“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

復興より先にやるべきことがあるのでしょうか?

2012年03月10日 15時00分00秒 | 臼蔵の呟き
復興より先にやるべきことがあるのでしょうか?

復興とは、「災害において社会、人も多くの財産を失い、これらを取り戻したり、新たに作り出し、手に入れたりするのが復興です。被災地域の復興では、そこに生活する人の暮らしが以前のように回復することも含まれています」「この中には災害に見舞われた産業の回復も課題となります。」

地震と津波は自然災害です。しかし、復旧・復興の遅さ、遅れは人災です。多くの被災地域から指摘される政治の対応が遅いとの指摘はまさに人災そのものです。民主党政権は被災地の復旧、復興をどう考え、自らが果たさなければならない役割は何か、その自覚はあるのでしょうか。
災害を予知して、対策を打つことは不可能です。したがって、災害に備えて、社会基盤、人的な被害を最小化する社会的な取り組み、準備があったのか、あるのかが問われているのだと思います。

その点では、宮城県は1978年6月の宮城県沖地震(33年前)を経験し、県民の防災意識、取り組みは非常に進んでいました。個人住宅などの耐震化、ブロック塀の改修、地震保険への加入なども高い比率であったと思われます。今回、津波が襲った沿岸部は地理的に広範囲に及びました。2010年時点で考えられる備えは自治体として津波防波堤、防潮堤などはそれなりに行われていました。しかし、その備えをはるかに上回る地震規模と巨大津波が甚大な被害をもたらしました。

津波被害を受けた住民、企業が以前の生活、業務を再開できるようにすることはどのような理由があろうとも、どのような困難さがあろうとも、あらゆる手立てを講じて実現しなければならないと思います。
「忘れがたき 故郷」「思い出づる故郷」「山、水が清き故郷」を取り戻すこと。「いつの日か帰る故郷」を取り戻すことが復興の意味、課題だと思います。
多くの震災犠牲者のご冥福を祈り、生きている県民、市民が「死者の悲しみ」に応え、生きる希望と明るさを取り戻すまで、忘れることなく、継続的な支援をし続けることが現時点での課題だと思います。

率直に言うとガッカリ

2012年03月10日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き
11年3.11から1年が経過します。366日で何が前進したのでしょうか。昨年上期は「我慢」「絆」「自粛」ムード一色でした。その後、日本人の考え方、生活観などにも大きな影響を与えた、与えるといわれましたが??。
福島第一原子力発電所事故の原因解明すら1年経って出来ていません。また、被災地で大量に出ている「がれき」処理はまったく進んでいません。しかも、被災企業の救済措置も具体的は進まず、自己責任論がまかり通り、雇用の受け皿である地域産業の復旧、復興にいたってはほとんど進んでいません。震災復旧、復興増税まで決めながら、これが実態です。
現時点での見方、昨年3月時点での震災を受けての考え方、評価です。苦しいこと、悲しいことは忘れることで癒えるのではなく、生き残った被災者、被災企業が復旧、復興を成し遂げることでしか、解決できないのだと思います。

<率直に言うとガッカリ…キーンさん、復興で苦言>
 「率直に言うと、がっかりしています」――。日本国籍を取得した日本文化研究者のドナルド・キーンさん(89)は、8日の記者会見で「鬼怒」の雅号通り、震災後の日本の状況にあえて苦言を呈した。
 「日本人は力を合わせて東北の人を助けると思っていました」。会見で終始朗らかなキーンさんだったが、震災の話になると表情が引き締まった。そして、「東京は(電気が)明るい。必要のない看板がたくさんある。東京だけではない。忘れているんじゃないか。まだやるべきことは、いっぱいあると思います」と語った。
 「わたしは今まで、ある意味、日本のお客さんだった」と振り返ったキーンさんは、国籍取得を機に日本の現状に意見を言うことも考えている。「もしいいことができるとすれば、私のためでなく、日本人のためだと思います」と話した。
<2011年3月13日北海道大学 山口二郎教授の東京新聞への投稿文>

1週間の外国出張を終えて帰国した途端、成田空港で地震に遭遇した。私の乗った飛行機は離陸直前で留め置かれ、6時間待った後、どうにか札幌に帰り着いた。帰宅してテレビを見て、事の重大さを知った次第である。何より、被災された方々に心よりお見舞い申し上げたい。
 この地震は、国の課題にまともに取り組もうとしない政治家に対する天の警告と理解するしかないだろう。政治とは、このような危機において国民の生命を守るための活動である。阪神大震災の時にもこんな議論はされたが、15年経つ間にすっかり忘れ去られた感がある。今回の地震は首都の足元を揺さぶったがゆえに、衝撃も大きい。
 当面の救援、復興に人的、物的資源を惜しまずに投入することは当然である。阪神大震災の際、住宅再建のために公的支援について議論があった。この際、多少増税してでも被災者の生活再建のための支援策を考えるべきだと思う。
さらに、改めて地震などの大きなリスクに対して国民をどう守るかという観点から政策の体系を考え直すべきである。効率優先、何事も安上がりにすませようという発想ではリスクに対処できない。国民が自分を守るためにこそ、政治との関わり方を考え直す機会としたい。人間は弱いから助け合うしかない。それが政治の原点である。


3月10日

2012年03月10日 06時00分12秒 | 蜂助の呟き
こんにちは。蜂助です。今日は、3月10日の話です。

皆さんは3月10日というと何を思い出すでしょうか。

明日の午後には命を落とすとは全く思っていなかった、最低でも1万5848名(2月10日現在)の方々が丸々1日生きた最後の日です。この日を鎮魂するために、本日、宮城県仙台市の晴れていれば仙台市内を見下ろすことのできる「天国に一番近い場所」泉ケ岳から花火が2万発「ぶっ放され」ます。2万発とは、亡くなった方と行方不明の方のための2万です。この催しは以前に紹介いたしました。残念ながら、天候が良くないとの予報で残念です。

謹んで哀悼の念をお伝えいたします。

  

もうひとつの3月10日があります。東日本大震災が発生しなければ、こちらの方がよく知られた日だと思われます。1945年3月10日未明、東京がアメリカ軍により大空襲をされました。死亡者10万人以上(民間調べ)で、広島、長崎と並んで多くの民間人が亡くなりました。

国の発表では、死者83,793人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸です。東京の3分の1が焼失しました。

1905年、日本は日露戦争の奉天会戦で勝利したためこの日を「陸軍記念の日」としていました。この日を狙ったという説がありますが、定説ではありません。むしろ、この日は季節風が強く3月9日から実行準備をして、日が明けた3月10日に焼夷弾による延焼効果が大きいとの理由から選ばれたとの説があります。

いずれにしても3月10日というのは、たぶん日本人が一日としては一番多く亡くなった日ではないでしょうか。

あらためて、冥福をお祈りいたします。