切に言ってくださいました。 間違いなく ”おそまつ”でしたが、同時に ”素直”でもあった私は、その翌日、早福酒食品店に向けて出発することになります。
宮尾行男社長ももちろんですが、故宮尾隆吉前社長にも大変良くしていただきました。 私の結婚式にご出席いただいたとき、「お忙しい中、しかも遠いところまでおいでいただき申し訳ございません」と申し上げると、「前から、一度見てみたいと思っていた公園があったのですが、なかなか来ることができません。こんな機会でもなければ見れなかったと思いますので、こちらこそありがとうございました」と、穏やかな笑顔を私に見せてくださいました。 本来なら、私がその公園をご案内しなければならないのに-----今でも申し訳なく思っています。
早福酒食品店には、越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光の五枚の看板がかかっていました。 30年近く前のことですから、当然早福さんも今よりもずっと ”若く精気”にあふれていました。 考えてみると、成功の兆しが見え始めた ”日本酒ルネッサンス”の ”統合作戦本部”を訪れていながら、まったくそのことに気づかず、”原子力空母”のような早福さんの圧倒的な存在感も感じとれなかったそのときの私は、やはり ”おそまつ”としか言いようがありません。
八海山、〆張鶴は、新潟市や東京を中心に、そのころ知られ始めていましたが、まだ有名とは言えない時期でした。 月桂冠をはじめ当時のナショナルブランド(NB)の、冷静に客観的に見ても、”かなりひどい”ものだった酒質しか知らなかった私は、「日本酒なんてものは、二十一世紀には消えてなくなる」と、本気で考えていました(NBの名誉のために書きますが、その当時と現在では、良い意味でNBの酒質は ”別物”になっています。 その酒質の ”平均レベル”は、へたな有名地酒を凌駕するレベルに達しています) そんな私にも、八海山、〆張鶴の酒質は大きな ”驚き”でした。 淡麗辛口の蔵の中でも、その当時の八海山は ”軽さと切れ”にその特徴とこだわりがあり、誰もが分かり易いインパクトと魅力があり、〆張鶴には、軽さと切れだけにに留まらない ”バランスの凄さ”がありました。 例えて言うと、八海山はある部分は60点、しかしその他のある部分は150点-----平均90点、 〆張鶴は、すべての部分で90点ゆえに平均90点-----そんな ”個性の差”が際立っていました。 〆張鶴の ”バランスの凄さ”が一番良く出ていたのは、すでにその時に市販されていた〆張鶴純米酒の、”〆張鶴 純” でした。 普通に造れば、「重くて,くどくて、しつこい」の ”純米三悪”のハンデを背負いながら、まったくそれを感じさせない ”軽さと切れ”を持ちながら、食べ物の味を邪魔しないで包み込むやわらかなふくらみがあり、飲みあきのしない素晴らしい ”純米酒らしくない純米酒”でした。
”酒蔵巡り”の酒販店の ”素養”に欠ける私といえども、八海山、〆張鶴の酒質の ”凄さ”は十分に感じとれましたが、それよりも強く惹かれたのは ”人の姿勢”でした。 酒販店の三代目として周囲に押し付けられた ”仕事”に何の興味も意味も見つけられず、自分が ”納得”できる何かを求めて三代目という立場から逃げ出すことしか考えていなかった私は、けして楽でもなく(むしろ苦労が多い)、格好も良いとは言えず、古くさいがゆえに消えて無くなると考えていた日本酒に、なぜ、NHさんや宮尾専務はあれほど打ち込んでいるんだろう、なぜ、疑問を持たず自分のすべてを投入できるのだろう、なぜ、あれほど自分の仕事に ”誇り”をもてるのだろう-----どうしてもその理由を知りたかったのです。 その理由は、”おそまつ”な私ですら納得せざれを得ない説明を早福さんから受け ”解明”するのですが、考えてみるとそういう ”哲学”を周囲を巻き込んで推し進める ”張本人”から懇切丁寧な説明を受けたのですから、分かって当たり前だったのですが、その時の私はそのことにもまるで気づいていなかったのですから、”おそまつ”としか言いようがありません。 しかも、”分かる”ことと ”実行”することの間には相当の距離があることにも、私は気づいていなかったのです。
早福さんは、”平穏無事”とは逆方向の人生と ”ちん、とん、しゃん系”の遊びに鍛えられた人しか持ち得ない、他人を緊張させない ”気さくで洒脱”な魅力に富んだ人柄でした。 かなりレベルが違う ”おそまつ”な私を、そのまま受け止め対等の相手として遇することなど、私のような ”凡人”にはとうていできることではありません。 早福さんの話は、とても面白く時間の流れを忘れてしまうのですが、その中で、”嶋・早福ライン”(私が勝手に言っている言葉です)の仕事の意味と価値が、私にも自然に納得できたのです。 淡麗辛口は、意図的に造り出された酒質です。 三十数年前、「日本人の食生活は、今後肉体労働が減って ”ライト&ドライ化”していく。その時に、甘くてくどい今の日本酒では飲んでもらえない」と見通していた嶋悌司先生と、その考えに ”共鳴”した早福さんが二人三脚で ”新潟淡麗辛口”の流れを造りだしてきたと言っても過言ではありません。 「協会10号酵母、新潟県産五百万石、低温発酵」-----それが、新潟淡麗辛口の ”キイワ-ド”でした。原料米はもちろんのこと、酛、醪、上槽後の管理保存に至るまで昭和50年代の最先端の ”吟醸造り”の技術を可能な限り注ぎ込んだ、普通の価格で多くの人が買える ”吟醸酒に近い市販酒”-----それが、新潟淡麗辛口の ”本質”でした。 その革新的な試みを実現すべく、指導をする嶋悌司先生、実際に酒を造る五つの蔵、その酒を販売する早福さんを中心にした少数の酒販店-----立場の異なる三者がその ”哲学”を共有する「ドリ-ムチ-ム」を組んでいたのです。 革新的で意欲的でもあり、またそれが他の誰かの役に立ち他の誰かを喜ばせていると確信できる ”仕事”をしている人は、深い充実感と誇りを感じることができます-----「ドリ-ムチ-ム」に参加している人にとって、昭和50年代前半はまさに ”黄金の日々”でした。 そして私は、その ”黄金の日々”を体現している人の ”生き方”に強く魅了されたのです。
嶋先生が ”最後の仕事”として取り組んだ「久保田」が発売され、順調にその成果がでているころ、”黄金の日々”は終わりを告げ始めていました。 そのころの早福酒食品店は、全国の酒販店の ”駆け込み寺”化していました。 ”玉石混交”(その多くは石、もちろん私も石ですが)の酒販店が毎日のように訪れ、早福さんご夫妻、ご家族、従業員の方々は大変でした。 私は、早福さんのそばにいて ”手とり足とり”教えていただいた ”直弟子”ではありませんでしたが、”生き方”を見せていただいた一人として”弟子の末席”に加えていただいたように、自分では思っていました。 その時期のある日、早福酒食品店の二階に十人くらいの新潟県外の酒販店の人間がきていました。 そして、珍しく書家のS先生も同席していました。 S先生は嶋先生と早福さんの古いお友達で、久保田のレッテルの ”字”を書かれた方です。 無口ならぬ ”六口”のS先生と言われる、普段は楽しく愉快な先生なのですが、私自身も不快になった自称”早福の弟子”の ”言動”に爆発され、「お前ら何か立派なことをやっているように勘違いしているようだが、お前たちがやったことは早福が涙や血を流してやっと売れるようになった酒を、横から来てかすめとっただけじゃないか。 早福は、そのままにしたら無くなってしまう地元の蔵をたとえ一つでも助けたくてやってきたんだ。 お前らが早福の弟子と言うならなぜそこを見習わないんだ。 なぜ自分の地元の蔵を助けようとしないんだ」-----と言い捨てて席を立たれました。 S先生の言葉は、直接私に向けられたものではなかったのですが、そのときの衝撃と恥ずかしさは今でも忘れることができません。 地元の蔵にまったく目が向いてなかった私も、その後意識して地元の蔵を訪ね始めたのですが、具体的な行動を起こす前に ”業界”を去ることになりました。
会社員になってからも、そのことは常に頭の片隅にありました。 自分としては、”業界”にいたときは恵まれてもいたしやれることはやったと納得もしていましたが、地元の蔵の件だけが唯一の心残りだったのです。 またもやひょんなことから、4年前地元の蔵に ”ボランティア”で関わる機会が巡ってきました。 会社員の休日利用の ”ボランティア活動”のため限界はありましたが、十数年温めてきたことでもあり、私なりに全力投入しました。そのまっただ中で、早福さんのお店で偶然16年振りにS先生と一緒になり、「S先生の16年前の ”宿題の解答”を今ようやく書いています」と申し上げました。 S先生は、私のことも言われた ”言葉”のこともお忘れのようでしたが、「N君、もし私がそんなことを言ったとしたら、それは早福の代わりに言ったんだ。 早福はやさしい男だから、どんなに迷惑をかけられようと思い上がった言動にどんなに振り回されようと許してしまうんだ。 本当は早福だってそう思っているんだよ」と、笑顔で言葉を返してくれました。 早福さんを訪ねた酒販店の人間は、少なくても1000人を超えていると思われます。 その中で、”早福の弟子”だと今でも思っている人は、16年前のS先生の”言葉”を深く胸に刻んで自覚しなければならないと私は思っています-----我々は、「ドリ-ム-チ-ム」が成功したために、早福さんが抱え込まざるを得なかった ”負債”だったことを。
嶋・早福ラインの”仕事”の成果は、次々と淡麗辛口の銘醸蔵を立ち上げたことに留まりません。 マ-ケティングや営業活動、コスト重視の”生産”にしか目の向いてなかったNBをして、現在のレベルまで”酒質”を向上せざるを得なくしたことが”日本酒ルネッサンス”と言うべき、嶋・早福ラインの”仕事”の最大の成果だったと、私は思っています。
八海山におられたNHさんに紹介していただいたもう一人の友人は、池袋で ”地酒”を中心にしたK酒店のK店主でした。 ”嵐”のような、六日町、村上、新潟市の”新潟シリ-ズ”が終了した直後におじゃましたように記憶しています。 池袋東口周辺は少し知っていたので、なんとかたどり着きましたが、分かり易いとは言えない場所にK酒店はありました。 そのお店は狭く、お世辞にも ”きれい”と言えない状況でしたが、中に入ると吟醸酒を中心にした ”地方銘酒”が所狭しと並んでいました。 それは、現在の ”地酒専門店”の ”源流”のようなお店でしたし、事実K店主は後に ”地酒業界のスタ-”になる流れにありました。 亡くなってだいぶたつ今でも、その人柄と志半ばでの ”戦死”にも似た死を遂げたこともあり、関係者にとって忘れられない人で、日本酒関係の本で現在も語られ続けられています。
昭和50年代前半のK店主は、関係者には知られた存在でしたがまだ ”スタ-”には遠い時期でした。 私にとってのK店主は、最初から最後に至るまで ”出来の悪い後輩”を気遣ってくれる ”やさしい先輩”でした。 ”新潟シリ-ズ”とまるで違う ”世界”で私には戸惑いと混乱があったのですが、”嫌らしい欲”の無い人柄と、早福さんとはその構造と方向が違っていましたが同質の、酒に対する ”思いと愛情”にあふれていました。 K店主は ”素養”に欠ける私に、Tマ-ケティングの「M会」に参加することを勧めてくれました。 当時、まだ少なかった ”地酒”を扱う酒販店の中で、「M会」にはK店主を中心に ”地酒専門店として有名になり成功してゆく ”猛者”がごろごろしていました。 全国に点在している”地酒屋”を組織ではなく ”サロン”としてネットワ-ク化したことに、「M会」が成功し少数の割りには(ある時期までですが)小さくない”影響力”を持てた原因があります。 間違いなくある時期まで 「M会」は ”地酒業界”の一方の雄でした。 ”サロン”ですから、とんでもない人や個性的で面白い人もいましたが、その精神的支柱はK店主でした。 K店主を介してお互いの主力銘柄を紹介し合い、吟醸酒、純米の希少酒を中心に取り扱い銘柄を拡大していくことになります-----まさしく現在多く見られる ”地酒専門店”の原型がそこにありました。 数年後、北海道から九州まで会員が存在することになる 「M会」の初期のメンバ-は、”商売”の上手い人が多かったのですが、一番商売っ気の強い人でも(9割商売でも)1割くらいは酒に対する ”愛情”があり、また”付け焼刃”ではない勉強もしていました。 早福さんと同じように、K店主も ”成功の兆し”は出始めていましたがまだ確信の持てない時期に私は出会ったことになります。 しかし、今振り返ると、この時期までにその後の展開を決定付けたものが確立していたような気がします。
関東やそれ以外の県の”地酒屋 ”と知り合い語り合うことは楽しいことでした。 しかし、当然ながら彼らのほとんどは ”商売の成功”を最大の目的として ”地酒”に取り組んでいました。 ”道具や武器”は確かに違い、”文化、ロマン”というオブラ-トに包まれていましたが、その発想の根本は従来の酒販店の ”価値観”とあまり変わらないものでした。 祖父母や親の”価値観”では成功している店の3代目という自分の立場に、何の魅力も感じていなかった私は 「M会」の中で ”落ちこぼれ”になっていきました。 それでも 「M会」を止めなかったのはK店主がいたからです。 K店主も ”商売”の成功を望んでいましが、”商売”はけして上手くなくむしろ下手でしたし、”商売の成功”以外の何かを酒に求めていたことは最初から私にも感じ取れていました。(今の私にはK店主が何が欲しかったのかがよく分かります) K店主も、私が成功以外の何かを求めていたが分かっていました。 それゆえ時間がたてばたつほど、嶋・早福ラインに傾斜してゆき 「M会」の”落ちこぼれ”の度合いが深くなっていきK店主の方向の逆に走りだしても、K店主は以前と変わらずにつき合ってくれていました。 K店主が有名になっていき ”地酒業界のスタ-”的存在になった後でも、私とK店主との ”付き合い方”はあまり変わりませんでした。 「M会」で会うときは、むこうは「スタ-」で、こちらは「落ちこぼれ」-----というパタ-ンでしたが、ときどき11時過ぎの深夜に電話で話すときは、違うパタ-ンでした。 「M会」の集まりより多く足を運んでいた、〆張、八海、千代の各蔵元や早福さんのことを私が話し、「M会」や「M会」のメンバ-の最新の動きや”情熱”を傾けていた”吟醸酒”のことをK店主は語るのですが、いつも最後は求めている”何か”の話になりました。 私はK店主の”何か”の求め方が急ぎ過ぎているように感じていましたが、K店主はおそらく私が”のんびり”し過ぎていると思っていたはずです。
久保田の発売のころ、K店主と私の方向の違いは明確になっていました。 それでもときおりの ”深夜の電話”は続いていましたが、K店主の様子には明らかな変化が感じられていました。(後日、その変化の理由を私は知ることになります) その1年後くらいだったでしょうか、K店主が癌で入院したという知らせを私は受けることになります。 最後にK店主に会ったのは、その病院での面会でした。 直接顔を見ながら話した、1時間半の最後の機会でした。 「N君は、まだ月桂冠を置いているの」と、笑いながら聞くK店主は体調が良かったのか、すっきりとした表情をしていました。 思えば、”地酒の教祖”のような人のそばに十数年いながら、”おそまつで素養のない”出来の悪い後輩であり続けました。 「N君は良い方法を選んだと思う。〆張、八海、千代、久保田を普通にかなりの数量を売りながら、月桂冠も売る。そうかと思えば、考えられないくらいの量の”生酛”をブレンド用として40年も造ってきた”物凄い杜氏”を見つけ出してきて、強引に蔵に”生酛単体”の本醸造や純米を造ってもらったりで、面白くて楽しいじゃないか。N君はそれで良いと思うよ」-----出来の悪い後輩への最後の思いやりの言葉でした。 数ヵ月後、K店主の死を私は聞くことになります。
八海山におられたNHさん(平成になる前に蔵を離れられています)の紹介は、私に大きなものを与えてくれました。 今、私自身が私だと思っている部分の90%はこのNHさんの紹介以後に造られたものです。 〆張鶴、宮尾専務(現社長)の”線”からは、早福さん、千代の光、池田哲郎常務(現社長)、嶋先生と繋がっていき、その流れの中で鶴の友、樋木尚一郎社長にたどり着く”線”も”偶然”に浮上しました。 一方、K店主は”地酒”に取り組む全国の色々な酒販店の、色々な”生き方”を私に教えてくれました。 昭和50年代前半という現在と比べると ”のんびり”していた時代に、”地酒業界”の対極の二つの頂上を同時並行で見る機会を与えられたことで、”おそまつ”で酒販店としての ”素養”に欠けていた私でも、のんびりですが何とかやってこれたのです。 ”偶然の連続”に助けられて ”地酒業界”で過ごしてきた私も、K店主が亡くなったころには ”偶然の連続”がある一点を指し示していることに、気づかざるを得ませんでした。 いつかはしなければならない”戦い”に向かう気持ちと戦い抜く ”力”を与えてくれたのは、”酒の世界”でした。 それゆえ私は、今でも ”酒の世界”に愛情と感謝の気持ちを持ち続けているのです。
博物館