“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

3.11被災地の状況

2012年03月09日 15時00分00秒 | 臼蔵の呟き
昨年、6月頃の科学者が被災地を視察して書いた記録です。被災直後ではありませんが、現地の混乱と復旧作業はほとんどされていなかった点では3.11直後とそう違った状況ではなかったと思います。

現場ならではの経験

多くのニュースを見、映像を見てきたが、やはり現場を見ると全く違う。いや、はじめて分かることが多い。
<一つは、広さ>である。破壊された量は、やはり現場に行き、その広がりを見ないと分からない。根こそぎ感、これがひしひしと伝わってくる。地盤沈下した面積の広さは、不気味である。現地を訪問するまで、地盤沈下の不気味さは感じていなかった。

つぎは、<ことごとく感>である。どんな小さな入り江も見逃さず、攻め込む執拗さにたじたじとなる。この執拗さは、TVや誰かの報告では分からない。

さらに<人間が作ったしきり、境界のむなしさ>である。道路と言わず、堤防と言わず、乗り越える姿はすでに映像でみたが、現地にくると、無茶苦茶ではなく、むしろ自然の掟のようなものを感ずる。彼らの原理というものが伝わってくる。

<地震と津波>とは全く違うということをしみじみと理解した。M9.0であろうと、8.8であろうと、地震だけなら、あれだけの破壊力はないだろう。少なくとも公共の建物は、所謂耐震設計はできていたと思われる。しかし、津波で壊され、ある場合には流されてしまう。この違い。

<残った人の生活>の重さ
震災後3ヶ月半経過していたために、人の死はすでに隠されていた。私達はそこまで踏み込まなかったと言ってもいいかもしれない。しかし、これだけ広大な土地に人がいなくなっている、その人たちはどこかにいる。勿論、亡くなった方もおられるし、行方不明の方もおられる。しかし、もっと多くの方が今日も生きて、生活している。

私は親類も友人も失うことがなかったので、むしろ、残った人の生活を思った。東京駅のあの人波に等しいほどの数ではないのか。その人たちが、生活の手段、職業を失っている。その重みがずしんと伝わってくる。

<海岸線こそが日本の活力>

現場を見ながら考えたことの第一は、海岸線こそが日本の活力だということ。そこが危ないからと言って、そこから逃げるという発想はやめたいということ。
こういう津波に対して、リスク評価はどう立ち向かうべきか、東電の言う“想定外”は妥当かなど、口ごもりつつ意見を言い合った。このことを、この日の経験として、頭と体にしみこませて、今後考え続けることになると思う。


原発被害と矛盾

2012年03月09日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き
山菜、天然きのこ類は食べられない!

今日、ある会議に出ました。その中で、政府の放射能汚染の新基準値が決まった。今後の対応に関する報告、学習会がありました。今までは暫定規制値でしたが、新年度は新基準値(暫定規制値の五分の一)に引き下げられます。外的な条件は何も変わっていません。除染も進んでいません。暫定規制値を新基準値にして五分の一にして何かが変わったのでしょうか??しかも、野田は原発再稼動に関しては政治判断だ(えらそうに!)と答弁しました。何をふざけたことを言っているのかと思えるほど、被災地と避難者を馬鹿にした話です。

今朝のNHKで浪江町「希望の牧場」のことが報道されました。昨年、このブログでもとりあげました。責任者の吉沢正巳さんは残してきた牛を殺すことは出来ないと、町に申請して毎日、1年間、警戒区域内の牛に牧草、水などを与えるために通って世話をしてきたと話していました。昨年、吉沢さんは涙をながしながら「人間の勝手さ」「東京電力、民主党政権の無責任さ」を告発していました。牛は放し飼い状態になったものは野生化して、生きているのだと話していました。1年後、今朝の報道だと希望の牧場には300頭の牛が生きている。また、子牛も生まれていました。吉沢さんは「3.11爆発で放射能を浴びた牛がどのような状態になるか」「子牛が生まれたときにどうなるか」「遺伝にどのような影響が出るか検証すべき」とも昨年話していました。1年後、300頭からの牛が生延びて、元気でいる姿を見て「よかった」と素直に思いました。吉沢さんの苦労と苦しみは想像を絶するものであったと思います。

東京電力勝俣会長、役員は何も罪を問われていません。彼らは、避難もせず、自宅に住み続けているのです。この不条理は許されるのでしょうか?日本は本当に法治国家、先進国なのでしょうか?
被害者である地域住民が10万人を越えて避難し、帰る場所もなく、仮設住宅、みなし仮設住宅に「展望」も持つことなくいます。生きる望みをたたれ、家族は離散し、雇用が破壊され、生活が破綻しているのです。
こんなことが許されてよいのでしょうか?

黒澤明の遺言(いげん)

2012年03月09日 06時00分12秒 | 蜂助の呟き
こんにちは。蜂助です。今日は、都築政昭さんの「黒澤明の遺言」という本の話です。

黒澤監督は、ノートにいろいろ書いていたり、デザインを描いていたそうです。八十歳を過ぎてから作った映画「夢」は、黒澤監督の遺言のような意味合いもあったのかもしれません。

彼の創作ノートにはつぎのように書かれています。

人間は自然の一部だよ。自然と一緒に生きているんだ。人間に一番大切なのは、いい空気と、きれいな水とそれを作る木や草だ。それがなくなったら、人間もなくなる。とても便利なものでも、それが自然を壊すものなら、結局人間に有害なものだ。

人間が自分たちも自然の一部だということを忘れている。

小川があって、きれいな水が流れていた。魚も水草の中を泳いでいた。

昔、人間は電気もガスもなしに生きてきた。要はこの人間の生き方の原点を忘れぬことだ。人間も自然と共に生きることだ。傲慢になって自然を制服したように思い込むのはとんでもない間違いだよ。



全く同感です。