昨年、6月頃の科学者が被災地を視察して書いた記録です。被災直後ではありませんが、現地の混乱と復旧作業はほとんどされていなかった点では3.11直後とそう違った状況ではなかったと思います。
現場ならではの経験
多くのニュースを見、映像を見てきたが、やはり現場を見ると全く違う。いや、はじめて分かることが多い。
<一つは、広さ>である。破壊された量は、やはり現場に行き、その広がりを見ないと分からない。根こそぎ感、これがひしひしと伝わってくる。地盤沈下した面積の広さは、不気味である。現地を訪問するまで、地盤沈下の不気味さは感じていなかった。
つぎは、<ことごとく感>である。どんな小さな入り江も見逃さず、攻め込む執拗さにたじたじとなる。この執拗さは、TVや誰かの報告では分からない。
さらに<人間が作ったしきり、境界のむなしさ>である。道路と言わず、堤防と言わず、乗り越える姿はすでに映像でみたが、現地にくると、無茶苦茶ではなく、むしろ自然の掟のようなものを感ずる。彼らの原理というものが伝わってくる。
<地震と津波>とは全く違うということをしみじみと理解した。M9.0であろうと、8.8であろうと、地震だけなら、あれだけの破壊力はないだろう。少なくとも公共の建物は、所謂耐震設計はできていたと思われる。しかし、津波で壊され、ある場合には流されてしまう。この違い。
<残った人の生活>の重さ
震災後3ヶ月半経過していたために、人の死はすでに隠されていた。私達はそこまで踏み込まなかったと言ってもいいかもしれない。しかし、これだけ広大な土地に人がいなくなっている、その人たちはどこかにいる。勿論、亡くなった方もおられるし、行方不明の方もおられる。しかし、もっと多くの方が今日も生きて、生活している。
私は親類も友人も失うことがなかったので、むしろ、残った人の生活を思った。東京駅のあの人波に等しいほどの数ではないのか。その人たちが、生活の手段、職業を失っている。その重みがずしんと伝わってくる。
<海岸線こそが日本の活力>
現場を見ながら考えたことの第一は、海岸線こそが日本の活力だということ。そこが危ないからと言って、そこから逃げるという発想はやめたいということ。
こういう津波に対して、リスク評価はどう立ち向かうべきか、東電の言う“想定外”は妥当かなど、口ごもりつつ意見を言い合った。このことを、この日の経験として、頭と体にしみこませて、今後考え続けることになると思う。
現場ならではの経験
多くのニュースを見、映像を見てきたが、やはり現場を見ると全く違う。いや、はじめて分かることが多い。
<一つは、広さ>である。破壊された量は、やはり現場に行き、その広がりを見ないと分からない。根こそぎ感、これがひしひしと伝わってくる。地盤沈下した面積の広さは、不気味である。現地を訪問するまで、地盤沈下の不気味さは感じていなかった。
つぎは、<ことごとく感>である。どんな小さな入り江も見逃さず、攻め込む執拗さにたじたじとなる。この執拗さは、TVや誰かの報告では分からない。
さらに<人間が作ったしきり、境界のむなしさ>である。道路と言わず、堤防と言わず、乗り越える姿はすでに映像でみたが、現地にくると、無茶苦茶ではなく、むしろ自然の掟のようなものを感ずる。彼らの原理というものが伝わってくる。
<地震と津波>とは全く違うということをしみじみと理解した。M9.0であろうと、8.8であろうと、地震だけなら、あれだけの破壊力はないだろう。少なくとも公共の建物は、所謂耐震設計はできていたと思われる。しかし、津波で壊され、ある場合には流されてしまう。この違い。
<残った人の生活>の重さ
震災後3ヶ月半経過していたために、人の死はすでに隠されていた。私達はそこまで踏み込まなかったと言ってもいいかもしれない。しかし、これだけ広大な土地に人がいなくなっている、その人たちはどこかにいる。勿論、亡くなった方もおられるし、行方不明の方もおられる。しかし、もっと多くの方が今日も生きて、生活している。
私は親類も友人も失うことがなかったので、むしろ、残った人の生活を思った。東京駅のあの人波に等しいほどの数ではないのか。その人たちが、生活の手段、職業を失っている。その重みがずしんと伝わってくる。
<海岸線こそが日本の活力>
現場を見ながら考えたことの第一は、海岸線こそが日本の活力だということ。そこが危ないからと言って、そこから逃げるという発想はやめたいということ。
こういう津波に対して、リスク評価はどう立ち向かうべきか、東電の言う“想定外”は妥当かなど、口ごもりつつ意見を言い合った。このことを、この日の経験として、頭と体にしみこませて、今後考え続けることになると思う。