OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
私にはお金も無く店も無く、あるのは私個人の信用だけです。
そんな私が本気で”現役復帰”を目指せば、「困難の羅列」になってしまうのは目に見えています。
その「困難の羅列」を避ける一番良い方法は、不完全燃焼という”副作用”は生じますが、
日本酒業界から離れることです。
I専務の蔵に関わったことで私は「ボランティア活動」の限界と、「日本酒を売るのを仕事にするには避けて通れない”困難の羅列”」を同時に味わったのかも知れません。
しかし「困難の羅列」を忌避したいがための”方針”は、”流れ”に逆行していたため崩れるのも”時間の問題”だったのかも知れません。
H君の”事件”は私と國権との関係にも影響を与えてくれたのです。
七年振りに会津田島を訪れて細井信浩専務にお会いし、國権についてNO1~NO2を書いたのですが、この時期には「日本酒から離れるという”方針”」は消えて無くなり、”流れ”に逆らわない「従来の姿勢」に私自身も戻っていたように思われます。
日本酒雑感のシリーズを書き始めたころには、当初の予想より大きく変化し影響も想像以上だった”H君の事件”も結末を迎えようとしていました。
この”H君の事件”は、結果的には私自身にも大きな変化を与えてくれました。
意図的に狭い範囲にしようとしていた、私自身の「日本酒業界の足場」はかなり広がり、この7~8年関係が薄くなっていた”昔の仲間”との接触の機会も大幅に増えていました。
その中で、現在の酒造・酒販の日本酒業界の状況のレクチャーも受けたのですが、
私の感じていた”実感”と業界の人間の”常識”の間のギャップの大きさに、私はある種の弱くはない”違和感”を感じていました。
”ギャップ”の大きさの原因のひとつは、酒販店の人間としては「特殊な育ち方」をしてきた私の”経歴”にあるかも知れません。
H君や大黒正宗について--NO1に書かせてもらった尼崎の山本酒店・山本正和さん、
二十年の付き合いがある牛久市の松蔵屋酒店・石田英雄君など一線級の人達も、新潟淡麗辛口で言うと「久保田以降の世代」に属し、私のように「草分けの世代ではないが〆張鶴や八海山を主力にした久保田以前の世代」は現役の酒販店の中にはかなり少なくなっています。
この世代の主力の人達は、私より一回り(十二歳)以上の年齢の人がほとんどで、訃報を聞いたり現役を引退されたと聞くことが少なくない年齢になっているのです。
私は大学を出てすぐの二十歳代の初めに〆張鶴、八海山に”出会って”しまったため、
「久保田以前の世代」に属しながらも、実は「久保田以降の世代」の主力の人達と十歳以下の”一桁の年齢の差”しかないのですが、「久保田以降の世代」にとって話で聞かされるか比較的最近の”歴史”として語られる出来事が、私にとっては自分自身が実際に体験してきた”生々しい出来事”なのです。
私は平成になってすぐに、北関東の県の県庁所在地であるM市のホテルで結婚式をしたのですが、(私が晩婚だったこともありますが)主賓の挨拶は嶋悌司先生にしていただき、故宮尾隆吉〆張鶴前社長、八海山の南雲二郎さん(現八海山社長)、千代の光・池田哲郎常務(現社長)、國権・細井泠一専務(現社長)の皆様に出席していただけたのも、私が「久保田以前の世代」であり、おそまつで能天気であったにせよ新潟淡麗辛口を十年以上売ろうとしてきた”キャリア”のおかげだったのです。
私が出会ったころの〆張鶴や八海山は、”成功の兆し”は十分に有り関東を中心に知られ始めていましたが、現在ほどの成功は蔵自身も”想像”はできていない------そんな時期でした。
しかしそれゆえ蔵と酒販店の間には”ある種の仲間意識”に近い気持があり、現在よりはるかに「人間対人間」の関係が成立していました。
おそまつで能天気であっても、たぶん、その当時の酒販店の中で”最年少”だった私はそんな「関係」の恩恵を一番多く受けてきたのではないかと思うのです。
今振り返ると「穴があったら入りたい」心境になるのですが、その当時の私の”最大の武器”は「自分は何も知らず、何も分からない」ことであり、「自分に都合良く”解釈”できるレベルの自分さえ無い」-------それゆえ「Nは本当にあれで大丈夫なのか?」と〆張鶴、八海山、千代の光の蔵の皆さんに”ご心配”いただき、早福さんには「噛んで含めるようなアドバイス」を辛抱強くしていただき、ついには取引関係の無い鶴の友・樋木尚一郎社長にまで”心配がゆえのアドバイス”をしていただくようになってしまったのです。
そういう比較的”濃密な人間関係”で育ってきた私は、まるで逆の、ある意味では潔いはっきりした”ビジネスライクな人間関係”が幅をきかしている、現在の日本酒業界の姿を嫌でも知ることになったのです。
かつて私はこんな”笑い話”を、早福岩男さんから聞いたことがあります。
「自分自身が、たとえ無名であってもその銘柄を売ろうと思ったら、”投げながら”売っていかなければ売れるものではない」
早福さんの店を訪れた、新潟県外の都会の若手の酒販店の人間にこのような”アドバイスをしたところ、
「早福さん質問があります。何本ぐらい投げれば何本ぐらい売れるのですか?」との質問が返ってきた-------そういう”笑い話”です。
「さすがに俺も参って、すぐには何も言葉が出てこなかった」-------愉快そうに笑う早福さんと同じように私も大笑いしたのですが、そのときの私は単に”笑い話”としか受け止めてはいませんでしたが、今の私には少しですが、早福さんの”笑いの底にあった苦さ”が分かります。
言っている早福さんは、ご自分が実践してきた”考え方”あるいは”姿勢”の問題を聞くほうが分かりやすい形に”変換”して言っているのに、聞くほうは”考え方”や”姿勢”の入り込む余地がまるで無い、ビジネスライクな”費用対効率”の問題としか受け止めていない-------そういう図式の苦さが内在した”笑い話”だったからです。
酒販店の人間としては「特殊な育ち方」をしてきた私が、現在の私自身の立場であるエンドユーザーの消費者の一人としての”視点”から見たとき、今の日本酒業界の”常識”について
小さくない”ギャップ”や弱くはない”違和感”を感じたのは、上記の理由からだったのです。